第二十八話:『百合の芽生え、天空への航路』 第一節:朝露の温もりと、手折られた鎖
雨は、完全に上がっていた。
鉛色に淀んでいた雲の切れ間から、柔らかな朝の陽光が幾筋もの光の帯となって降り注ぎ、濡れそぼった大地を黄金色に透かしていく。
吹き抜ける風には、先刻まで立ち込めていた神樹排液の酸鼻を極める腐臭はもはやなく、湿った土と雨露が混ざり合った、どこか懐かしい大地の匂いだけが漂っていた。
「……は、ぁ……っ」
泥濘の敷石に尻餅をついたまま、ルシアンが荒い息を吐き出した。
胸元でサファイアのブローチが朝露を浴びて淡く瞬く。
青年のスレートチャコールの長外套――『アストラル・フィールドコート』の右袖は、急激な逆流マナの過負荷によって無残に焼け焦げていたが、その右目に装着された『アナライザー・モノクル』の多重レンズは、静かに安定した青白い光を灯していた。
カシャリ、と微細な歯車が噛み合う音が鳴り、モノクルの照準グリッドがフィリアの生体波長を走査する。
「……生体マナ循環率、平時値へ収束。体内毒素の蓄積濃度……臨界水域の99.8%から、わずか12.4%まで減圧中和を確認しました」
ルシアンは煤けた指先で銀縁眼鏡のブリッジを押し上げ、長い、長い安堵の溜息を吐いた。
その端正な顔立ちには疲労の色が濃く滲んでいたが、双眸の奥には己の数理が奇跡を掴み取った確かな自負が宿っている。
「信じられません……。エルザ殿の原薬の劇薬性、そしてエレノア様の張力分散触媒理論……ふたつの破綻しかけた変数が、奇跡的なマナの減衰曲線を描いて完全に噛み合いました。……もう、破裂の危険はありませんよ。フィリア様」
「……ほんとうに……?」
フィリアが、自らの胸元へと震える両手を重ねた。
引き裂かれた巡礼服の隙間、かつてどす黒い紫色の蔦のように這い回っていた排液の血管は、嘘のように綺麗さっぱり消え去っている。
ただ、生まれ持った神樹の刻印だけが、毒素を失った清らかな琥珀色の光を放ち、トクン、トクンと、静かに穏やかなリズムを刻んでいた。
痛くない。
息をするたびに内臓を焼き爛れさせていた冷たい悪臭も、背骨を軋ませていた重たい鉄の楔も、どこにもない。
「嘘なんかじゃないわよ」
泥だらけになったアリアが、膝立ちのままフィリアの前ににじり寄り、そっと自らの右手を伸ばした。 まだ平手打ちの熱で赤く腫れ上がっている自らの手のひらを、フィリアの左頬へ――うっすらと赤い平手の痕が残る柔らかな肌へと、包み込むようにやさしく添える。 生身の温もりが、互いの皮膚を通じてじんわりと伝わっていく。
「……痛かったでしょ、フィリア。ごめんね」
頬に添えられたアリアの手のぬくもりに、フィリアの瞳が潤んだ。 少女は頬をその温かな掌に預けるようにしながら、小さく首を横に振った。
「……いいえ」
じんじんと残る左頬の痛みが、ただただ愛おしかった。 誰かの身代わりにされるだけの冷たい祭壇では、決して知ることのできなかった、生きた体温。
「アリア様に叩いていただかなければ……私は、あのまま暗い谷底へ落ちていました。……ありがとうございます。私を……見捨てないでくださって」
「あたり前じゃない。仲間を見捨てるくらいなら、最初から剣なんて握ってないわよ」
アリアが破顔し、ふわりとフィリアの頭を引き寄せて額をコツンと合わせた。
白銀の長い髪と、濡れた桜金色の髪が朝風に溶け合う。
「おいおい、感動の姉妹ごっこは結構だがよ……」
すぐ隣で、リンが両腕の手甲と両足の脚甲からなる打撃具『ギア・フレーム』を軋ませ、手甲部『ギア・ナックル』のプレートをカチャリと鳴らして苦笑いした。 真鍮の排気シリンダーから、プシューッと冷却用の白煙が勢いよく吹き出す。
「アタシらの足元、見てみな。……いつまでもここに突っ立ってると、また厄介な追手が嗅ぎつけてくるぜ」
リンの視線の先――枯死の断崖の荒涼とした岩場に、ふと、場違いなものが残されていた。
断崖を吹き抜ける風に揺れていたのは、濡れた黒土の上に置かれた、簡素な麻紐で束ねられた一抱えほどの野草の束だった。
見慣れぬ、銀灰色の細い葉を持つ薬草。その切り口からは、鼻腔をすっと通るような、清冽で甘いオゾンの香りが立ち上っている。
「……あれは?」
アリアが目を瞬かせると、ルシアンが眉をひそめ、モノクルの倍率を上げてその薬草を凝視した。
「……『白霜竜胆』。
それも、魔大陸の過酷な霊峰の頂にしか自生しない、極めて希少な神経安定薬草です。……生体マナを急激に減圧させた後の、神経系のショック症状を完全に緩和するための特効薬ですよ。……麻紐の結び目を見てください。薬師特有の精密な外科結びで留められています」
「魔大陸の薬草……? まさか……」
リンが呆れたように眉を跳ね上げた。
「エルザの奴め……。憎まれ口ばかり叩いて消えたくせに、ちゃっかり置き土産を置いていきやがったのか」
断崖の周囲を見回しても、灰褐色の長衣を纏った女薬師の気配は微塵も残っていなかった。
だが、その薬草の瑞々しさは、彼女がつい数分前までこの断崖の陰に身を潜め、フィリアの処置の顛末を、固唾を呑んで見届けていた動かぬ証拠だった。
娘を殺した神樹の毒を憎み、生贄の少女に怨嗟をぶつけながらも――結局、命を救うための最後の一片を捨て去ることができなかった、哀しい母親の残滓。
「……不器用な人ね」
アリアが小さく呟き、屈み込んでその薬草の束を丁寧に拾い上げた。 冷たい露に濡れた薬草の感触が、掌にじんわりと伝わってくる。
「憎いなら、全部見捨てていけばよかったのに。……あんな酷い言葉を吐きながら、ちゃんと生きていくための薬を置いていくなんてさ」
「……エルザ様も、傷ついておられたのですね」
フィリアが薬草を見つめ、痛ましげに眉をひそめた。
「自分の娘を奪った毒を、私が身体の中に宿していたのですから……憎まれて当然です。でも……そのエルザ様が作ってくださった薬で、私は救われました」
「そうだな。……ま、素直に『礼を言うぜ』とは言えねえが、この借りはきっちり覚えておいてやるさ」
リンがニッと八重歯を覗かせ、腰に提げた手拭いでフィリアの泥だらけの額を乱暴に、けれど慈しむように拭った。
「さあ、そうと決まればさっさと宿へ引き上げるよ! 全員泥水被ってドブネズミみてえなツラしてんだ、このままじゃ風邪引いちまう!」
「賛成です……。僕のコートの繊維にも、限界値を超える泥濘粒子が浸透して不快極まりない……」
ルシアンが泥だらけの裾をつまみ上げ、心底嫌そうに顔をしかめると、アリアとリンが顔を見合わせて吹き出した。
「あはは! ルシアン、せっかくのカッコいいコートが台無しね!」
「笑い事ではありませんよ殿下! これのクリーニングにどれだけの数理溶剤が必要か……!」
騒がしい仲間たちの笑い声が、朝露に濡れた荒野へと溶けていく。 その輪の中心で、フィリアはふと、自らの胸元へと触れた。
――カラン、パリン。
まるで、十六年もの間その魂を幾重にも縛り付けていた、冷たく錆びついた鉄の鎖が、胸の奥で音を立てて砕け散ったような幻聴がした。
肺の奥を押し潰していた重苦しい澱みが、スウッと朝の光の中へと抜けていく。教会が課した生贄の宿命も、誰かの代用品としての重圧も、もう彼女の心を縛ることはない。
いま胸に満ちているのは、自分の意志で吸い込んだ、どこまでも甘く澄み切った朝の空気だった。 少女の足元で、泥に塗れた枯草の隙間から、一輪の小さな野の白い蕾が、朝露を弾いて力強く顔をもたげていた。
(第二節へ続く)




