第20話 上方への算段
「近江屋まで、どうやって行けばいいでしょうか?」
夕餉のあと、千代は改めて留吉に相談を持ちかけた。
おたきも心配そうに、二人のやり取りに耳を傾けている。
囲炉裏の火が、ぱちぱちと小さな音を立てていた。
「上方までは、歩いて十日はかかる。俺たちが揃って行くのは、正直、難しい」
留吉の言葉に、千代は肩を落とした。
距離という現実の壁が、想像していたよりも重くのしかかってくる。
地図でしか見たことのなかった上方への道のりが、こうして具体的な日数として突きつけられると、改めてその遠さを実感した。
「十日......路銀も、かなりかかりますよね」
「ああ。旅籠代に、道中の飯代。安く見積もっても、そう簡単に用意できる額じゃねえ」
旅籠というのは、江戸時代を中心に街道の宿場町で旅人に食事と宿泊を提供していた施設。いわゆる旅館のことだ。
「手紙だけでも、届ける方法はないでしょうか?」
「飛脚を使う手はある。だが、正確な住まいが分からねえと、届けようがねえ」
飛脚とは、現代の郵便や宅配便の原型となるものだ。
新幹線も飛行機もない時代でありながら、江戸から京都・大坂(大阪)までの約500kmも、わずか3~4日という驚異的な速さで人力や馬を使って届ける。
「屋号だけじゃ、駄目なんですか?」
「近江屋って屋号は、上方にゃ、いくつもあるかもしれねえ。紙問屋に絞ったところで、確実とは言えねえな」
千代は唇を噛んだ。せっかく手がかりを掴んだというのに、そこから先に進む道筋が、思いのほか険しい。
おたきが、思案するように口を挟んだ。
「誰か、上方に商いの伝手がある人はいないのかい。行商人でも、なんでも」
その一言に、千代は思い当たった。
「権助さんのところ、本の仕入れで、上方とやり取りしてませんでしたか?」
「そうか、権助か...!」
留吉も目を見開いた。
翌日、千代と留吉は、揃って絵草紙屋を訪ねた。
事情を話すと、権助はしばらく考え込んでから、頷いた。
「上方の紙問屋なら、うちの商売相手にも、何軒か知り合いがいる。近江屋って屋号、聞いたことがあるかどうか、確かめてみるよ」
「本当ですか...!」
「ああ。次の仕入れの便りに、ついでに聞いてみる。ただ、返事が来るまで、ひと月はかかるだろうな」
「ひと月......」
千代は少し落胆したが、それでも手がかりが見つかる可能性があるだけで、心強かった。
「気長に待つしかねえな。ただ、それまでの間、何もしないで待ってるだけってのも、勿体ねえ」
権助はそう言うと、千代の方をちらりと見た。
「せっかくだ、その間、うちの店の新しい企みを手伝ってくれねえか」
「新しい企み、ですか?」
「ああ。近頃、若い娘たちの間で、贔屓の役者絵を集めるのが流行っててな。うちでも、そういう品を扱ってみようと思ってるんだ」
千代の胸が、思わず高鳴った。
役者絵――それは、まさに江戸の「推し活文化」そのものだった。
現代で、推しのグッズを集め、部屋に飾り、友人と語り合っていた日々が、脳裏に鮮やかに蘇る。
「今、うちで扱ってる役者絵は、どれも似たり寄ったりの構図でな。もっと、贔屓にしてる客の心を掴むような、新しい見せ方ができねえかと思ってるんだ」
「絵を描くのは、留吉が中心になる。だが、どんな品にするか、構成やら見せ方やらを、もう少し工夫したいと思っててな。千代、お前さんの知恵を、また借りたい」
「はい、ぜひ」
千代は迷わず頷いた。頭の中では、既にいくつかのアイデアが浮かび始めていた。
役者の魅力を凝縮した一枚絵、贔屓筋だけに向けた限定の品、複数の絵を集めることで完成する連作――現代の推し活グッズの発想が、次々と頭に浮かんでくる。
「例えば、一枚だけじゃなくて、何枚か揃えると意味が生まれるような仕掛けは、どうでしょう?」
「揃えると、意味が生まれる?」
「はい。役者さんの色んな表情や場面を、少しずつ集めていく楽しみっていうか。全部揃えたときに、特別な一枚が見られる、みたいな」
権助は目を丸くして、それから、にやりと笑った。
「面白えな、それ。詳しい話は、また今度、じっくり詰めよう」
上方からの返事を待つ間、この新しい仕事に取り組むことで、少しでも前向きな気持ちを保てそうだった。
権助の言葉に、千代と留吉は頷いた。
店を出ると、夕暮れの空が、橙色に染まり始めていた。
「お葉さんのこと、気掛かりだが...」
留吉がぽつりと呟いた。
「はい。でも、今できることを、精一杯やろうと思います」
「そうだな。焦っても、仕方ねえ」
二人は並んで、長屋への道を歩いた。
「役者絵の企み、千代さんなら、きっと面白いものを思いつくんだろうな」
「頑張ってみます。それに...」
千代は少し考えてから、続けた。
「もし、この企みがうまくいったら、その儲けを、お葉さんを訪ねる旅の路銀に、少しでも充てられたらいいなって...」
留吉は驚いたように千代を見た。
「そこまで考えてたのか」
「はい。ただ待つだけじゃなくて、できることをしながら、いつか近江屋まで行ける日のために、準備しておきたくて」
千代の言葉に、留吉は感心したように頷いた。
「千代さんは、本当に、前向きだな」
「そうでもないです。ただ、じっとしてるのが、性に合わないだけで」
千代はそう言って、少し照れくさそうに笑った。
「それに、役者絵の仕事自体、純粋に楽しみでもあるんです。好きなものを応援する気持ちを、形にする手伝いができるなら」
「千代さんらしい考え方だな」
留吉はそう言うと、夕暮れの空を見上げた。
「俺も、お前さんに負けねえように、いい絵を描かねえとな」
「はい、期待してます」
二人は顔を見合わせて笑いながら、長屋への道を歩いた。
途中、通りの露店で、夕餉の菜を買う人々の姿が見える。
日常の営みが、今日も変わらず続いていることに、千代はどこか安心感を覚えた。
長屋に戻ると、おたきが夕餉の片付けをしながら、二人の帰りを待っていた。
「どうだったんだい?」
「権助さんが、上方の伝手を辿ってくれることになりました。それと」
千代は今日決まった、役者絵の新しい企みについても話した。おたきは興味深そうに耳を傾け、話が終わると、優しく微笑んだ。
「お前さんは、次から次へと、忙しくしてるねぇ」
「好きなことばかりなので、苦にならないです」
「そういうところが、お前さんらしいよ」
おたきはそう言うと、火鉢に炭を足しながら、しみじみと呟いた。
「清次さんとお葉さんの想い、いつか、ちゃんと形になるといいね」
「はい、私も、そう願ってます」
おたきの言葉に、千代は静かに頷いた。
清次とお葉の物語に、いつか良い結末が訪れるように。
そして、この町での新しい挑戦にも、精一杯向き合っていこう。
そう心に誓いながら、千代は静かに夜を迎えた。
窓の外では、夜空に星が瞬き始めていた。
上方までの遠い道のりと、目の前の新しい仕事。
二つの想いを胸に抱きながら、千代の江戸での日々は、また新しい一歩を踏み出そうとしていた。




