第2話 江戸の朝ごはん
「どこで、それを手に入れたんだい」
留吉の声には、詰問というより、戸惑いに近い響きがあった。
千代は思わずポケットの中の簪を握りしめる。
「あの……これは、その...」
うまい説明が思いつかず、言葉を濁していると、間に入ったのはおたきだった。
「留吉、脅かすんじゃないよ。この子は今日、行き倒れみたいなところを拾ったばかりなんだ。その簪がどうかしたのかい」
「いや……」
留吉は千代の手元をもう一度見て、それから小さく首を振った。
「すまねえ。似たような簪を、以前見たことがあった気がしてよ。人違いだったかもしれねえ」
その口調には、まだ何か言いたそうな気配が残っていたが、これ以上は追及しないことにしたらしい。
留吉は風呂敷包みをおたきに渡し、届け物の用件だけを手短に済ませると、
「また来る」
とだけ言って、路地の向こうへ戻っていった。
その背中を見送りながら、千代は小さく息を吐いた。心臓が、まだ少し早い鼓動を刻んでいる。
(この簪、やっぱり何かあるんだ...)
境内で「訳あり」と言われたこと、触れた瞬間に江戸へ来てしまったこと、留吉が見せた反応。
偶然とは思えない糸が、少しずつ絡み合っている気がした。
けれど今の千代には、その糸をたどる余裕も、手がかりもなかった。
おたきに促されて、その日はそのまま長屋の隅に布団を借りて眠ることになった。
板張りの床に薄い布団を敷いただけの寝床は、決して寝心地が良いとは言えなかった。
それでも、慣れない一日の疲れのせいか、千代は思ったよりも早く眠りに落ちていった。
目が覚めたのは、外がまだ薄青い時間だった。
どこかで、鶏の声がしている。
千代がゆっくり体を起こすと、土間の方から、とんとんと小気味よい音が聞こえてきた。
「おや、起きたのかい。もう少し寝ていてもよかったのに」
おたきは既に土間に立ち、竈の前で何かを煮ていた。湯気とともに立ち上る匂いに、千代は思わず鼻を動かす。
味噌の匂いだった。ただし、千代が知っているものより、どこか粗野で、力強い香りがする。
「あの、おたきさん、手伝います」
「いいから座ってな。客なんだから」
そう言われても、じっとしているのは性に合わなかった。
千代は結局、おたきの隣に立って、漬物を切る手伝いをすることになった。
まな板の上にあったのは、大根の漬物だった。塩気の強い匂いが漂う。
千代は包丁を借りて、薄切りにしていく。
裁縫で鍛えた手先の器用さは、包丁を扱うときにも役に立った。
「おや、手つき、悪くないじゃないか」
「えっと...料理、好きなので...」
おたきの言葉に、千代は少しほっとして笑った。
現代でも、家庭料理は一通り作れる。
焼き菓子や和菓子作りも、趣味の一つだった。
けれど、竈で火加減を見ながら煮炊きをする経験は、当然、初めてだった。
しばらくして、朝餉の膳が整った。
白いご飯――といっても、千代が知る炊飯器で炊いたものとは、粒の張りも艶も少し違う。
そこに、味噌汁、大根の漬物、そして小さな焼き魚が添えられていた。
「さ、食べな」
千代は箸を取り、まず味噌汁に口をつけた。
一口飲んで、思わず目を見開く。
(濃い……ううん、違う。深い、のかな)
千代が知っている味噌汁より、味噌の風味がずっと強く、出汁の代わりに具材そのものの旨みが前面に出ているような味だった。
決して洗練された味ではないかもしれない。けれど、体に染み込むような温かさがあった。
次に焼き魚を口に運ぶ。
骨が多く、身をほぐすのに少し手間取ったが、脂の乗った身は素朴に美味しかった。
漬物の塩気が、ご飯との相性を引き立てる。
千代は、心のどこかで「自分ならこう工夫するのに」という考えがよぎりそうになったが、すぐにその考えを打ち消した。
この味噌汁も、この魚も、この漬物も、ここに生きる人たちが積み重ねてきた味だ。
自分の物差しで測るものじゃない。
「美味しいです、すごく」
素直にそう言うと、おたきは少し驚いたような顔をしてから、ふっと表情を緩めた。
「そうかい。行儀のいい食べ方をするねえ、お前さん」
「昔から、食べることも作ることも好きなので」
「へえ。じゃあ、そのうち一緒に何か作ってみるかい」
何気ないその一言に、千代の胸の奥が、小さく跳ねた。
現代では、好きなものを作って、誰かに見てもらう。その繰り返しの中で、千代はずっと生きてきた。
この見知らぬ町でも、同じことができるかもしれない。
そう思うと、不安の中に、かすかな灯りが灯ったような気がした。
朝餉を終えたあと、おたきは千代に向き直った。
「さて。お前さんの事情は、詳しくは聞かないでおくよ。訳ありなのは分かるし、こっちも詮索するほど暇じゃない。だけど――」
おたきは少し声を落とした。
「今の格好のまま出歩くのは、やめときな。その格好は目立ちすぎる。あたしの着物を貸してやるから、それに着替えな」
「いいんですか?」
「いいも悪いも、そのままじゃ町を歩けやしないよ。それにね」
おたきは、千代の着ている制服のブレザーを、じっと見つめた。
「昨日の留吉の様子、あたしも気になってたんだ。あの子があんな顔をするのは、珍しい。何か知ってるようだったし……この際だから、はっきりさせといた方がいいだろうね」
千代は、思わず息を呑んだ。
昨夜のうちに眠ってしまった疑問が、また頭をもたげてくる。留吉が見せた反応、簪にまつわる何か。
「留吉さんのところに、行くんですか」
「ああ。ちょうど今日は、あの子の親方の店に用があってね」
おたきはそう言うと、簞笥から一枚の着物を取り出した。
「支度をしな、千代。今日は、留吉の働いてる店に案内してやるよ」




