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第4話 長屋の隣人


木戸を出てすぐ、おたきが誰かに向かって手を上げた。


「お春、おはよう」


声のした方を見ると、井戸端に桶を置いた少女が振り返るところだった。

歳の頃は、千代とそう変わらないように見える。


動きやすそうに着物の裾を短めにたくし上げ、髪は簡単に結わえただけの、飾り気のない結い方をしていた。


「おたきさん、おはよう。あら、その子は?」


お春と呼ばれた少女が、千代を見て目を丸くした。

おたきが手短に事情を説明する。


「行き倒れみたいなところを拾ったんだよ。訳ありでね、千代っていうんだ」


「へえ……千代ちゃんか。よろしくね」


お春はあっさりとそう言って、屈託なく笑った。

詮索してこない、その距離感が、千代には少しありがたかった。


「その着物、おたきさんの若い頃の?」


「あはは、よく分かったね!」


「柄で分かるよ。うちのおっかさんも、似たようなの持ってる」


お春は千代の袖の辺りをじろじろと眺めながら、興味深そうに言った。


「千代ちゃんはどこから来たの? 見ない顔だけど」


「えーっと……ちょっと、遠くから」


「ふうん?まあいいや。それより、これから出かけるの?」


「留吉んとこの親方に、用があってね」


おたきが答えると、お春は納得したように頷いた。


「ああ、絵草紙屋の。あたしもちょうど、そっちの方に行くとこ。一緒に行こうよ」


三人で連れ立って歩き出す。お春は千代の隣に並ぶと、あれこれと話しかけてきた。


「千代ちゃん、その髪の結い方、変わってるね」


「あ、これは……おたきさんに、結ってもらって」


「へえ。ねえ、あそこの店、知ってる? 甘い物、売ってるんだけど」


お春が指差した先には、小さな店先があった。

串団子らしきものが並んでいる。

千代は思わず足を止めそうになった。

資料でしか見たことのなかった、江戸の団子屋の実物。


「あとで寄ろうよ。あたし、あそこの団子好きなんだ」


「食べたこと、あるの?」


「もちろん。おっかさんが小遣いくれた日はね」


そう言いながらも、お春の足は自然と団子屋の方へ向いていた。おたきが呆れたように笑う。


「お春、留吉んとこに行く途中だろう」


「ちょっとだけだよ。ね、千代ちゃんも初めてでしょ」


押し切られる形で、三人は団子屋の店先に立ち寄った。

焼きたての団子の匂いが、甘辛い醤油の香りと混じって漂ってくる。

店の女将が愛想よく声をかけてきた。


「あら、おたきさん、いつもの?」


「ああ、三本もらおうか」


小銭を払うと、女将は炭火であぶった団子を手渡してくれた。

千代はそれを受け取り、まず匂いを確かめ、それから一口かじる。

醤油だれの香ばしさと、団子のもちもちした食感。

現代のコンビニで買う団子とは、粉の粗さも甘みの付き方もまるで違う。


「美味しい……!」


「ふふっ、でしょ?」


お春が得意げに胸を張った。三人で歩きながら団子を頬張る、たったそれだけのことが、千代にはひどく嬉しかった。


誰かと一緒に、何かを美味しいと分かち合う時間。

江戸に来てからずっと張り詰めていた気持ちが、少しだけ緩んだ気がした。


「千代ちゃんは、何して遊んでたの? もといた所で」


その質問に、千代は少し詰まった。

お手玉やお店屋さんごっこの話をされても、答えられる自信がない。


かといって、コミケや同人誌の話をそのまま説明するわけにもいかなかった。


「えっと、絵を描いたり……何か、作ったりするのが好きで」


「絵! あたしも好きよ!上手じゃないけど」


お春はそう言うと、道端に落ちていた小枝を拾い、地面に何やら描いて見せた。

単純な線画だったが、そこには確かな親しみやすさがあった。千代は思わず笑みがこぼれた。


「上手だよ、それ」


「え〜、お世辞でしょ?」


「本当に。線の勢いが、いいと思う」


お春は少し照れくさそうにしながらも、嬉しそうだった。


「千代ちゃんも描くの、見せてよ!」


「今度ね。今、手ぶらだから」


「約束だよ」


そんな他愛のないやり取りをしながら、三人は再び留吉のいる絵草紙屋へと歩き出した。


歩きながら、千代は井戸端での洗濯の様子や、道端で遊ぶ子どもたちの様子を、改めて眺めた。


資料集めで何度も見てきたはずの光景だったが、実際にそこに人の息遣いがあると、まったく違う手触りがある。


井戸端の会話には笑い声が混じり、子どもたちの遊びには、資料には書かれていないルールや掛け声があった。


羽根つきに似た遊び、縄を使った遊び、それぞれに独特の節回しの歌がついている。


「資料の江戸」は、静止画だった。町並みも、暮らしも、決まった形で切り取られている。

けれど、目の前にあるのは、絶え間なく動き続ける、生きた江戸だった。


(本の中の江戸と、本物の江戸は、違うんだ)


その違いに触れるたび、千代の胸の中で何かがじわりと満たされていくような感覚があった。


同時に、これまで積み重ねてきた資料集めの知識が、決して無駄ではなかったことも実感していた。


知識があるからこそ、目の前の景色の意味が分かる。

知識だけでは、この温度までは分からなかった。

両方が揃って、初めて見えてくるものがある。


やがて、一行は絵草紙屋の店先に到着した。

軒先には、色鮮やかな浮世絵が何枚も吊るされている。


役者絵、風景画、様々な絵柄が、通りを行く人々の目を引いていた。

店先には数人の客が集まり、値段交渉をする声や、絵柄を褒める声が飛び交っている。

千代は思わず足を止めて、その光景に見入った。


印刷された浮世絵が、こうして日常の中で当たり前に売り買いされている。

それだけで、資料集めをしていたときには感じられなかった、確かな熱量が伝わってきた。


「留吉さーん、いる?」


お春が店先から声をかけると、奥から留吉が顔を出した。

千代の姿を見て、一瞬だけ表情が硬くなる。


「おたきさん……それに、千代さんも」


「留吉、親方はいるかい」


「ああ、奥に。ちょうどいい、来てくれ」


留吉に案内されて、店の奥に通される。

表の賑わいとは打って変わって、奥は静かだった。


木の匂いと、絵の具や膠のような独特の匂いが漂っている。

壁際には、描きかけの版下絵や、乾かしている最中らしき色刷りの紙が並んでいた。


その一角で、白髪交じりの初老の男が、机に向かって絵筆を動かしていた。


千代たちが入ってくると、顔を上げる。


「おたきさんかい。それに……」


親方と呼ばれた男の視線が、千代の懐に留まった。

おたきが渡した着物越しにも、簪の輪郭がわずかに見えていたのかもしれない。

しばらくの間、親方は千代の顔と、その懐とを、交互に見比べていた。


「留吉から聞いたよ。その娘さんが持ってる簪のこと」


親方は、絵筆を置いて千代の方に向き直った。

その目には、留吉が見せたのと同じ、戸惑いにも似た色が浮かんでいた。

お春も、ただならぬ空気を察したのか、口を挟まず静かに成り行きを見守っている。


「その簪、ちょいと見せてもらえるかい」


千代は懐から、そっと簪を取り出した。

指先が、わずかに震えていた。


親方はそれを受け取ると、しばらく無言のまま、じっと見つめた。

花びらの一枚が欠けた、銀色の細工。


光にかざしたり、裏返したりしながら、何かを確かめるように何度も眺めている。


奥の部屋には、誰の息遣いも聞こえないくらいの静寂が満ちていた。


やがて、親方は静かに口を開いた。


「これは……確かに、あの絵師が使っていたやつだ」



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