第5話 一枚の浮世絵
「これは……確かに、あの絵師が使っていたやつだ」
親方の一言に、部屋の空気が張り詰めた。
留吉が息を呑む音が聞こえた気がした。
奥の壁際で絵の具を溶いていた別の弟子らしき男も、手を止めてこちらを見ている。
「あの絵師って……?」
千代が思わず尋ねると、親方は簪を丁寧に千代へ返しながら、ゆっくりと語り始めた。
「もう五年も前のことだ。うちで修業してた絵師の卵でね...。腕はまだ荒削りだったが、絵に対する思いだけは、誰にも負けねえ男だった。名は、清次って言った」
親方は懐かしむような、それでいてどこか苦い表情を浮かべた。
「その男が、好いた女に贈るつもりで、これによく似た簪を彫り師に頼んで作らせたんだ。花びらの意匠、この欠け方――間違いねえ。あいつが持ってたのと、そっくりだ」
「その方は、今……」
「さあな。ある日、突然いなくなっちまった。理由は誰も知らねえ。江戸を離れたのか、それとも」
親方はそこで言葉を切った。留吉が代わりに続ける。
「行方知れず、ってことになってる。俺がここに来た頃には、もういなかった。師匠から話を聞かされただけだ」
「贈るつもりだった、ってことは……渡せなかったんですか」
千代が尋ねると、親方は小さく頷いた。
「渡す前に、姿を消しちまったのさ。相手の女の名も、詳しい事情も、誰も知らねえ。清次は口の堅い男だったからな。ただ、簪を彫り師に頼みに行ったとき、随分と嬉しそうな顔をしてたと、彫り師本人が言ってたよ」
千代は自分の手の中にある簪を、改めて見つめた。
花びらの一枚が欠けた、この小さな装飾品。
誰かが誰かを想って作らせ、そして手放された――あるいは、届けられることのなかった贈り物。
「でも、なんでこの簪が、江戸の外から来たっていうお前さんの手にあるんだい」
親方の問いに、千代は言葉に詰まった。
境内の骨董市で、店主が「訳あり」と言っていたこと。
触れた瞬間に、この時代へ来てしまったこと。
説明しようとすればするほど、荒唐無稽に聞こえてしまう。
「それは……私にも、まだよく分からなくて...」
「まあいい。詮索はしねえよ」
親方は意外にもあっさりとそう言うと、机の上に広げていた絵に視線を戻した。
「ただ、その簪を持ってるってことは、何かの縁があるんだろうさ。この稼業、長くやってると、そういう妙なことにも出くわすもんだ。すぐに答えの出ることばかりじゃねえ」
千代はほっと息をついた。
同時に、簪をめぐる謎が、思っていたよりも大きな話につながっていることを実感していた。
誰かの想い、失われた行方、そして自分がなぜその簪を手にしているのか。
糸はまだ、どこにもつながっていない。
お春が場の空気を変えるように、明るく声を上げた。
「ねえねえ、それより親方、この間頼んでた絵、できてる?」
「ああ、あれか。ちょっと待ちな」
親方は立ち上がり、部屋の奥から一枚の絵を取り出してきた。お春が目を輝かせて覗き込む。
「わあ、綺麗……!」
千代もつられて覗き込んだ。
目に飛び込んできたのは、季節の花を描いた、色鮮やかな一枚の浮世絵だった。
「これは……」
千代は思わず声を漏らした。
教科書や資料集の中で、何度も目にしてきた技法だった。
だが、実物を前にすると、まったく違う。
刷りの重なり具合、線の繊細さ、色の境界に生まれるわずかなにじみ。写真や印刷では絶対に伝わらない、紙と絵の具の質感がそこにはあった。
「これ、どうやって刷るんですか? 色が何層にも重なってますよね」
千代が思わず尋ねると、留吉が少し驚いたような顔をした。
「詳しいな。版木を色ごとに彫り分けてよ、一色ずつ、順番に刷り重ねていくんだ。ずれたら、それでおしまいだ」
「版木を、色の数だけ……」
「多いときは十枚を超えることもある。一枚ずれりゃ、それまでの手間が全部水の泡だ」
千代は資料で読んだ多色刷りの仕組みを思い出しながら、目の前の絵と照らし合わせた。
知識としては知っていたつもりだったが、実物の緻密さは、想像していたものを大きく超えていた。
一枚の絵の裏に、何人もの職人の手と時間が積み重なっている。
「見当ってのを使うんだ。版木の隅に小さな印をつけてな、そこに紙の角を合わせりゃ、色がずれずに刷れる」
留吉が指先で、絵の端にある小さな切り込みを示してくれた。
千代はその工夫に、思わず感嘆の声を漏らした。
「見当……そういう仕組みなんですね。すごい、考えた人...」
「当たり前に使ってきたが、そう言われると、確かにようできてるな」
留吉が少し照れくさそうに笑った。
「これを彫ってるのは、親方ですか?」
「彫りは彫り師、刷りは刷り師、絵を描くのは俺たち絵師。それぞれ別の仕事だ」
「なるほど。分業なんですね」
「当たり前だろう?一人で全部やってたら、いくら時間があっても足りねえ」
親方の言葉に、千代は妙に納得した。
同人誌を作っていたときのことを思い出す。
表紙は自分で描いても、印刷や製本は専門の業者に頼んでいた。
得意な人が得意なことをする。
時代が違っても、ものを作るという行為の根っこには、同じ仕組みがあるのかもしれない。
「その絵、気に入ったかい」
親方が千代の様子を見て尋ねた。
「はい。すごく……綺麗で。それに、こうやって出来上がるまでの過程を知ると、もっと好きになります」
千代が素直にそう答えると、親方はふっと目を細めた。
「変わった娘だ。町娘にしちゃ、絵の見方が違う」
その言葉に、千代は少しどきりとした。
慌てて誤魔化そうとしたが、親方はそれ以上追及せず、絵を丁寧に巻き直した。
「まあいい。留吉、その絵、お春の分と一緒に届けといてくれ」
「分かりました」
留吉が絵を受け取りながら、ちらりと千代の方を見た。
何か言いたそうな表情だったが、結局は口を閉じたままだった。
千代もその視線に気づいたが、何を言われるべきか分からず、目を逸らしてしまった。
一同は絵草紙屋を辞し、通りへ出た。
傾き始めた日差しが、軒先の浮世絵をわずかに赤く染めている。
「千代ちゃん、さっきの簪の話……大丈夫?」
歩き出してすぐ、お春が千代の顔を覗き込んできた。
「うん。ちょっとびっくりしたけど」
「訳あり、なんだね」
お春はそれ以上深く聞いてこなかった。
ただ、隣を歩く足取りだけが、少しだけ千代に寄り添うようだった。
「でもさ、絵の話してるときの千代ちゃん、すごく楽しそうだった」
「ん、そうかな」
「うん。目がきらきらしてたよ。あたし、あんな顔で絵の話する子、初めて見た」
お春の言葉に、千代は少し照れた。
現代でも、好きなものについて語っているとき、周りにそう見えていたのだろうか。
考えてみれば、これまでその視線をあまり意識したことがなかった。
「留吉さん、変わった目でこっち見てたね」
留吉が少し先を歩きながら、届け物の風呂敷を抱えている背中を、お春が目で示した。
「そう、かな」
「絵の話、盛り上がってたもんね。あの人、あんまり誰にでも版木の仕組み説明したりしないんだよ」
千代はその言葉の意味を、あまり深く考えないようにした。
今はまだ、簪の謎と、留吉たちとの関係を、どう受け止めればいいのか、自分でもよく分からなかった。
おたきが空を見上げて言う。
「そろそろ日も傾いてきたね。今日はもう、長屋に戻ろうか」
三人は連れ立って、来た道を戻り始めた。
千代は懐の簪に、そっと手を添えた。
冷たい金属の感触。けれど、その奥に、確かに誰かの想いが眠っているのだと、今は分かる気がした。
清次という名の絵師。
想いを込めて作らせたはずの簪。渡せなかった相手。
行方知れずのまま止まった時間。
それらのすべてが、なぜか自分の手の中にある。
(この簪の持ち主は、今どこにいるんだろう。それとも――もう、この世にいないのかな...)
夕暮れの町を歩きながら、千代は静かにそう考えていた。
まだ何も解決していない。
それでも、江戸に来たばかりの頃よりも、少しだけ、この町との距離が縮まったような気がしていた。
長屋への道すがら、井戸端では夕餉の支度をする声が聞こえ始めていた。
誰かの家から漂う味噌の匂い。子どもを呼ぶ母親の声。
その一つ一つが、今日一日で少しずつ、千代にとって近しいものになりつつあった。




