第1話 知らない町、知っている時代
女性に手を引かれるまま、千代は狭い路地を歩いていた。
(この人、私のお母さんと同い年くらいなのかな...)
「あたしは、たき。近くの長屋に住んでるんだよ。お前さん、名前は?」
「...千代、です」
「千代、ね。あんた、変わった格好してるけど……まあ、事情があるんだろう。ひとまず、うちにおいで」
おたきの足取りは早い。桶を片手に提げたまま、迷いなく路地を折れていく。
千代はその後ろについて歩きながら、目だけを忙しく動かしていた。
両側に並ぶのは、平屋の木造家屋。
軒先には、洗濯物代わりなのか手ぬぐいがいくつも干されている。
道の端には木戸があり、そこを通り抜けると、井戸を囲むようにいくつもの家が並ぶ一角に出た。
(長屋だ。本当に、資料で見たままの――ううん、違う)
資料で見た長屋の図と、目の前の光景は、似ているようで少し違った。
井戸の位置、木戸の高さ、干してある手ぬぐいの柄。図面には描かれない生活の細部が、そこかしこにあふれている。
千代は思わず足を止めそうになったが、おたきに置いていかれそうになって慌てて追いついた。
通りに出ると、商売の声が飛び交っていた。
「さおや、さおだけー」
「あさりー、しじみー」
天秤棒を担いだ物売りが、次々と行き過ぎる。
呼び声の抑揚は、資料の文字で読んだものとは比べものにならないくらい、生きた音として耳に届いた。
千代は江戸の物売りの声を再現した音声資料を聞いたことがあったが、実物は、もっと乱雑で、もっと人間くさかった。
道の端では、天秤棒で担いだ荷を下ろして休む男が、通りすがりの知人と世間話をしている。
子どもたちが数人、駒のようなものを回して遊んでいた。
着物の裾を膝までたくし上げ、素足で駆け回っている。
千代は目に映るものすべてを、頭の中の引き出しに片っ端からしまい込んでいくような感覚だった。
着物の柄、帯の結び方、髪型――女性たちの髪は、江戸時代に流行した代表的な髪型である島田髷に近い形もあれば、もっと簡素な結い方をしている人もいる。
武士らしき二本差しの男を、一度だけ遠くに見かけた。町人とは明らかに違う所作、違う歩き方。
(江戸時代なのは、もう間違いない。でも、正確に何年ごろ――元号でいうといつ頃なんだろう...)
浮世絵や資料で見てきた知識と、目の前の景色を照らし合わせながら、千代は必死に頭の中で年代を絞り込もうとしていた。
髪型や着物の柄から考えると、江戸のかなり早い時期ではなさそうだ。
かといって、幕末の慌ただしい空気とも違う気がする。
もっと落ち着いた、町人文化が成熟した時期――そんな印象を受けたが、確信は持てなかった。
資料でどれだけ勉強していても、実物を前にすると、知識はあくまで手がかりでしかないのだと、千代は思い知らされていた。
「千代、なにぼんやりしてるんだい。着いたよ」
おたきの声でハッと我に返る。目の前には、長屋の一室があった。
小さな土間、奥に、上がり框(玄関の土間と室内の床の境界にある段差に取り付けられる横木や板のこと)、その先に六畳ほどの部屋。
柱は年季が入っていて、壁には染みが浮いている。
それでも、片付けられた部屋の中には、生活の匂いがしっかりと根付いていた。
木製の枠組みに和紙や布を張り、内部の油皿やろうそくを置いた日本古来の伝統的な室内用照明器具と呼ばれる行灯、火鉢、小さな棚に並んだ茶碗。千代は思わず目を丸くした。
「これが……本物の、長屋の中」
「本物も何も、これがうちだよ」
おたきは苦笑しながら、桶を土間に置いた。
それから千代の全身を、改めてじろじろと眺める。
「その格好、どこの見世物だい。それとも、どこぞのお祭りの衣装かい」
千代は言葉に詰まった。まさか自分がタイムスリップして「未来からきました」と説明して信じてもらえるはずがない。
「あの……事情があって、記憶が少し、混乱、していて...」
「へえ...」
おたきは疑わしそうな目をしながらも、それ以上は深く追及してこなかった。
「まあいい。訳ありなのは、見りゃ分かる。今夜はここに泊まっていきな。腹は減ってるだろう」
「そんな...い、いいんですか、いきなり...」
「いいも何も、こんな夕方に、行くあてもなさそうな若い娘を放り出せるかい」
ぶっきらぼうな言い方だったが、そこには確かな親切さがあった。千代は深く頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
千代はふと、握りしめたままだった簪のことを思い出し、制服のポケットに視線を落とした。
あの、境内で触れた瞬間から、なぜか手の中にあったままの簪。
花びらの一枚が欠けた、銀色の飾りだ。
おたきに見られないよう、そっとポケットの中を確かめる。
指先に触れた金属は、もう熱を持っておらず、ただの冷たい簪だった。
(気のせい、だったのかな)
そう思いかけたとき、土間の外から声がした。
「おたきさん、いるかい?」
戸口に現れたのは、若い男だった。
手には風呂敷包みを提げている。
歳の頃は、千代よりいくつか上だろうか。
着物の袖には、絵の具のようなものが染みついていた。
「ああ、留吉かい。今日はもう店じまいかい」
「うん、ちょっと届け物があってさ――」
そこで男は言葉を止めた。
土間に立つ千代の姿に、目を留めたのだ。
千代も、思わず息を止めていた。
男の視線は、千代の顔よりも先に、その手の中を見ていた。
正確には――ポケットの中に半分隠れた、簪の飾りの先端を。
「その簪……」
留吉と呼ばれた男の声が、わずかに強張った。
「どこで、それを手に入れたんだい」




