第二十七話:『生贄の刻印と、雨の白百合』 第四節:白百合の絶叫、森の抱擁
泥濘を蹴り破る足音が、降りしきる冷雨のカーテンを切り裂いていた。
息が切れて肺腑が焼けるように熱い。
跳ね上がる黒土が白銀の髪と肌を無慈悲に汚していくが、アリアはただの一瞬も歩調を緩めなかった。
視界を白く遮る豪雨の彼方、針葉樹の緑はとっくに途絶えている。
足元に広がる土壌は乾涸びた灰のように変色し、地表をのたうち回る神樹の巨大な古根は、内側から黒い壊死斑を広げて異様な腐臭を漂わせていた。
「アリア殿下、前方です! マナの歪曲反応が指数関数的に増大しています!」
後方を追随するルシアンの鋭い悲鳴が響く。
青年のアナライザー・モノクルは、暴走する紫黒の力場を捉え、視界のグリッドが激しく明滅していた。
「生体汚染の許容量、99.8%を超過! 心拍数の急上昇に伴い、体内の濃縮毒素が濾過膜を物理的に引き裂こうとしています! ……あと数分で決壊します!」
「フィリアッ!!」
アリアは喉が張り裂けんばかりに叫び、樹海の裂け目を飛び出した。
視界が一気に開けた。そこは、深さ数百メートルに及ぶ底知れぬ断層が口を開ける【枯死の断崖】だった。
奈落の底からは鉛色の濃霧が立ち上り、吹き上げる湿った突風が、崖の縁に立つひとつの痩せた人影の衣を狂おしく揺らしている。
重装のケープも祈祷杖も脱ぎ捨て、濡れそぼった薄手の巡礼服を身にまとった少女。フィリアだった。
「フィリアッ! やめなさいッ!」
アリアの絶叫に、少女の肩がびくりと跳ねた。フィリアがゆっくりと振り返る。
その顔は死人のように青白く、唇は紫に変色していた。何よりも凄惨だったのは、胸元だった。巡礼服の胸元は引き裂かれ、鎖骨の間に刻まれた神樹の聖痕から、どす黒い紫色の血管のような筋が首筋や胸部へと蔦のように侵食し、皮膚の下で脈打つたびにドクドクと禍々しい排液の光を放っている。
その右手には、護身用の小さな果物ナイフが握られていた。刃先は自らの胸元――脈動する聖痕の核へと、正確に向けられている。
「……来ないで……ください……っ!」
フィリアの口から絞り出されたのは、恐怖と絶望に引き裂かれた悲鳴だった。
「来ないで……! お願いですから、近づかないでください、アリア様ッ!」
「刃を下ろしなさい、フィリア! 頼むから、早まらないで!」
アリアが一歩を踏み出そうとした瞬間、フィリアは短剣の切先を自らの胸元へと数ミリ深く突き刺した。
白い皮膚が裂け、一筋の赤い血が流れる。だがその血は、本来の鮮血ではなく、泥のように濁った黒紫のマナを帯びて蒸気を上げていた。
「来たら……いまここで、心臓を抉ります……!」
「フィリアッ!」
追いついたリンが息を呑み、思わず足を止めた。
ルシアンも青ざめた顔で立ち尽くし、震える手で内懐の中和薬のフラスコを握りしめている。
「どうして追ってきたのですか……! なぜ私を放っておいてくださらなかったのですか……!」
フィリアの瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。吹き付ける雨風が、その涙を無慈悲に散らしていく。
「エルザ様のおっしゃった通りです……! 私のこの身体は、誰かの命を奪った猛毒の塊……いつ爆発するかも分からない、忌まわしい時限爆弾なんです! 私は、皆様に愛される資格なんて最初からなかった……! 私はただ、誰かの代わりに毒を吸って死ぬためだけに作られた、偽物の人形だったんです!」
叫び終えたフィリアの顔は、自らの存在に対する激しい嫌悪と、仲間を傷つけてしまうかもしれない恐怖によって、見るに堪えないほど無残に歪んでいた。
奥歯をガチガチと鳴らし、自らの肉体を呪うように顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくるその姿は、あまりにも痛ましく、救いを求めてもがく幼子のようだった。
「人形なんかじゃない! あんたはフィリアよ!」
アリアが叫び返した。
その瞳には、切迫した焦燥と、何があってもこの少女を連れ戻すという気迫に満ちた熱い涙が滲んでいた。
眉根を悲痛に寄せて、まるで自分の魂が千切れるかのような痛みを浮かべながら、アリアは必死にフィリアを見据えている。
「人形ですッ!!」
フィリアの絶叫が、轟く雷鳴を圧して響き渡った。
「私がここにいるだけで、皆様の命を脅かしてしまう! 私の心臓が動くたびに、この街を、大地を、大好きな皆様を殺してしまうかもしれない! そんなの……そんなの、耐えられません……! 私は皆様を救いたかった……! 皆様の力になりたかった! なのに……私自身が皆様を破滅させる災害だなんて……そんなの、生きていていいはずがないじゃないですかッ!」
少女の腕が激しく震え、短剣の切先が骨に達するほど強く押し込まれる。
胸元の聖痕が臨界を迎え、紫黒の毒素の火花がパチパチと大気中に散り始めていた。
「もう……限界なんです。あと数分もすれば、私の意志に関係なく、この身体が決壊してしまいます……! だから……だから、お願いです。私が完全に破裂する前に、この核を潰して、奈落へ落ちさせてください……! 誰の手も汚さず、一人で消えさせてください……!」
「ふざけないでよッ!!」
静寂を破ったのは、アリアの全身全霊の咆哮だった。
次の瞬間、アリアの身体が弾丸のように地を蹴っていた。
泥を跳ね上げ、風を裂いて疾走する。
「アリア様ッ、来ないで――ッ!」
フィリアが絶望に瞳を見開き、短剣を胸の深奥へと突き立てようと腕に力を込めた。
だが、それよりも速く、白銀の閃光が宙を薙いだ。
抜刀すらしていない。
アリアは鞘に収まったままの『蒼水直剣アルビオン』を横薙ぎに振り抜き、硬質な鞘の先端でフィリアの手首を正確無比に打ち据えた。
短剣が甲高い音を立てて宙を舞い、断崖の奈落へと吸い込まれていく。
「あ……」
武器を奪われ、よろめいたフィリアが呆然と目を見張った。
その無防備になった白い頬へ向けて、アリアの素手が振り抜かれた。
激しい破裂音が、雨煙の立ち込める断崖に木霊した。
アリアの右手のひらが、フィリアの柔らかな左頬を、一切の加減なく真っ向から打ち据えていた。
衝撃で、フィリアの顔が真横に跳ね飛ばされる。
濡れた髪が乱れ、よろめいて膝をつきそうになったフィリアの肩を、アリアの左手が乱暴なまでに力強く鷲掴みにして引き留めた。
「……っ……ぁ……」
フィリアは打たれた頬を片手で押さえ、痛みに息を呑みながら、信じられないものを見るようにアリアを見上げた。
生まれてから一度も、他人に暴力を振るわれたことなどなかった。神樹聖教の地下深くで、清廉な生贄として、腫れ物に触るように丁重に扱われてきた少女にとって、それは生まれて初めて受ける、生身の痛打だった。アリアの右手が、真っ赤に腫れ上がり、微かに震えている。
叩いたアリア自身もまた、掌を貫く激痛と胸を引き裂く苦しさに耐えるように奥歯を噛み締め、顔中を涙と雨でぐしゃぐしゃに濡らしていた。
「……勝手に死ぬなんて、絶対に許さない」
低く、けれど地の底から絞り出すようなアリアの声が響いた。
「何が『誰の手も汚さず一人で消える』よ……! 何が『神樹へ還る』よ……! ふざけるのも大概にしなさいよッ!!」
「ア、アリア……様……?」
「あんたがそこで死んだら、あたしたちはどうなるのよ!? あんたを助けられなかったあたしは、あんたの手紙を握りしめて、一生自分を呪って生きていけって言うの!? そんな呪いを残して死ぬことが、あんたの言う『優しさ』なわけ!?」
アリアの菫色の瞳から、大粒の涙が滝のように零れ落ちた。
「道具だの人形だの、教会が勝手に決めたことなんて知るもんか! あたしが一緒に旅をしてきたのは、誰かの代用品なんかじゃない! 転んだら泣きそうになって、それでもあたしが怪我をしたら誰よりも必死に祈ってくれた……あたしの大切な妹で、かけがえのない仲間の、フィリアなんだよッ!!」
「アリア様……っ……でも、私……皆様を、殺して……」
「殺させないッ! あんたも、あたしたちも、誰ひとり死なせない!!」
アリアは叫ぶと同時に、フィリアの細い身体を両腕で力任せに引き寄せ、胸の中へと強く抱きしめた。
「……っ!? だ、駄目です! 離れてください! 私の身体の毒が……アリア様を侵食してしまいます……!」
フィリアが必死に抵抗し、アリアの両肩を両手で押し返そうとする。
その皮膚からは、すでに肉眼で見えるほどの濃密な紫黒の瘴気が立ち上り、アリアの服を、肌を焦がすようにチリチリと黒ずませていた。
触れるだけで、常人なら激痛にのたうち回る猛毒。
だが、アリアは腕を緩めるどころか、骨がきしむほど強く、フィリアの頭を自らの肩口へ押し当てた。
「離さない……! 絶対に離すもんか……ッ!」
アリアの胸元で、純白の燐光が爆発した。
『勇者の聖痕』――クラリスがレンに遺し、世界の因果を巡ってアリアへと受け継がれた魂の光膜が、淡い波紋となって二人の身体を包み込む。
フィリアの体表から漏れ出る猛毒の粒子が、アリアの無垢なるマナと激突し、浄化の白煙となって雨空へ消えていく。
「毒だろうが、呪いだろうが、全部あたしが受け止めてやる! フィリアが抱えきれないなら、あたしたち全員で背負うの! だから……お願いだから、あたしを置いていかないで……! 一人で死のうなんて、二度と言わないでよ……フィリアぁっ……!」
アリアが、子どものようにしゃくりあげて泣いた。
自分を守るために怒り、自分を救うために命がけで抱きしめ、自分のために泣いてくれる少女の温もり。
その圧倒的な熱量が、フィリアが十六年間閉じ込められていた氷の檻を、跡形もなく融解させていく。
「アリア様……っ……う、あぁ……っ……!」
フィリアの抵抗する手が、力を失った。
少女はアリアの濡れた背中の衣を両手で強く掴み返し、その胸に顔を埋めて、生まれて初めての慟哭を上げた。
「生きたい……っ! 私、生きたいです……! 死にたくない……っ! アリア様たちと一緒に……生きていたいです……っ!!」
「うん……! 生きるの! これからもずっと、みんなで一緒に生きるんだよ……!」
「フィリアッ!!」
駆け込んできたリンが、二人を包み込むように外側から抱きしめた。
『ギア・ナックル』の重金属の装甲越しに、リンの熱い体温が伝わる。
「馬鹿野郎が! アタシらの背中を舐めんじゃないよ! 誰が時限爆弾なんかにテメエを渡すもんかい!」
「リン様……っ……!」
「ルシアン、早くしなッ! 臨界が限界突破するぞ!」
「了解しました! どいてください!」
ルシアンが泥濘に膝をつき、外套の内懐から深紫のフラスコと、真鍮製の大型注射器を取り出した。
青年の瞳の奥で、数千の魔導幾何学数式が青い光となって高速収束していく。
「神樹の排液中和核、展開! 四元素励起――【エレノア式・張力分散緩衝術式】接続ッ!」
ルシアンは注射器の針をフィリアの左腕の静脈へと迷いなく刺し貫いた。
同時に、アストロラーベ・ワンドの先端をフィリアの胸元の聖痕へと押し当てる。
「臨界毒素を中和触媒へ誘導……! マナの急激な圧力勾配を、エレノア様の張力分散波で相殺します……ッ! ぐ、うああああああっ!!」
ルシアンの腕に、凄まじい逆流マナの負荷が襲いかかる。
青年のスレートチャコールのコートの袖が破れ、皮膚に青白い過負荷の火花が散った。
だが、ルシアンは歯を食いしばり、一ミリたりとも杖を引かなかった。
「僕の数理演算を……エレノア様の遺した理論を侮るなッ!! 解毒式、定着――【完全中和】ッ!!」
紫色の薬液が、シリンダーからフィリアの血管へと一気に注入された。
その瞬間、フィリアの全身を金緑色の光柱が貫いた。
少女の口から苦悶の喘ぎが漏れたが、次の瞬間、首筋や胸元を這い回っていた黒紫の血管が、まるで冷水をかけられた墨のように急速に色を失っていく。
ドクドクと不規則に波打っていた胸元の聖痕は、毒素の結合を強制解除され、透明な琥珀色の光へと変色していった。
パリン、と大気の中で何かが弾け飛ぶような澄んだ音が響いた。
滞留していた猛毒の瘴気が完全に中和され、爽やかなオゾンの香りが断崖を満たす。
フィリアの体内の毒素圧縮率は、危険水域である99%から、生体に影響のない安全域へと一気に押し戻されていた。
「……はっ……あ……」
フィリアの身体から力が抜け、崩れ落ちた。
アリアとリンが、その華奢な身体をしっかりと抱き止める。
「……成功、です……」
ルシアンが泥の上に座り込み、肩で息をしながら、壊れた眼鏡を押し上げて力なく笑った。
雨脚が、いつの間にか弱まっていた。
重く垂れ込めていた鉛色の雨雲の切れ間から、一筋のあたたかな陽光が斜めに差し込み、濡れそぼった大地と4人を照らし出していく。
断崖の縁で、泥だらけになりながら寄り添い合うカルテットの姿が、光の中に浮かび上がっていた。
フィリアは、涙で濡れた顔を上げ、差し込む光に目を細めた。
胸の奥に渦巻いていた冷たい悪臭と息苦しさは、完全に消え去っていた。
そこにあるのは、トクン、トクンと、力強く、清らかに脈打つ自分自身の心臓の鼓動だけだった。
「……私……生きて、いるのですね……」
「そうよ」
アリアが、泥に汚れた自らの掌で、フィリアの濡れた頬をやさしく包み込んだ。
その顔には、いつもの眩しい、太陽のような笑顔が戻っていた。
「言ったでしょ。あたしたちは、4人でひとつのパーティーなんだから。誰ひとり欠けちゃいけないの。……おかえり、フィリア」
フィリアの瞳から、再び涙が溢れ出た。
だが今度の涙は、絶望の涙ではなかった。
少女は胸元の淡く光る刻印に手を重ね、震える声で、けれど心の底からの想いを込めて答えた。
「……ただいま、戻りました……! アリア様……皆様……っ!」
白百合の少女は、もう二度と折れることのない強さを宿して、仲間の腕の中で微笑んでいた。
(第二十七話 完 / 第二十八話へ続く)
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