プロローグ 簪がつないだ、江戸の町
放課後の図書室は、いつも紙とインクの匂いがする。
千代はその匂いが好きだった。
新刊コーナーの端、江戸時代の暮らしを特集したムック本の前で、千代は今日も足を止めていた。
表紙には浮世絵の複製が使われていて、色の濃淡がスマホの画面越しに見るのとはまるで違う。
刷りの荒さ、紙の黄ばみ、そういう「本物っぽさ」に、千代はいつも引き寄せられる。
「まーた江戸?」
友人のさくらが呆れたように笑いながら隣に立つ。
さくらは千代の小学校時代からの長い付き合いだ。
「うん。来月のコミケ、『月影忍法帖』の桜乃の衣装で参加しようと思ってて。今、資料集めしてるところ」
「あー、あのアニメの……えっと、忍者の話だっけ?」
「忍者っていうか、表向きは呉服屋の娘なんだけど、裏では――」
語り出すと止まらなくなりそうな自分に気づいて、千代は苦笑いしながら口を閉じた。
原作小説からアニメ化されたとき、桜乃の衣装考証がすごく丁寧だったこと。
二期でようやく明かされる出自の伏線が、実は一期の帯の柄に隠されていたこと。
話したいことは、いくらでもあった。
「...ごめん、つい...」
「いいけど、その熱量、資料集めにも出てるよね」
千代はムック本のページを指でなぞった。
載っているのは、桜乃が作中で着ているのと似た柄の帯や、当時の呉服に関する資料だ。
「桜乃の衣装、生地の柄まで再現したくて。アニメだと省略されてるところ、本物の江戸の柄を調べて、もっと近づけたいんだよね」
さくらが呆れながら言う。
「千代ってほんと器用だよね〜。昔から手描きでもデジタルでも絵を描くし、コスプレの衣装も一から作っちゃうし、推しキャラの誕生日には毎回手作りのケーキとか作るし……ほんとマメというか、更には歴史という趣味まで……幅広すぎでしょ」
「好きなことが多いだけだよ」
千代は軽くそう答えて、視線をまたページに戻した。長屋の見取り図、井戸端の暮らし、担ぎ売りの魚屋。教科書には載らない、生活のディテール。
歴史が好きなのは、偉い人の年表よりも、こういう「普通の人たちがどう暮らしていたか」を知るのが楽しいからだった。
推し活も同じだ。千代にとって推しは、ただ騒ぐ対象じゃない。
好きになった作品やキャラクターを、自分の手で何かの形にする。
イラストを描く。同人誌にまとめる。コスプレの衣装を縫う。
完成させて、誰かに見てもらう。
その一連の流れそのものが好きだった。
中学のときに初めて作った十六ページのコピー本。
あれを島の隅で震えながら並べた日のことを、千代は今でもよく覚えている。
手に取ってくれた人が「かわいい」と言ってくれたときの、心臓がきゅっと縮むような嬉しさ。
あの感覚を、また味わいたくて、今も何かを作り続けている。
図書室を出て、千代は家に帰るとすぐ、机の上に広げっぱなしだった衣装の型紙に手をつけた。
襟の合わせをどうするか、まだ決めかねている。
本物の着物と同じ縫い方にするのは難しいけれど、せめて雰囲気だけでも近づけたい。
裾の始末をどうするか考えながら、資料写真とにらめっこしていると、窓の外がいつの間にか夕暮れ色に染まっていた。
「……ちょっと、外の空気吸ってこようかな」
千代は針を置いた。
千代は財布とスマホをポケットに入れると、制服のまま玄関を出た。
家から近い神社の境内では、月に一度の骨董市が開かれていた。
古着物や古道具が並ぶその一角を、千代は覗くのが好きだった。
今日はちょうど最終日らしく、店主たちがそろそろ店じまいの支度を始めている時間帯だった。
隅の方に、古い簪や櫛を並べた露店があった。
店主らしき年配の男性が、他の客に何か話しかけられていて、千代はその隙にしゃがんで品物を眺める。
その中に、一本の簪があった。
銀色の細工に、小さな花の飾りがついている。値札はついていない。
よく見ると、花びらの一枚が少し欠けていた。
誰かが長く使い込んだのか、それとも――何かの事情があって、手放されたものなのか。
店主が、ふと千代の視線に気づいて言った。
「ああ、それかい?訳ありでね、値がつけられなくて置いてあるだけなんだ。触ってみるかい」
「いいんですか?」
「構わないよ。もう、店じまいの品だから」
千代は少し迷ったが、指先を伸ばした。
冷たい金属の感触が、指先に触れる。その瞬間――
ふっと、視界が歪んだ。
境内の喧騒が、遠くなる。
夕方の空気の匂いが変わる。
線香とほこりの匂いから、土と、薪を焚く煙の匂いへ。
耳の奥で、何かがぐるりと回転するような感覚があった。
目を開けると、千代は知らない場所に立っていた。
舗装されていない道。両側に並ぶ、木造の低い建物。軒先には、見たことのない形の看板が下がっている。行き交う人々は、着物姿ばかりだった。
スマホを取り出そうとポケットに手を入れる。
画面をつけても、電波は入っていない。
時刻表示だけが、さっきと変わらない時間を示していた。
その数字の羅列だけが、妙に現実味を失って見えた。
――夢、かもしれない。
そう思おうとしたけれど、鼻先をかすめる煙の匂いも、足の裏に伝わる土の感触も、あまりにはっきりしていて、夢だと決めつけることができなかった。
何より、こんなに細かいところまで、自分の想像力で作り出せるとは思えなかった。
――なら、時代劇の撮影?
最初に浮かんだのは、それだった。
けれど、周囲を見回しても撮影スタッフらしき人影はない。
照明も、カメラも、現代の建物も見当たらない。
千代は、無意識に周囲を観察していた。
建物の造り。人々の服装。履物。看板。荷物を運ぶ道具。
どれも、現代の時代劇のセットにしては妙に細かい。
江戸時代の町並みを紹介する本なら、何冊も読んできた。
だからこそ、違和感が分かる。
これは「江戸風の町」ではないのだ。
江戸時代の暮らし、そのものに見える。
千代は通りの先を見た。人の流れ。商いの声。木造の家々。そして、道を行き交う人々。
頭の中で、これまで読んできた歴史資料の断片が一つずつつながっていく。
「……ここはまさか……本物の……江戸なの……?」
やっと出てきた言葉を口にしてみても、到底信じられなかった。
ただ、静かに、か細い声と共に体の奥から震えるような実感だけが広がっていく。
背中を、冷たい汗がすうっと伝った。
手のひらにもじっとりと汗が滲んでいる。
通りの向こうから、天秤棒に桶をぶら下げた女性が歩いてくる。
千代の母親と同じくらいの年頃に見える女性だ。
着物の裾を軽くたくし上げ、素足に草履。
髪は、千代が資料で何度も見た形に結い上げられていた。
実物を見るのは、当然、初めてだった。
近づいてくる女性から、桶の中に入っているであろう売り物の魚の匂いがふわっと漂ってきた。
道端には水が流れた跡があり、土がところどころ濡れている。
その女性が、千代の姿を見て、ぴたりと足を止めた。
「お前さん……そんな格好で、どこから来たんだい」
声には、警戒よりも戸惑いのほうが強くにじんでいた。千代は自分の服装を見下ろした。
学校を出たときのままの、ブレザーとプリーツスカート。周りの誰とも、あまりに違う服装。
声を出そうとして、うまく言葉が出てこなかった。
何年も本の中で眺めてきた景色が、今、自分の周りに立体として存在している。
資料集めをするたびに思い描いていた匂いや音や光が、想像とは少しずつ違う形で、確かにそこにあった。
女性は千代の様子を見て、怪訝そうな顔をしながらも、桶を置いて手を差し伸べた。
「...あんた、訳ありかい?ともかく、そんなところにぼーっと突っ立ってちゃ危ないよ。うちにおいで」
千代は、その手を見つめた。
帰る方法も、ここが正確にいつの年代なのかも、まだ何もわからない。
ポケットの中で、あの簪を握りしめていることに、今更ながら気がついた。
境内で触れたはずのそれは、いつの間にか千代の手の中に収まっていた。
それでも、目の前に差し出された手を取らない理由はなかった。
「……ありがとう、ございます」
千代がその手を握ったとき、夕暮れの江戸の空に、烏の声が響いた。
女性に連れられて歩き出しながら、千代はふと、簪を握った手のひらに、かすかな熱のようなものを感じた気がした。
それが何なのか、確かめる余裕は、まだなかった。
ーー制服姿の少女が、江戸に足を踏み入れた瞬間だった――




