第二十八話:『百合の芽生え、天空への航路』第二節:泥だらけの温もりと、白い朝餉
宿に戻った四人を迎えたのは、軋む板間の匂いと、静まり返った薄暗がりだった。
アレキシア外郭の低地、崩れかけた煉瓦壁の路地にひっそりと佇むその宿は、かつてエレノアの工房へ資材を横流ししていたレジスタンスの隠れ家でもあった。
外の井戸端で跳ね泥をざっと洗い流したものの、雨水を吸い込んだ上着は重く冷たく、肌に張り付いていた。
「……うぅ、冷たい……! ケープもシャツも皮膚にくっついて気持ち悪いわ」
アリアが華奢な両肩を抱いて身震いすると、リンが呆れたように笑いながら、宿の物置から乾いた麻布と古びた薪の束を引っ張り出してきた。
「文句言ってないで、さっさと上着を脱ぎな! 風邪引いたら元も子もないだろ。ほら、フィリアもその濡れそぼった巡礼服、脱いで毛布を被りな」
「は、はい……!」
土間に据えられた小さな鋳鉄の暖炉に、ルシアンが指先で火種のマナを飛ばす。
パチリと乾いた音を立てて橙色の炎が立ち上がり、冷え切っていた板間に柔らかな温もりが広がり始めた。
泥水で汚れたアリアの群青のショートケープ、リンの緋色の炎紋様ベスト、ルシアンの焼け焦げたフィールドコート、そして自ら胸元を引き裂いてボロボロになったフィリアの薄手の巡礼服が、暖炉の周りに張られた麻紐へと並べて干されていく。
湯気を立てて乾いていく泥臭い布地を眺めながら、チューブトップ姿のリンが引き締まった腹筋を叩いて鼻を鳴らした。
「さてと……泥は落としたが、腹が減って背中と腹膜がくっつきそうだ。オヤジの厨房、勝手に借りて何か作るとするかね」
「リン、手伝うわ!」
「殿下、結構です。貴女が包丁を握ると、食材どころか調理台ごと真っ二つにスライスされる未来しか演算できません」
「なによ嫌味眼鏡! あたしだって手伝いくらいできるわよ!」
「いいから座ってな! あたしが適当に見繕ってくるよ」
リンは快活に笑い飛ばすと、土間の奥にある台所へと消えていった。
残されたフィリアは、乾いた粗末な毛布を肩から羽織り、パチパチと爆ぜる暖炉の火を見つめていた。
雨水を含んでずっしりと重たい金糸の長い髪が、毛布の隙間から床へと垂れ下がっている。
その横顔を、アリアが覗き込んだ。
「フィリア、身体は重くない?」
「……はい。信じられないくらい、軽いです。手足の先まで、ちゃんとあたたかくて……こんな感覚、生まれて初めてかもしれません」
フィリアは自らの掌を見つめ、そっと指を握りしめた。
大聖堂の冷たい地下で、自らの命が吸い上げられる痛みに耐えていた日々が、まるで遠い悪夢のように思える。
やがて、廊下の奥から香ばしい湯気とともに、暴力的なまでに食欲をそそる匂いが漂ってきた。
「へいお待ち! あるもんで作ったから豪勢じゃねえが、胃袋には染みるはずだぜ!」
リンが両手に抱えて運んできたのは、湯気をもうもうと立ち上らせる大鍋と、黒い焼き網に乗せられた魚だった。
卓の上にドンと置かれたのは、割れ麦と干し野菜をじっくり煮込んだ熱々の白粥。
沸き立つ湯気の中に、宿の裏手を流れる清流で早朝に揚がったという、丸々と肥えた川魚の塩焼きが香ばしく並ぶ。
炭火でこんがりと狐色に焼かれた皮目からは、脂がパチパチと音を立てて爆ぜ、粗塩の効いた香ばしい匂いが部屋いっぱいに満ちていく。
「わぁ……! すごく美味しそう!」
アリアの菫色の瞳が爛々と輝いた。
「エルザ殿から頂いた白霜竜胆の葉も、乾燥させて細かく刻み、粥の中に薬味として散らしておきました。神経系の沈静化には最上の処方ですよ」
ルシアンが手帳を脇に置き、木椀を几帳面に配りながら告げた。
「それじゃあ――いただきまーす!」
四人が木匙を手に取り、熱い粥を口へと運ぶ。
出汁と干し野菜の素朴な旨味、そしてほんのりと舌をくすぐる薬草の清涼感が、冷え切っていた五臓六腑へとじんわりと染み渡っていく。
泥濘を駆け抜けてきた身体に、命の熱が直接注ぎ込まれるような美味さだった。
「んん〜っ! 美味しい! 生き返るわぁ……!」
アリアが頬を緩ませ、満面の笑みをこぼす。
続けて、少女は涎を飲み込みながら、目の前の川魚の塩焼きへと勢いよく箸を突き立てた。
――だが、次の瞬間。
「……あ」
パキ、と無残な音が響いた。
アリアの不器用な箸先が力任せに身をほじくったせいで、せっかくの美しい焼き魚は見る影もなくバラバラに崩壊し、細かい小骨が肉の破片の中に無数に散乱してしまったのだ。
「うぅ……っ。また骨が身の中に埋まっちゃった……!」
アリアはへの字口になり、眉根を寄せて涙目で魚の残骸を睨みつけた。
箸先で恐る恐るつまもうとしては骨が引っかかり、苛立ちに任せて身をさらにぐちゃぐちゃにしてしまう。
「アリア、あんた剣を握らせりゃ神速のくせに、なんで魚の骨だけは毎回そう壊滅的なんだい」
リンが呆れ果てたように吹き出し、大ジョッキの白湯を煽った。
「うるさいわね! この魚の骨、あたしを狙って変な方向に生えてるのよ! 絶対そうに決まってるわ!」
「……魚類の骨格を敵対生物のように言い立てるのはおやめなさい。主骨から垂直に伸びる筋肉間骨の角度を計算し、背筋に沿って平行に刃先――いや箸先を通せば、身など一切崩れずに外れるはずでしょう。まったく、非論理的極まりない」
ルシアンが胃薬の包みを弄りながら冷ややかにため息をつく。
「理屈はいいから、どうにかしてよ嫌味眼鏡!」
「僕に八つ当たりしないでいただきたいですね」
ぷりぷりと頬を膨らませて悪戦苦闘するアリア。
その愛らしくも情けないポンコツ姿を見ていたフィリアの口元から、ふふっ、と小さな忍び笑いが零れ落ちた。
「……アリア様。もしよろしければ、お手伝いしてもよろしいですか?」
「え? フィリア、できるの?」
「はい。教会におりました頃、神殿の儀礼用の供物を捌く手伝いをしておりましたので」
フィリアは木皿を引き寄せると、滑らかな手つきで木箸を持った。
細く白い指先が、一切の躊躇なく魚の背骨の境目へとすっと差し込まれる。
力を込める様子は微塵もない。
骨の節と筋繊維の流れを撫でるように箸を滑らせると、ペロリと香ばしい皮目が剥がれ、真っ白でふっくらとした肉厚の身が、骨から吸い付くように外れていく。
スッ、と引き抜かれたのは、頭から尾ひれまで寸分の狂いもなく一本に繋がった、見事な魚の背骨だった。
「……あ」
アリアがぽかんと口を開けた。
皿の上には、小骨が一筋も残されていない、黄金の焦げ目とジューシーな脂を湛えた完璧な魚の切り身だけが残されている。
フィリアは満足そうに微笑むと、その一番脂の乗った大振りの身を箸でつまみ、アリアの小皿の上へとそっと乗せてあげた。
「どうぞ、アリア様。これなら、喉に刺さる心配もございません」
「す、すごい……! フィリア、あんた天才ね!?」
アリアは菫色の瞳を輝かせ、乗せられた身を一口で頬張った。
香ばしい塩気と白身の甘みが口いっぱいに広がり、思わず頬を押さえて唸る。
「んん〜っ! 美味しいっ! 骨がないとこんなに美味しいのね!」
「ふふ、喜んでいただけてよかったです」
美味しそうに食べるアリアの姿を見つめながら、フィリアの胸の奥に、じわりと温かいものが込み上げてきた。
誰かのために祈りを捧げ、命を削るのではなく。
ただ目の前の大切な人が笑顔になるために手を差し伸べ、それを喜んでもらえること。
それは、教会のどんな荘厳な祈祷書にも書かれていなかった、ささやかで、けれど涙が出るほど尊い日常の幸福だった。
「……おいおい、フィリア。アリアを甘やかすんじゃないよ。こいつ、調子に乗って自分で骨を取る努力を完全に放棄するぜ」
リンが苦笑いしながら鍋の粥をお代わりする。
「いいじゃないのよリン! 持つべきものは頼れる妹分ね!」
「誰が妹分ですか。……まあ、喉を詰まらせて余計な救護魔導を使わずに済むのなら、効率的ではありますがね」
ルシアンの憎まれ口に、アリアが「またそうやって素直じゃないんだから!」とジト目を向け、リンがゲラゲラと笑い声を上げる。
暖炉の火が静かに爆ぜる中、湯気と笑い声が部屋を優しく包み込んでいた。
その温もりの真ん中で、フィリアの瞳から、ポロリとひとすじの涙がこぼれ落ちた。
「……あれ? フィリア、どうしたの? どこか痛むの!?」
アリアが慌てて身を乗り出すと、フィリアは首を横に振り、濡れた両目を袖口でごしごしと拭った。
「……ううん、痛くありません。……ただ、みんなで温かいご飯を食べて、笑い合えることが……こんなにもあたたかいんだって、知らなかったから……」
十六年間、冷たい石の床の上で、ただ一人で乾いたパンを齧ってきた少女。
その凍てついていた孤独の記憶が、目の前にある温かな粥の湯気の中に、静かに溶けて消えていくようだった。
「ばーか。泣きながら飯食う奴があるかい」
リンが笑いながら、フィリアの濡れた金髪を無造作に撫でた。
「これからは毎日がこうなんだよ。嫌って言っても、アタシらの泥臭い飯に付き合ってもらうからね」
「……はいっ……!」
フィリアは涙を拭い、満面の笑顔で力強く頷いた。
お腹の底から湧き上がる力強い温もりが、少女の心を満たしていた。
食事が終わり、木皿が綺麗に片付けられた頃。
窓から差し込む朝陽が、フィリアの背中を、そして腰まで届く重たく濡れた金糸の長髪を照らし出した。
フィリアは静かに立ち上がると、卓の向こうのアリアを見つめ、凛とした声で口を開いた。
「アリア様。……お願いが、ございます」
(第三節へ続く)




