表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
隣人・瀬田貴恵の場合  作者: askaK
39/39

39、隣人・瀬田貴恵の場合

 人間という生き物は、頭が良いのか悪いのか、よくわからない生き物だ。

 高い知能を手に入れたかわりに、日々苦悶を繰り返して過ごす。道に咲いている花のほうがよほど賢く生きているように思えてならないのは、そのためだ。子孫を残すという明確な目的のために花弁を広げるその姿は、天才と呼ばれる偉人よりもよほど美しい――。


 貴恵は、虚脱していた。

 もうまもなく学年も切り替わる二年三学期の終業式。

 二年から三年にかけて、この高校ではクラス替えは行われない。担任教師の変更はあるが、発表された担任教師は全クラスそのままであった。

 そんなわけで、新クラスと言っても何ら変わりはないわけだが、ホームルームの後、貴恵は担任に「来年も頼りにしているぞ」と言われた。何を、と聞き返したいところをぐっと堪え、脱力する。――何も考えないようにしよう。考える方が馬鹿なのだ。何もなかったことにして、きたる春の長期休暇を迎えよう。


 三学期も終わり、これから春休みということで、受験の年度に入る前の最後の休みが来ようとしていた。

 クラスメートたちは最後の休みをどのように過ごそうか、楽しそうに談義している。

 担任に声をかけられたため、その輪に入れなかった貴恵は、遠巻きにクラスメートたちを眺めながら帰りの準備を整えた。

 早く帰って、やらなくてはならないことが、貴恵にはある。

「じゃ、みんな、四月にね!」

 声を張り上げて手を掲げると、気付いたクラスメートたちが一斉にこちらを向いて、笑顔で手を振ってくれた。貴恵がそれらに笑顔で対応していると、机の上に座っていたクラスメートの一人が飛び降りて、こちらに駆けてくる。

「何、貴恵帰んの? 俺も、俺も!」

 それを受けて、友人たちは「さすが夫婦!」やら「家でも仲良く!」やら「DVはだめだぞ、瀬田!」やら、自由勝手なことを口々に叫んだ。

 すっかり慣れた揶揄であるとは言え、あまりいい顔もできない。

「夫婦じゃないから!」

 貴恵はそう一喝し、クラスの笑いを起こしてから教室を後にした。


「――あんたも、言い返してよ」

 教室を出て、まっすぐ歩き進む廊下は帰ろうとする生徒でごった返している。彼らにぶつからないように留意して歩きながら、貴恵は隣を歩く男を睨みつけた。彼、米沢桂一郎は屈託なくからからと笑っている。

「いいじゃん、別に。誰も本気で言ってるわけじゃねえし」

 そりゃそうだけど、と貴恵は苦りきった。

 その上、桂一郎が「今更だろ」などと以前の貴恵の台詞を繰り返してくるので腹立たしい。

 むっと口を結ぶと、機嫌を損ねたと気付いたらしく、桂一郎も苦笑した。

「いや、なんかあのままあそこにいたら青島につかまりそうだったから、逃げたんだよ」

「青島さんに?」

「そうそう。何かと俺呼び出して最近の伶二郎君情報聞き出そうとするんだよ。参るよ」

 ここのところ、桂一郎は同クラスの青島早苗という女子生徒と仲が良い。というより、青島が一方的に桂一郎に話しかけてくるのだが、桂一郎がきちんと応対するので周囲には仲良く見える。

「でも満更でもないでしょ」

「なんでだよ」

「なんか楽しそうだし」

「まあ確かに一時期ほど最近は苦手でもないけどな……なんか吹っ切れたっぽくて最近ではそれほど嫌な奴でもなくなった」

「ならいいじゃん」

「でも楽しくはない」

 へえ、と貴恵は笑った。


 青島はいつも伶二郎のことを聞きに桂一郎を訪れると言うが、伶二郎をネタにして桂一郎と話をしたいだけなのだろう、と貴恵は解釈している。

 もともと青島は友人を積極的に作りたがらないが、逆に仲良くしたいと思うととことん親交を深めるタイプなのだと思う。実際仲良くなっているかどうかは別であるが、いつも青島が「あんたとは仲良くしてやってもいいわよ」とでも言いたげな高飛車な態度で爆弾を落とし、それを律儀に桂一郎が受け取っている。桂一郎としては疲れる話だろうが、傍から見てると面白いのだから仕方ない。


 階段をぐるぐると回って、正面玄関に通じる一階に下りると、職員室の方から誰かがこちらに向かってくるのが見えた。

 逆光でその顔までは見えないが、「あ、瀬田さん」と呼んだ声に聞き覚えがあり、「げ」と貴恵は逃げ腰になった。が、隣の桂一郎が「おう、白根」と手を振っているため、逃げられない。

 おのれ、と桂一郎を恨みがましく睥睨してから、貴恵はこちらに走ってくる学級委員を見つめた。

「何よ……」

「先生が、来年も学級委員よろしくって……」

「却下」

 最後まで言わせず、切り捨てた。

「あんたも絶対来年は手を上げるんじゃないよ!」

 女子高生らしからぬ口調で言い放って、貴恵は踵を返した。

 桂一郎が忍び笑いを漏らしながら、ついてくる。

 正面玄関からグラウンドに出て、白根に声が聞こえない辺りまでくると、彼は大きく笑った。

「可哀想だから、そんな言い方すんなよ」

「だって私にまで面倒事が回ってくるんだもん」

「だったらお前も引き受けなきゃいーじゃん。結局お前が手ぇ挙げるからいけないんだろ。正義感が強いのも問題だぞ」

 けらけら笑う桂一郎に、「そんなんじゃない」と貴恵は低い声で答えた。

 彼は、貴恵が単にふてくされているのだと思っているだろうが、それは貴恵の本音であった。


 あの時――去年の四月、学級委員を決めるホームルームにおいて、貴恵が学級委員に立候補したのは、決して、正義感からではなかった。


 白根が学級委員に立候補し、女子生徒の中からもう一人学級委員を選ばなくてはならなくなった状況下で、クラスメートの女子たちは誰一人として学級委員をやりたがらなかった。

 女子たちは白根を嫌がり、男子からは野次が飛ぶ。

 そんな雑然としたあの場面で、誰より正義感を抱いていたのは桂一郎だったと思う。

 ちらりと貴恵が彼の方を見ると、桂一郎は自分の席を今にも蹴り飛ばして、「いい加減にしろ!」とでも言い出しそうな形相をしていた。

 しかし、この場面で桂一郎がそんなことを言ったところで、どうしようもない。むしろ、彼まで野次をうけるのは目に見えていたし、そもそも彼がそう言ったところで「やる」と女子生徒の誰かが手を挙げなくては意味がないのだ。そうなれば、仕方なく手を挙げることができるのは、自分しかいないではないか。

 ――結局私がやるのか。

 そう思った貴恵は、致し方なく、机を叩いて手を挙げた。

 桂一郎が教室をかきまわして面倒なことになってから自分が手を挙げるよりは、先にさっさと挙手してしまった方がまだましだ。どうせ待っていたところで、他に立候補者の出ようはずもないのだから。


 そんなわけで、別段、貴恵は正義感から立候補をしたわけではなかった。

 引き受けたからにはきっちりとやるという律儀な性格ではあったが、正義ではない。


 だが、隣を歩く桂一郎は「正義感だろ」と言って譲らなかった。彼の表情は、空に浮かんでいる太陽と同じくらいに明るい。

「今度は兵庫のばあちゃんちに行くって言うしなぁ。それが正義感でなくてなんなんだっていう話だよ」

「それは……私が学校に通うために住まわせてもらうってだけだし」

 貴恵は信号待ちをしながら、苛立つように足を踏みならした。


 米沢文子の一周忌の日、こっそりと母瀬田桃子の実家の場所を聞き出した貴恵は、三学期中に本当に祖母の家を訪れて、祖母と勘当の初対面を果たしたばかりであった。

 桃子の母親である祖母は桃子によく似て頑固であり、「世話をしてもらう」という名目では貴恵を住まわせようとしなかった。「自分のことは自分でできる」と突っぱねて、「住んでもええが、あんたの面倒までは見られへんで」と、貴恵が自活することを条件に、家の一部を貸してもらうという形で折り合いをつけた。

 今まで散々家族の面倒を見て来たことを思えば、自活などどうということもなかったが、一癖も二癖もありそうな祖母との同居は、なかなか苦労しそうであった。親戚たちが桃子に早く戻ってくるようにと要請したのは、祖母の頑固な対応に疲れてしまったかもしれないと、貴恵はひっそり思った。


 と、そういうような経緯もあって、貴恵はこれから兵庫へ向かう予定であった。

 少しでも相手のことを理解していなくては、同居など到底無理な話である。

 春休みの半分ほどは、兵庫で過ごすつもりだった。なんとかして、認めてもらい、子供扱いを受けないようにしなくては、対等な関係すら築けない。


「前途多難だけど……ま、望むところよ。それに血のつながりっていう奴があるからね。切っても切り捨てられないでしょ」

「そーだなー。まあ一番身近な難は、受験だと思うけどな。これで落ちたら目も当てられねえ」

「受かるっての」

 貴恵は横断歩道を踏みしめながら、ぎゅっと拳を握り締めた。

 やると決めたらやり遂げるつもりである。根性なら、誰にも負けない。

「あたしが一週間いないからって、毎日寿司の出前とかとるんじゃないよ」

 びしっと指摘してやると、「はいはい」と桂一郎は縮こまった。

「清四郎に夜更かしさせないで。あと英三郎のベッド放っとくとゴミ溜めになってくからたまに掃除して。伶は特に心配ないと思うけど、由郎おじさんはたまに寝ぼけてパジャマで会社行こうとするしな……」

「大変だな、おふくろさん」

「本当よ、出来の悪い子供ばっかり!」

 「こんなんじゃ、私が短大いったらどうするんだか」と嘆くと、桂一郎に「受かってから心配しろよ」と茶々を入れられた。


 貴恵のひじ鉄砲に大袈裟にうめく桂一郎は、結局進学は考えていないという。

 桃子が嫌な顔をするだろうが、桂一郎がそれを目指すのだから、それでいいのではないかと貴恵は考えている。彼は自分を家のために犠牲にしているわけでもなんでもなく、好きでその道を選んでいるのだから。


 母の法事の終わった後、カナダへと戻って行った都は、いろいろ考えた末、大学院に進むという決心をし、今は猛勉強をしているところである。奨学金を取るためには相応の結果を残さなくてはならないし、当分は日本に帰る予定はないという。


 貴恵も来年には兵庫へ旅立つこととなるのだろうし、他の兄弟たちもいずれはあの家を巣立っていくのかもしれない。

 しかし、彼らの帰る場所は、この都心から少しはずれた小さな街も、古くなりつつあるマンションの上にある。

 確かに血の繋がりは切っても切り離せないほどに強固なものであるが、それに負けないほどの絆がそこには敷かれており、貴恵の帰る場所だ。

 そういった目に見えない、言葉で説明しきれない絆を作ることこそが、人間のみに許された特権なのではないだろうか。


 貴恵は深く呼吸をして、住み慣れた街の空気を吸い込んだ。

 暖かな空気は微かに春の臭いを漂わせている。

 新しい時代が訪れ、そこには希望が待っている。


「ま、安心して行ってこいよ。いつでも待ってるから」

「うん。桂一郎がいるなら平気かな。任せるからしっかりしてね」


 兄弟でもなければ恋人でもなく、友人というにはあまりにも深い絆は夫婦と呼ばれているが、夫婦でもない。

 彼らの希望によく似た絆は、言葉で説明することのできないものだ。

 それが、貴恵を支えている。


 米沢の隣人瀬田貴恵は、力強く街を進んだ。

 もうまもなく、春が訪れようとしていた。





 ――完


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ