第3話 着物の袖と、知らない暮らし
おたきが取り出したのは、藍色に細かい縞模様の入った着物だった。
少し色褪せてはいるが、丁寧に仕立てられているのが一目でわかる。
「これ、あたしが若い頃に着てたやつでね。今のお前さんの体には、少し大きいかもしれないけど」
「貸していただいて、いいんですか」
「いいから、袖を通してごらん」
千代は制服を脱ぎ、おたきに手伝ってもらいながら着物に袖を通した。
帯の結び方も分からず、おたきが後ろから手を添えて教えてくれる。
「こう、たすき掛けにして……あぁ、違う違う!もっとこう、体に沿わせて...」
千代は資料で帯の結び方の図を何度も見たことがあった。
次回のコミケに出るまでに着付けを学ばなければならないと思っていたが、衣装を作ることばかり考えていたので実践は実は初めてなのだ。
頭では知っているつもりでいたが、実際に自分の体で結ぶとなると、布の張り具合も、力の入れ方も、まるで勝手が違う。
「難しい、です」
「誰だって最初はそうさ。あたしだって、母親に教わったときは、何度も帯を落っことしたもんだよ」
その一言に、千代は少し肩の力が抜けた。
江戸の女性たちにとっても、これは「当たり前にできること」ではなく、積み重ねてきた技術なのだと気づかされる。
ようやく着付けが終わったところで、おたきが千代の袖口に目を留めた。
「おや、こっちの袖、ほつれてるじゃないか」
見ると、右袖の縫い目が少しほどけて、糸が飛び出していた。
長年着られてきた着物らしいので、無理もない。
「なら私が直しましょうか。針と糸、お借りできますか?」
「お前さん、縫い物できるのかい?」
「得意です!」
おたきは半信半疑な顔をしながらも、裁縫箱を出してくれた。
千代は針に糸を通し、袖のほつれた部分に手をつける。
現代の裁縫道具とは、針の太さも、糸の質感も違う。それでも、手縫いの基本的な動きは変わらない。
千代はコスプレ衣装の修繕で何度も鍛えた手つきで、ほつれを丁寧に縫い直していった。
しばらくして顔を上げると、おたきが目を丸くして千代の手元を見つめていた。
「……お前さん、本当に器用だね。針目が、揃ってる」
「よかった。江戸の着物、縫い方が現代のものとは少し違うので、勉強しながらですけど」
「...げんだい?」
千代は、しまった、と口を押さえた。
うっかり口にしてしまった言葉に、おたきは首をかしげたが、それ以上は聞かずに、代わりにこう言った。
「まあいいさ。せっかくだ、今度は、あたしがちゃんとした縫い方を教えてやるよ。お前さんの縫い方も、悪くはないけど、着物にはこの着物の縫い方ってのがあるんだ」
「!ぜひ教えてください!」
おたきは針を持ち直すと、糸の運び方、縫い目の間隔、布の折り方を、実際にやって見せてくれた。
千代がこれまで独学で身につけてきた縫い方とは、細かなところで違いがある。
特に、着物の布は洋服の生地よりも張りが強く、力の抜き方に工夫がいるようだった。
(一つずつ、違う。でも、根っこは同じ)
布と針と糸を扱うという行為そのものは、時代を超えても変わらない。
ただ、そこに積み重ねられた知恵と工夫が、少しずつ違うだけだ。
千代はその違いを、面白いと感じた。
「うーん、髪も、そのままじゃおかしいねえ」
おたきは千代の髪を見て、簡単に結い直してくれた。
本格的な島田髷とまではいかないが、後ろでまとめて簪――おたきが別に持っていたもの――で留めるだけでも、印象はずいぶん変わった。
鏡代わりの水を張った盥を覗き込むと、そこには制服を着ていたときとはまるで違う、江戸の町娘らしき自分の姿があった。
「なんだか、変な感じです」
「似合ってるよ」
おたきはそう言うと、土間の隅から桶を取り、井戸端へと出る支度を始めた。
「支度の前に、洗濯を一つ済ませちまうよ。ついでにお前さんも見ておきな。ここでの暮らし、少しは知っておいたほうがいい」
井戸端では、既に何人かの女性たちが集まって、洗濯物を叩いていた。
おたきが桶を持って加わると、女性たちが千代の姿に気づいて口々に声をかけてくる。
「おたきさん、その子、誰だい」
「行き倒れを拾ったんだよ。訳ありでね」
「へえ、そうかい」
その返事だけで、それ以上詮索してくる人はいなかった。
江戸の長屋という場所には、こういう「訳あり」を受け入れる懐の深さがあるらしい。
千代はそのことに、少しほっとした。
洗濯板を使って着物を洗う様子を、千代は興味深く眺めた。
洗剤の代わりに使う灰汁の匂い、力を込めて布をこすり合わせる動作。
現代の洗濯機とは、まるで違う世界だった。
それでも、目の前の女性たちの手つきには、確かな慣れと効率があった。
一通りの洗濯を終えたところで、おたきが立ち上がった。
「さて、行くとするか」
「留吉さんの、お店ですね」
「ああ。留吉は、絵師の親方のところで修業してる身でね。今日はちょうど、その親方に頼まれ物があるんだ」
おたきは桶を片付けながら、少し声を落とした。
「昨日のあの様子、あたしもずっと引っかかっててね。留吉があんな顔をするのは、余程のことだよ」
千代はポケット――いや、今は着物の懐に移した簪に、そっと手を当てた。
冷たい金属の感触。あの熱は、まだ戻ってこない。
「行きましょう。私も、知りたいです」
二人は連れ立って、長屋の木戸を出た。
通りはすっかり日が高くなり、朝よりも賑やかな声で満ちている。
千代は、慣れない着物の裾を気にしながらも、しっかりとした足取りで、留吉のいる絵師の店へと向かった。




