第19話 刷り直しの危機
留吉の一件から数日後、千代はいつも通り、権助の本屋を訪ねた。
摺りの手伝いにも、すっかり慣れてきた頃だった。
けれど、店に入るなり、異様な空気が漂っているのに気づいた。
作業場では、職人たちが慌ただしく動き回り、権助が険しい顔で刷り上がった本を睨みつけている。
「権助さん、何かあったんですか?」
「千代、ちょうどいいところに......いや、良くはねえんだが...」
権助は苦い顔で、刷り上がったばかりの一冊を千代に見せた。
「これ、見てくれ...」
千代は本を受け取り、ページをめくった。
物語の途中、明らかに文章がおかしい箇所があった。
前後の脈絡が繋がっておらず、同じ文言が二度繰り返されている。
「これは......」
「彫り師が、版木を彫る順番を間違えちまったんだ。もう三百部近く、刷り終わっちまってる」
千代は思わず息を呑んだ。
三百部という数の重さが、じわりと伝わってくる。
作業場の隅には、刷り上がった本が山のように積まれていた。
どれも、同じ間違いを含んだまま、既に完成品として並んでいる。
「これ、全部、売り物にできないんですか...?」
「間違ったページをそのまま売るわけにはいかねえ。うちの店の信用に関わる...」
権助の声には、苛立ちよりも、疲労の色が濃く滲んでいた。
「刷り直す、しかないんですか...?」
「ああ...。だが、間違えた版木を彫り直すのに、何日もかかる。その間、他の仕事も止まっちまう...。えらいことになった...」
作業場には、重い空気が満ちていた。
彫り師の男が、うなだれるように座り込んでいる。
年の頃は、まだ二十歳そこそこだろうか。
震える声で、権助に頭を下げた。
「すみません、権助さん!俺の確認が甘かったっ...!」
「今更、謝ってもどうにもならねえよ...」
権助の言葉は厳しかったが、その声には、責める以上に困り果てた響きがあった。
周りの職人たちも、どう声をかけていいか分からない様子で、互いに顔を見合わせている。
千代はしばらく、刷り上がった本のページを見つめながら考え込んだ。
(同人誌を作ってたとき、こういう失敗、何度もあった...)
締め切り直前に、印刷所から誤字を指摘されたこと。
頁の順番を間違えて綴じてしまい、慌てて作り直したこと。
あのとき、千代が学んだのは、失敗そのものよりも、失敗にどう向き合うかということだった。
「権助さん、一つ、聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「間違ってる箇所は、この一箇所だけですか?」
「今のところ、見つかってるのは、そこだけだが...」
「全部のページ、もう一度、確認した方がいいと思います。他にも見落としがあるかもしれません」
権助は一瞬、面倒くさそうな顔をしたが、すぐに考え直したように頷いた。
「確かに、そうだな...。一箇所見つかったってことは、他にも紛れてるかもしれねえ」
「私、確認を手伝います。本を作っていたとき、こういう校正作業をよくやっていたので...」
「こうせい?」
「間違いがないか、何度も見直す作業のことです。一人だけでチェックすると見落としが出やすいので、何人かで分担して、違う目で確認するのがいいと思います」
千代の提案に、権助は少し考えてから、頷いた。
「よし、やってみるか。手が空いてる奴、集めてくれ!」
作業場の職人たちが集まり、千代の音頭で、刷り上がった本を何冊かに分けて、それぞれが読み合わせを始めた。
千代は自分の分を、一行一行、丁寧に目で追っていく。
「声に出して読むと、目だけで追うより、間違いに気づきやすいです」
千代の提案に、何人かの職人が、ぼそぼそと小さな声で本文を読み上げ始めた。
作業場に、たどたどしい朗読の声が重なり合う。
最初は戸惑っていた職人たちも、次第にコツをつかんできたのか、読み上げる速度が安定してきた。
「あ、ここにも」
しばらくして、若い職人の一人が声を上げた。
別のページに、文字の抜け落ちが見つかった。
「よし、印をつけといてくれ」
権助が指示を出しながら、確認済みのページと、修正が必要なページを、それぞれ別の山に分けていった。
千代はその様子を見ながら、さらに提案を重ねた。
「間違いが見つかったページだけ、印をつけた紙を挟んでおくと、あとで彫り直すときに、探す手間が省けると思います」
「なるほど、そいつはいい」
権助はすぐに紙片を用意し、間違いの見つかったページに、目印として挟み込んでいった。
作業は、思っていたよりも効率よく進んでいった。
途中、彫り師の男も、震える手で自分の担当分の確認に加わった。
「俺にも、手伝わせてください!」
「ああ、頼む。お前さんが一番、版木のことに詳しいんだ」
権助の言葉に、彫り師の男は少し驚いたような顔をしたあと、深く頷いた。
責任を感じて縮こまっていた背中が、少しずつ、伸びていくのが分かった。
夕方までかかって、全ての本の確認作業が終わった。
結果、間違いが見つかったのは、最初の一箇所を含め、三箇所だけだった。
「思ったより、少なくて済んだな」
権助がほっとしたように呟いた。
「全部を一から刷り直すより、間違ったページだけ差し替える方が、早く済みますよね」
「ああ、そうだな。彫り師、間違ってた三箇所の版木だけ、頼めるか」
「はい、すぐに取り掛かります」
彫り師の男が、安堵の表情を浮かべながら答えた。
作業場に、少しずつ落ち着きが戻ってきた。
「千代のおかげで、被害を最小限に抑えられた。恩に着るぜ」
権助が心底ほっとした様子で言った。
千代は少し照れながら、首を振った。
「私は、確認のやり方を提案しただけです。みんなで手分けしてくれたから、早く終わったんです」
「その提案が、大事なんだよ」
権助はそう言うと、千代の肩を軽く叩いた。
「今度から、大事な刷り物は、必ず何人かで確認するようにする。千代の言う、”こうせい”ってやつを、うちの仕事のやり方に取り入れさせてもらうよ」
「お役に立てて、よかったです」
夕暮れの空の下、作業場には、安堵の空気が満ちていた。
彫り師の男が、千代のもとにやってきて、深く頭を下げた。
「千代さん、本当にありがとう...!あんたのおかげで、大事にならずに済んだ」
「いえ、彫り師さんも、今日一日、本当によく頑張ってました」
千代の言葉に、彫り師の男は少し目を潤ませながら、小さく頷いた。
「正直、今日一日、生きた心地がしませんでした...。三百部も無駄にしちまったんじゃないかって」
「でも、無駄にはならなかったですよ。ちゃんと直せる形になったので」
「千代さんが、確認のやり方を教えてくれなかったら、きっと何日もかけて全部を彫り直す羽目になってたと思います。感謝してもしきれません」
彫り師の男は、そう言って、もう一度深く頭を下げた。権助が、その様子を見て、軽く笑った。
「おい、そんなに頭下げなくていいから、次からは気をつけろよ」
「はい、必ず!」
彫り師の男は、これまでよりも引き締まった表情で頷いた。
作業場の空気は、すっかり落ち着きを取り戻していた。
権助は千代の方を向き、改めて頭を下げた。
「千代、本当に助かった。今日のこと、店の主人にもちゃんと伝えとくよ」
「そんな、大げさです...」
「大げさじゃねえよ。三百部の損失を防いだんだ。それだけの働きをしたんだから、胸を張っていい」
権助の言葉に、千代は少し照れながらも、確かな充実感を覚えていた。
長屋への帰り道、千代は今日の出来事を振り返っていた。
現代で当たり前に身についていた「校正」という考え方が、こんな形で誰かの役に立つとは、思ってもみなかった。
同人誌を作っていた頃は、締め切りに追われながら、何度も自分の原稿を読み返す作業を、ただ当たり前のこととして繰り返していた。
あの積み重ねが、こうして江戸の仕事の危機を救う力になるとは、想像もしていなかった。
途中、絵草紙屋の前を通りかかると、留吉が店先で片付けをしているのが見えた。
「留吉さん」
「おう、千代さん。どうした、そんなに疲れた顔して」
「本屋で、ちょっとした騒動があって」
千代は今日の出来事を、かいつまんで話した。
留吉は感心したように耳を傾け、話が終わると、深く頷いた。
「千代さんは、本当に、色んなところで力になってるんだな」
「たまたま、知ってることが役に立っただけです」
「その『たまたま』が、いくつも積み重なってるんだろう。俺は、そういうところ、尊敬してるぜ」
留吉の素直な言葉に、千代は思わず頬が緩んだ。
「ありがとうございます」
二人はしばらく、他愛のない話をしながら、夕暮れの道を並んで歩いた。
(好きなことに真剣に向き合ってきた経験は、無駄にならないのね)
そう思いながら、千代は夕暮れの空を見上げた。
江戸に来てから積み重ねてきた日々が、少しずつ、確かな形になって、この町に根を張り始めているのを感じていたーー。




