第20話 お春の工賃
その日、仕立て場に現れたお春は、珍しく不機嫌そうな顔をしていた。
「お春ちゃん、どうしたの?」
千代が声をかけると、お春は針を持つ手を止め、小さくため息をついた。
「実はね...、おっかぁが請け負ってる内職の工賃、ここひと月分、まだもらえてないんだ...」
「ひと月分!?それは......大変だね」
「頼んできた商家の番頭が、『今度払う、今度払う』って、もう三回も同じことを言われてる...。今月の店賃だって、もうすぐ迫ってるのに...」
お春の声には、いつもの明るさが影を潜めていた。
千代は箸を置き、真剣な表情で尋ねた。
「詳しく聞かせてくれる?」
「うん......」
お春はぽつぽつと事情を語り始めた。
お春の母親は、機織りと縫い物の内職を、近所の商家からいくつも請け負っていた。
夫を亡くしてから、その内職だけが、母娘の暮らしを支える頼みの綱だった。
「先月から急に、あそこの商家、支払いが遅れるようになったの...。前は、月末にはちゃんと払ってくれてたのに...」
「他に理由とか、心当たりはあるの?」
「よく分からない。ただ、番頭さんの態度が、なんだか前より横柄になった気がする...」
千代は眉をひそめた。
相手の態度が変わったということは、こちらを軽んじる何かがあったのかもしれない。
「その内職、どんな約束で始めたの?」
「特に何も。口約束で、『いつもの通り、月末にまとめて払う』って言われただけ」
「証文とか、書き付けみたいなものは、ないの?」
「うちみたいな内職じゃ、そんなもの作らないのが普通だよ。信用第一で、これまでずっとやってきたし...」
千代は少し考え込んだ。
江戸の商いの慣習が、現代とは違うことは分かっていた。
それでも、こういう状況で、何もできないままでいるのは、もどかしかった。
「お春ちゃん、いつ、どれだけの仕事をしたか、記録してる?」
「記録?」
「例えば、何月何日に、何をいくつ納めたとか。書き留めておくと、あとで揉めたときに、証拠になるかもしれない」
お春は驚いたように、千代の顔を見た。
「...そんな考え方、したことなかった...」
「私も、いつ何をどれだけしたか、簡単に記録してたことがあって。うっかり忘れられたり、勘違いされたりしたときに、役立つことがあったから」
千代の言葉に、お春は少し考え込んだあと、頷いた。
「今からでも、記録つけてみようかな」
「うん、それがいいと思う。それと、これまでの分について、もう一度、はっきりと確認しに行った方がいいかもしれない」
「番頭さんのところに、直接?」
「うん。曖昧にしておくと、向こうも、つい後回しにしちゃうかもしれないから」
お春は少し不安げな顔をしたが、千代の言葉に背中を押されるように、頷いた。
「一人だと、ちょっと心細いな...」
「私も一緒に行こうか?」
「本当に?ありがとう、千代ちゃん」
その日の夕方、千代とお春は、お春の母親とともに、内職を頼んでいる商家を訪ねた。
道すがら、お春の母親は緊張した面持ちで、何度も襟元を整えていた。
「あたし、こういうこと、言うのが苦手でねえ...。いつも、向こうの言い分を、そのまま飲み込んじまう...」
「大丈夫です。今日は、記録もありますし、私も一緒にいます!」
千代の言葉に、お春の母親は少し安堵したように頷いた。
商家に着くと、番頭の男は、二人の来訪に、少し面食らったような顔をした。
「これは、これは。何のご用でしょう」
「こ、工賃のことで、伺いました...」
お春の母親が、緊張した面持ちで切り出した。
番頭は愛想笑いを浮かべながら、言葉を濁した。
「ああ、その件でしたら、近々、必ず」
「近々とは、いつ頃でしょうか?」
千代が横から、穏やかにだが、はっきりと尋ねた。
番頭は一瞬、言葉に詰まった。
「それは、その......店の都合もありまして」
「これまで、何月何日に、どれだけの品をお納めしたか、こちらで控えを取っております」
千代はそう言うと、お春が急いでまとめた記録の紙を、番頭の前に差し出した。
日付と、納めた品の数が、簡潔に書き記されている。
番頭は、その紙をしばらく見つめた。
「随分と、細かく書いてありますね」
「はい。ですので、いつ、いくらお支払いいただくべきか、はっきりしております。もし、お店の都合が難しいようでしたら、いつ頃なら可能か、日にちだけでも教えていただけますか」
千代の落ち着いた物言いに、番頭は少したじろいだ様子を見せた。
周りにいた他の奉公人たちも、何事かとこちらの様子を窺っている。
番頭は気まずそうに視線を泳がせながら、しばらく考え込んだ。
「実は......うちの店も、少し懐が寂しくてね...。ついつい、後回しにしてしまいまして...」
その正直な告白に、千代は少し表情を和らげた。
「事情がおありなら、無理にとは言いません。ただ、いつ頃なら可能か、目安だけでも教えていただけると、こちらも助かります」
「......分かりました。三日後には、必ずお支払いいたします」
「ありがとうございます。それでは、三日後に、改めて伺わせていただきます」
千代がそう言うと、番頭は気まずそうに頷いた。
商家を出たあと、お春の母親は、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「千代ちゃん、ありがとうね!あたし一人だったら、また『近々』の一点張りで、うやむやにされてたと思うよ...」
「記録があったから、はっきり言えたんだと思います。お春ちゃんが、ちゃんと書き留めてくれたおかげです」
「あたしも、初めてやってみたけど、こんなに違うんだね」
お春は感心したように、自分がまとめた記録の紙を見つめた。
三日後、約束通り、番頭から工賃が支払われた。
お春の母親は、受け取った金子を握りしめ、目に涙を浮かべた。
「本当に、助かったよ」
「よかったです、無事に」
千代がそう言うと、お春が横から、ぎゅっと抱きついてきた。
「千代ちゃん、ありがとう!本当に、心強かった!」
「私も、少しでも力になれてよかった」
お春の母親は、千代の手を取り、深々と頭を下げた。
「千代ちゃんがいなかったら、あたし、また泣き寝入りしてたと思うよ。本当にありがとうね...!」
「いえ、お春ちゃんが、ちゃんと記録をつけてくれたからです。私は、ちょっとしたやり方を伝えただけで」
「その、ちょっとしたやり方が、あたしらには思いつかなかったんだよ」
お春の母親はそう言うと、懐から小さな包みを取り出した。
「これ、お礼と言っては何だけど、受け取っておくれ」
包みの中には、手作りの梅干しが入っていた。
千代は恐縮しながらも、その気持ちを受け取ることにした。
「ありがとうございます。大切にいただきます」
長屋への帰り道、お春がしみじみと呟いた。
「記録をつけるとか、はっきり言うとか、これまで考えたこともなかった。でも、こういう考え方があるって知ってるだけで、全然違うんだね」
「うん。知恵は、持ってるだけで、いざというときの力になるから」
千代の言葉に、お春は深く頷いた。
「あたしも、これからは、ちゃんと記録つけるようにする。今度、他の内職仲間にも、教えてあげようかな」
「そうね、いいと思う。困ってるのは、お春ちゃんのお母さんだけじゃないかもしれないし」
「うん、そうだね。みんなで、ちゃんと自分の仕事を守れるようになれたらいいな」
お春の言葉に、千代は温かい気持ちが広がるのを感じた。
一つの小さな知恵が、お春の家族だけでなく、これから他の誰かの助けにもなっていくかもしれない。
二人は夕暮れの道を、肩を並べて歩いた。
千代は、現代で当たり前に身についていた、ほんの小さな知恵が、こうして誰かの暮らしを守る力になったことに、静かな喜びを感じていた。
木戸をくぐると、おたきが土間から顔を出した。
「おかえり。何か、いいことでもあったのかい?二人とも、いい顔してるよ」
「はい、色々あって」
千代がそう答えると、お春が今日の出来事を、身振り手振りを交えながら、嬉しそうに語り始めた。
おたきはその話に、感心したように耳を傾けていた。
「千代は、本当に、頼りになる娘だね」
おたきの言葉に、千代は照れくさそうに笑った。
(好きなことも、当たり前の知恵も、誰かの役に立てるんだ)
そう思いながら、千代は夕焼けに染まる空を見上げた。
江戸での日々が、少しずつ、確かな手応えを持って、千代の心を満たしていた。




