第7話 言えなかったこと
「千代さん。ちょっと、話があるんだ」
留吉の声には、昨日までとは違う、何か決意めいた響きがあった。
おたきが二人の様子を見て、心得たように口を開いた。
「あたしは先に戻ってるよ。千代、無理はしなくていいからね」
そう言い残し、おたきは長屋の奥へと歩いていった。
夕暮れの路地に、千代と留吉、二人だけが残される。
「その……昼間は、すまなかった。急に妙な聞き方をしちまって...」
「いえ、気にしてませんから」
「いや、気になるだろ。俺だって、いきなり見ず知らずの相手に簪の出所を聞かれたら、面食らう」
留吉は自分の後ろ頭をがりがりと掻いた。
それから、意を決したように顔を上げる。
「実は、清次さんのこと、もう少し話しておきたくてよ...」
「清次さん……」
「俺がこの店に弟子入りしたのは、清次さんがいなくなった後だ。だから、直接会ったことはねえ。けど...」
留吉は少し言葉を選ぶように、間を置いた。
「俺のおふくろが、昔、清次さんに世話になったことがあってな。おふくろが独り身で苦労してた頃、絵の仕事を回してくれたのが清次さんだったらしい。だから俺は、小せえ頃から、清次さんの話をよく聞かされて育ったんだ」
「そう、だったんですね……」
「腕がよくて、優しくて、それでいて、自分の絵に厳しい人だったって。おふくろは、いつもそう言ってた。だから俺、この道に入ったのも、正直、清次さんに憧れたところがあるんだよ」
留吉の声には、これまで千代が聞いたどの言葉よりも、素直な響きがあった。
千代は黙って耳を傾けた。
「その清次さんが、好いた女のために簪を作らせて、渡せねえまま姿を消した。俺はその話を聞くたびに、なんとなく胸のあたりが苦しくなった。会ったこともねえ相手なのにな...」
「渡したかったんでしょうね、きっと...」
千代がぽつりと呟くと、留吉は千代の方を見た。
「千代さんも、そう思うか」
「はい。だって、彫り師の人に頼みに行ったとき、嬉しそうな顔してたって、さっき親方さんが言ってましたから...」
千代の脳裏に、まだ見ぬ清次という男の姿が、ぼんやりと浮かぶ。誰かのために何かを作る。
その過程が、どれほど心を弾ませるものか、千代にはよく分かる気がした。同人誌の表紙を仕上げるとき、コスプレの衣装の最後の一針を通すとき、いつも似たような高揚があった。
「渡す前に、いなくなっちまった理由が、俺にはずっと引っかかっててよ」
留吉はそう言うと、少し声を落とした。
「もしかしたら、渡せなかったんじゃなくて、渡せる状況じゃなかったのかもしれねえ。相手の女が、誰か別の人のところに嫁ぐことが決まってたとか、そういう事情があったのかもしれねえ」
「それで、身を引いた、ってことですか?」
「分からねえ。ただの俺の勘繰りだ。だけどよ...」
留吉は千代の懐に、ちらりと視線をやった。
「その簪が、今、こうして戻ってきた。それも、お前さんみたいな、見たこともねえ格好をした娘の手に。俺には、これがただの偶然とは、どうしても思えねえんだ」
千代は懐の簪に、そっと手を添えた。留吉の言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでくる。
「私にも、まだ何も分かりません。でも……」
千代は少し考えてから、続けた。
「もし何か分かることがあったら、伝えたいと思います。清次さんが渡せなかった想いが、このままどこにも届かないままなのは、なんだか、寂しい気がするから...」
その言葉に、留吉は少し驚いたような顔をした。それから、ふっと表情を緩める。
「変わった娘だな、千代さんは」
「よく言われます」
千代がそう答えると、留吉は小さく笑った。
夕暮れの薄闇の中で、その笑顔は、これまで見せていた硬い表情とは違う、素朴なものだった。
「一つ、心当たりがあるんだ」
「心当たり?」
「清次さんが、よく通ってた茶屋がある。今も、当時からいる女将がやってるはずだ。もしかしたら、何か知ってるかもしれねえ」
「本当ですか...」
「ああ。今度、案内する。一人じゃ、女将も口を割らねえかもしれねえが、事情を話せば」
千代の胸に、小さな灯りが灯ったような気がした。
清次のこと、簪のこと、そして――自分がなぜこの時代に来て、この簪を持っているのかということ。
まだ何も解決していないけれど、少しずつ、糸がたぐり寄せられていくような予感があった。
「ありがとう、留吉さん」
「礼を言われるようなことじゃねえよ。俺だって、気になってたことだ」
留吉は照れくさそうに視線を逸らすと、風呂敷包みを抱え直した。
「もう遅い。送っていく」
「大丈夫です、すぐそこですから」
「いいから。この時間、物騒だ」
留吉はそう言って、千代の少し前を歩き出した。
千代は慌ててその後を追う。
木戸をくぐる直前、留吉がふと足を止めて振り返った。
「なあ、千代さん」
「はい?」
「お前さん、本当に何者なんだ? 訳あり、って言葉じゃ片付かねえ気がするんだが...」
千代は一瞬、言葉に詰まった。本当のことを話しても、信じてもらえるはずがない。
けれど、留吉の目には、これまで感じたどんな視線とも違う、真っ直ぐな色があった。
「いつか、話せるときが来たら……ちゃんと話します」
「そうか...」
留吉はそれ以上追及せず、ただ小さく頷いた。
「待ってる。急かしはしねえよ」
その言葉を最後に、留吉は木戸の外へと戻っていった。
千代はしばらくその背中を見送ってから、ゆっくりと長屋の路地へ足を踏み入れた。
土間では、おたきが夕餉の支度をしながら、こちらの様子を窺っていた。
「話、済んだのかい?」
「はい。留吉さん、清次さんが通ってた茶屋を知ってるんだと。今度、連れてってくれるって言ってました」
「そうかい」
おたきは何かを察したように、小さく笑った。
「よかったじゃないか。少しずつ、糸がほぐれていきそうだね」
千代は頷きながら、懐の簪に、もう一度そっと触れた。
冷たい金属の感触の奥に、まだ見ぬ清次の想いと、これから知ることになるかもしれない真実が、静かに眠っている気がした。




