第6話 私にできること
長屋に戻った夜、千代はなかなか寝付けなかった。
板張りの床に薄い布団を敷いただけの寝床で、天井の木目を見つめながら、頭の中では今日一日の出来事が、繰り返し巡っていた。
清次という絵師のこと。渡せなかった簪のこと。
留吉が見せた、あの複雑な表情。お春の屈託のない笑顔。
井戸端の洗濯の音、団子の甘辛い匂い、版木の見当という工夫――どれも、資料の中の文字としてしか知らなかったものが、今日一日で急に、手触りのあるものに変わっていた。
(帰れるのかな、私...)
その問いが、ふと胸の奥から浮かび上がってくる。
現代の生活が、急に遠く感じられた。
学校のこと、家族のこと、来月のコミケに向けて用意していた衣装のこと。
さくらとの他愛のない会話も、スマホの向こうにある推し活の情報も、今の千代からは手が届かない場所にある。
不安がないと言えば、嘘になる。
けれど、それ以上に千代の心を占めていたのは、別の感覚だった。
(このまま、何もしないで待ってるだけなのは、嫌だな...)
現代にいたときの千代は、いつも何かを作っていた。
イラストを描き、衣装を縫い、お菓子を焼き、同人誌をまとめる。
手を動かしていないと、落ち着かない性分だった。
帰る方法が見つかるまで、ただじっと座って待っているのは、自分らしくない気がした。
千代は布団の中で、そっと自分の手のひらを見つめた。
(私に、ここでできることって、何だろう)
绘を描くことはできる。プロ級ではないけれど、人物や背景の構図を考えるくらいはできる。
裁縫も、コスプレ衣装の制作で鍛えた技術がある。
今日、おたきの着物のほつれを直したときも、それなりに役に立った。
料理やお菓子作りも、家庭料理程度なら一通りこなせる。
そして――同人誌。作る、完成させる、誰かに見てもらう。
あの一連の流れを、千代は誰よりもよく知っている。
(何でも完璧にできるわけじゃない。でも、江戸の人たちが持ってない視点なら、少しはあるかもしれない)
昼間、絵草紙屋で見た浮世絵のことを思い出す。
多色刷りの緻密な技術、分業の仕組み。
千代がどれだけ資料で勉強していても、あの技術には到底敵わない。
けれど、千代が同人誌を作っていたときの経験――どんな表紙が手に取ってもらいやすいか、どんな構成が読みやすいか、そういう「読者目線」や「作り手としての工夫」なら、あの絵草紙屋の職人たちにはない視点かもしれない。
(一方的に教えるんじゃなくて、一緒に作る。それなら、できるかもしれない)
そう考えると、少しだけ、胸の奥にあった不安が和らいだ気がした。
翌朝、千代はいつもより早く目を覚ました。
おたきはまだ支度中で、土間から小さな物音が聞こえてくる。
「おはようございます」
「おや、早いね。よく眠れたかい?」
「あんまり……でも、大丈夫です」
千代はそう答えながら、昨夜考えていたことを、思い切っておたきに切り出してみることにした。
「あの、おたきさん。私、しばらくここに置いていただく間、何か、お手伝いできることはありませんか」
「手伝いだって?」
「ただ厄介になるだけじゃなくて、何か役に立ちたくて。裁縫とか、料理とか、それに――」
千代は少し言葉を選びながら続けた。
「絵とか、ものを作ることなら、少しは得意なので」
おたきは手を止め、千代の顔をまじまじと見つめた。それから、ふっと表情を緩める。
「変わったことを言う娘だね。普通は、しばらくのんびりさせてくれって言うもんだけどねえ」
「すみません。じっとしてるのが、性に合わなくて」
「はは、そうかい」
おたきは少し考え込んでから、竈の方を振り返った。
「そうさねえ……ちょうど、近所のおかみさん連中が、縫い物の内職で困ってるって話を聞いたところだよ。人手が足りないんだと。手先が器用なら、そこに顔を出してみるかい」
「!行ってみたいです」
「気に入られるかどうかは、お前さんの腕次第だけどね」
おたきはそう言いながらも、どこか嬉しそうだった。
朝餉を終えたあと、千代はおたきに連れられて、長屋の一角にある仕立て仕事場を訪ねた。
数人の女性たちが、縫い物を手にしながら忙しそうに手を動かしている。
中心にいたのは、恰幅のいい年配の女性だった。
「おかみさん、この子、縫い物ができるっていうんだよ」
「へえ、そうかい。じゃあ、ちょいとやってみせておくれ」
差し出されたのは、袷の袖の縫い直しだった。
袷とは表地と裏地の二枚の生地を縫い合わせて仕立てた、裏地付きの衣服や着物のことである。
千代は緊張しながらも、針に糸を通し、昨日おたきに教わったばかりの江戸風の縫い方を思い出しながら、丁寧に針を運んでいく。
しばらくして、おかみさんが手元を覗き込んだ。
「ほう……針目が、揃ってるじゃないか」
「まだ、勉強中なんですけどね」
「勉強中でこれなら、上等だよ。どこで習ったんだい?」
「独学が多くて。あとは、おたきさんに少し」
「そうかい。うちは今、人手が足りなくて困ってたところなんだ。よかったら、しばらく手伝ってもらえるかい」
「はい!ぜひ」
思いがけず話が決まり、千代はその日から、仕立て仕事場に通うことになった。
作業をしながら、周りの女性たちの手つきを観察する。
同じ縫い方でも、それぞれに癖があり、工夫がある。
誰かが早く縫えるコツを教えてくれれば、千代もまた、自分が持っている裁縫の知識――現代の洋裁で使う小さな工夫や、コスプレ衣装で培った布の扱い方――を、さりげなく差し出してみた。
「あら、そういうやり方もあるのかい」
「布の癖に合わせて、縫う向きを変えると、少し楽になるかもしれません」
「へえ、面白いこと考えるね、お前さん」
ちょっとした工夫が、思いのほか喜ばれる。
それだけのことが、千代にはたまらなく嬉しかった。
誰かの役に立てているという実感。
同人誌を並べていたときに感じた、あの心臓がきゅっと縮むような嬉しさに、少し似ている気がした。
夕方、仕事を終えて長屋に戻る道すがら、千代はおたきに今日の出来事を報告した。
「おかみさんに、また来ていいって言ってもらえました」
「そりゃよかった」
「私、ここでも何かできることがあるんだって、少し安心しました」
おたきは、千代の顔を横目でちらりと見て、優しく微笑んだ。
「お前さんは、江戸に来たばかりにしちゃ、随分としっかりしてるね。普通はもっと、おろおろするもんだけどさ」
「そう見えますか?」
「ああ。でもね」
おたきは少し声を落として続けた。
「あんまり気を張りすぎるんじゃないよ。分からないことがあったら、遠慮なく頼りな。お前さんは、まだこの町のこと、江戸を何も知らないんだから」
その言葉に、千代の胸が温かくなった。
木戸をくぐり、長屋の路地に入ったところで、見覚えのある人影が立っているのに気づいた。
留吉だった。届け物用の風呂敷ではなく、何も持たずに、少し落ち着かない様子でそこに立っている。
千代とおたきの姿を見つけると、留吉は小さく息を吸い込んだ。
「千代さん。ちょっと、話があるんだ」
その声には、昨日までとは違う、何か決意めいた響きがあった。




