第18話 描けない日
型紙の一件から数日後、千代は絵草紙屋を訪ねた。
留吉に、絵の型紙の話をしてみようと思い立ったのだ。
仕立て場での成功が、留吉の仕事にも何か活かせるのではないかと、千代は道すがら、頭の中で説明の仕方を考えていた。
けれど、店に着いてみると、いつもと様子が違った。
店先の活気はいつも通りだったが、奥の作業場だけ、妙に静まり返っている。
「留吉さん、いますか?」
声をかけると、奥から権助が顔を出した。
表情が、いつになく硬い。
「千代さんか。ちょうどよかった、留吉のこと、ちょっと様子を見てやってくれねえか」
「留吉さん、何かあったんですか」
「親方から、大事な仕事を任されたんだよ。だが、もうかれこれ三日、まともに筆が進んでねえみたいでな。飯もろくに食わずに、机に向かってるだけだ」
権助の言葉に、千代の胸に不安が広がった。
あの留吉が、三日も苦しんでいる。
それは、余程のことに違いなかった。
「案内してもらえますか」
「ああ、頼む。俺たちが何を言っても、あいつ、耳を貸そうとしねえんだ」
権助に案内されて、千代は作業場の奥へと向かった。
そこには、留吉が机に向かって座り込んでいた。
目の前には、白紙のままの下絵用紙が広げられている。
周りには、何度も描き損じたらしい紙が、くしゃくしゃに丸められて散らばっていた。
「留吉さん」
声をかけると、留吉はのろのろと顔を上げた。
目の下に、薄っすらと隈ができている。
「ああ、千代さん......」
「大丈夫ですか? 権助さんから、少し聞きました」
留吉は力なく笑い、筆を置いた。
「親方に、初めて大きな仕事を任されたんだ。ある商家の祝い事に飾る、屏風絵の下絵だ。今までとは違う、大きな仕事でよ...」
「素晴らしいことじゃないですか!」
「そう思ってた。......最初はな」
留吉は白紙の紙を見つめながら、ため息をついた。
「いざ描こうとすると、何を描いても、しっくりこねえんだ。これまでみたいに、気軽な絵とは違う。大勢の目に触れる、ちゃんとした仕事だと思うと、手が止まっちまう...」
千代は留吉の隣に座り、その様子を静かに見つめた。
真剣な表情の奥に、焦りと不安が滲んでいる。
「今まで、こんなことなかったんですか?」
「なかったな。描きたいものが、いつも自然と浮かんできてたから。それが今は、何一つ、浮かんでこねえ...」
千代は少し考え込んだ。
現代で、イベントの締め切り前に、同じような壁にぶつかったことを思い出す。
描きたい気持ちはあるのに、手が動かない。
焦れば焦るほど、何も出てこなくなる、あの苦しさ。
留吉は、いわばスランプに陥っているのだ。
「留吉さん、少し聞いてもいいですか?屏風絵に、何を描くか、決まってるんですか?」
「祝いの席にふさわしい、めでたい図柄をってことだけだ。あとは、俺の裁量に任されてる」
「自由な分、余計に難しいですよね」
「ああ、そうなんだ......」
千代は少し考えてから、口を開いた。
「私も本を作るとき、行き詰まったときにやってたことがあって。もしよかったら、聞いてもらえますか」
留吉は疲れた顔のまま、それでも耳を傾けてくれた。
「まず、完璧に仕上げようとするのを、一旦やめるんです。うまく描こう、じゃなくて、とにかく手を動かして、何でもいいから紙に描いてみる」
「何でもいいから?」
「はい。下手でもいいから、思いついたものを、片っ端から描く。その中から、いいと思うものを、あとで選べばいいんです」
「それで、うまくいくのか...?」
「完成させることを一旦忘れて、思いつくものを全部出し切る方が、案外、その中に良いものが見つかったりします。頭で考えすぎると、逆に何も出てこなくなるので」
留吉はしばらく黙り込んだあと、目の前の白紙を見つめた。
「試しに、やってみるか」
留吉は筆を取り、これまでとは違う、軽い手つきで紙に線を走らせ始めた。
松、鶴、宝船......思いつくままに、めでたい図柄をいくつも描いていく。
上手くまとまっていない、荒削りな下描きばかりだったが、次第に留吉の表情から、こわばりが抜けていくのが分かった。
千代はその様子を、少し離れた場所からそっと見守った。
筆が紙の上を滑る音、時折漏れる小さな唸り声。
留吉が絵と向き合う時間を、邪魔しないように、ただ静かに寄り添った。
半刻ほど経った頃、留吉の手が、ふと止まった。
「これは......」
一枚の絵に目を留めた留吉の表情が、はっきりと変わった。
松の枝に、朝日が差し込む構図。
他の絵よりも、ずっと生き生きとした線で描かれていた。
「これ、いいと思います」
千代が覗き込みながら言うと、留吉は食い入るように自分の描いた絵を見つめた。
「そうか......うん、これなら、行けそうだ」
留吉は絵を手に取り、何度も角度を変えて眺めた。
「朝日が差す松の枝に、鶴を一羽添えるっていうのは、どうでしょう」
千代が思わず提案すると、留吉は目を見開いた。
「鶴を、ここに?」
「はい。祝いの席なら、鶴と松の組み合わせは、縁起がいいかなと...」
「悪くねえな。むしろ、ちょうどいい」
留吉は早速、鶴の輪郭を描き加え始めた。
羽を広げた鶴が、朝日に向かって舞い上がるような構図が、少しずつ形になっていく。
「これなら、親方にも見せられそうだ」
留吉の顔に、久しぶりに晴れやかな表情が戻った。
「千代さんのおかげだ。ありがとな」
「私は、ちょっときっかけを渡しただけです。描いたのは、留吉さんですから」
千代の言葉に、留吉は照れくさそうに笑った。
「千代さんは、自分の得意なことを、こういうときにも活かせるんだな。器用なだけじゃなく...」
「ほ、褒めすぎです...」
そう言いながらも、千代の胸には、確かな嬉しさが広がっていた。
誰かの壁を、自分の経験で少しでも取り除けたこと。
それは、これまでとはまた違う形で、この町の役に立てた瞬間だった。
権助が奥から顔を出し、留吉の様子を見て、ほっとしたように笑った。
「おう、顔色戻ったな。千代さん、ありがとうよ」
「いえ、留吉さんが、自分で見つけたんです」
「そんな謙遜すんな。お前さんがきっかけをくれなきゃ、こいつ、まだ白紙とにらめっこしてたはずだ」
権助はそう言うと、留吉の肩を軽く叩いた。
留吉は照れくさそうに笑いながら、それでも筆を止めることなく、鶴の羽の一枚一枚を丁寧に描き込んでいった。
「千代さん、少しここにいてもいいか。集中したいときこそ、誰かがそばにいてくれると、不思議と筆が乗る気がする」
「はい、もちろん」
千代は作業場の隅に腰を下ろし、留吉の作業を静かに見守った。
時折、色の選び方や、線の太さについて、留吉が小さく呟くのに、千代も相槌を打った。
「この鶴の目、もう少し、生き生きとした感じにしたいんだが...」
「羽の角度を、少しだけ上向きにしてみるのは、どうですか。飛び立つ瞬間みたいに」
「なるほど、それいいな...」
そんなやり取りを重ねながら、下絵は少しずつ完成に近づいていった。
夕暮れ時になる頃には、松と朝日、そして舞い上がる鶴を描いた、堂々とした構図が出来上がっていた。
「これなら、親方にも自信を持って見せられる」
留吉は絵を眺めながら、深く息をついた。
それは、安堵と満足の入り混じった、清々しい表情だった。
「留吉さんの絵、本当に素敵です!」
「千代さんのおかげだよ、本当に」
留吉はそう言うと、改めて千代の方を向いた。
「今度、俺が何か困ったときは、また力を貸してくれるか」
「もちろんです。留吉さんが困ったときは、いつでも」
千代の言葉に、留吉は柔らかく笑った。
作業場を出る頃には、すっかり日が暮れていた。
千代はふと、絵の型紙の話をしそびれたことに気づいた。
(まぁ、また今度でいいよね...)
そう思いながら、千代は長屋への道を歩いた。
誰かの力になれたという実感が、胸の中で、あたたかく灯り続けていた。
夜空には、いつの間にか星が瞬き始めていた。
今日という一日が、また一つ、千代にとって大切な記憶になったことを、静かに感じながらーー




