第二十七話:『生贄の刻印と、雨の白百合』第三節:夜明け前の失踪、枯死の樹海
雨脚は未明を過ぎても衰えず、街道沿いの寂れた旅籠の瓦屋根を激しく打ち据え続けていた。
宿の一階、隙間風の吹き込む薄暗い板間で、ルシアンが机の上に無数の計算用紙を敷き詰めていた。
アストロラーベ・ワンドの真鍮球体が淡い青の燐光を放ちながら静かに旋回し、エルザから投げ渡された深紫のフラスコと、禁書庫から持ち出したエレノアの未公開論文を照らし出している。
青年の右目にあるアナライザー・モノクルは、徹夜の酷使によってかすかに充血していたが、その眼光は研ぎ澄まされていた。
「……解けた。いけます……!」
ルシアンがペンを置き、軋む背骨を伸ばした。傍らで腕組みをしたまま仮眠を取っていたリンが、即座に琥珀色の目を開ける。
「出来たのかい、ルシアン!?」
「はい。エルザ殿の薬は、神樹の排液由来の汚染核を分解する力こそ桁外れですが、急激な減圧によって患者のマナ循環系を内側から破壊してしまう欠陥がありました。ですが、エレノア様の張力分散式――【マナ緩衝触媒理論】の補正項を代入したところ、生体への負荷を百分の一以下に抑えつつ、毒素のみを段階的に分解する中和プロセスが完全に成立しました」
「本当かよ……! さすがは首席、やるじゃないか!」
リンが破顔し、ルシアンの肩を力任せに叩いた。その隣で、長椅子の端で浅い眠りについていたアリアも飛び起き、菫色の瞳を輝かせた。
「ルシアン、本当!? フィリアを助けられるのね!?」
「はい。あとはこの術式通りにマナを通しながら薬を投与すれば、体内の毒素蓄積を安全域まで押し戻せます。……早くフィリア様に知らせて安心させてあげましょう。昨晩の様子では、精神的な負荷でいつ臨界が決壊してもおかしくありませんでしたから」
3人は二階へと続く軋む木階段を駆け上がった。アリアが先頭に立ち、フィリアの部屋の木製扉の前に立つ。
「フィリア、起きてる? アリアだよ。ルシアンがね、薬を完成させてくれたの! もう大丈夫だから――」
ノックの返事はなかった。
室内からは、衣擦れの気配すら伝わってこない。胸の奥を走った冷たい嫌予感に突き動かされ、アリアは真鍮のドアノブを回した。
鍵は開いていた。
部屋の中は、灰色の朝露の光が差し込むばかりで、静まり返っていた。
整えられたままの粗末なベッドに、フィリアの姿はなかった。
「……フィリア?」
アリアが部屋の中央へ踏み入る。
冷え切った空気の中、窓際の木机の上に、綺麗に折り畳まれた一枚の羊皮紙が残されていた。
インクが乾いたばかりのその手紙の横には、フィリアが教会から授かり、肌身離さず持っていたはずの純銀のロザリオと重装の聖職者ケープが、祈祷杖と共に静かに横たえられている。
アリアは震える指先で、その手紙を開いた。
そこには、乱れのない、けれど水滴のような滲み跡が幾重にも重なった、フィリアの生真面目な文字が並んでいた。
『アリア様、リン様、ルシアン様へ。
勝手に出ていくことを、どうかお許しください。昨夜、エルザ様の言葉を聞いて、私は悟りました。私は、皆様に守っていただく資格のある人間ではありませんでした。私の身体は、誰かの命を奪った猛毒で満ちています。私が皆様のおそばにいるだけで、私の心臓が脈打つたびに、大好きな皆様の命を脅かしてしまう。もし私の身体が決壊してしまったら……皆様を、そしてこの街の無辜の人々を巻き込んでしまう。その恐怖に、私の心は耐えられそうにありません。
アリア様。不器用で危なっかしい私を、いつも妹のように抱きしめ、危険の前に立って守ってくださったこと。本当のお姉様ができたようで、胸がいっぱいになるほど嬉しかった。
リン様。乱暴な言葉の裏にいつも温かな優しさを隠して、不器用な私の背中を何度も支えてくださったこと。
ルシアン様。迷いそうになる私に、いつも正しく優しい道筋を示してくださったこと。
偽りの生贄として作られた私にとって、皆様と過ごした旅の日々だけが、生まれて初めて触れた「本物の光」でした。だからこそ、その光を私の手で汚すわけにはいかないのです。
どうか、私を探さないでください。人のいない、誰も傷つけない最果ての地で、静かに神樹へお還りします。皆様がいつか、美しい海へ辿り着けることを、心の底からお祈り申し上げております。
フィリア』
「……っ……バカ……! なんで……なんでよ……ッ!」
アリアの手の中で、羊皮紙がくしゃりと握り潰された。
菫色の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ落ちて頬を濡らす。
奥歯が砕けそうなほど強く噛み締められ、震える唇から漏れ出たのは、理不尽な運命に対する激しい怒りと、愛する妹分に置いていかれそうになった悔しさが綯い交ぜになった、痛切な怒り泣きだった。
「何が『神樹へ還る』よ……! 勝手に一人で納得して、勝手に消えようとして……ふざけないでよッ!」
「アリア、手紙の日時は!? いつ出たんだ!?」
リンが窓枠に手をかけ、外の雨煙る森を鋭く見据えた。
「インクの乾燥度と部屋の室温低下から逆算して、推定離脱時刻は午前4時前後……いまから約2時間前です!」
ルシアンが部屋の机に残された痕跡から瞬時に弾き出す。
「まずいぞ! 徒歩だとしても、もう何キロも先へ行っちまってる! しかも外は土砂降りだ、足跡なんざとっくに雨で流されてやがる!」
リンが歯噛みし、『ギア・ナックル』の拳を壁に叩きつけた。
だが、ルシアンの青ざめた表情は、別の絶望を捉えていた。青年は懐から耐火ケースの顛末書を取り出し、アレキシア周辺の地勢図を床へ叩きつけるように広げた。
「問題は足取りだけではありません……! フィリア様の精神状態は、昨晩の時点で限界でした。この激しい雨の中を絶望した状態で歩き続ければ、マナの自己抑制が失われ、体内の毒素臨界速度は平常時の三倍以上に跳ね上がります!」
「……それって、どういうことなの!?」
アリアがルシアンの肩を掴む。
「あと数日など保ちません! ……早ければ、今日の正午前には許容量の100%に達し、生体決壊を起こします! 残された時間は、あと二時間もありません!」
部屋の空気が凍りついた。失踪した少女を連れ戻すための追跡ではない。間に合わなければ、フィリアが命を落とすだけでなく、彼女の肉体を中心とした半径数キロメートルが猛毒の蒸気で壊滅する。
「行き先だ……! フィリアはどこへ向かった!? ルシアン、見当はつくかい!」
リンの叫びのような問いに、ルシアンはモノクルの演算照準を地図上へと落とした。
青年の脳内で、手紙の文面、フィリアの心理プロファイル、そしてこの土地の地理条件が凄まじい速度で結合されていく。
「手紙には『人のいない、誰も傷つけない最果ての地』とありました。フィリア様の性格上、街道や集落のある方角へは絶対に足を踏み入れません。そして……西大陸の神樹の排液は、このアレキシアの地下深層水脈を通って東へ流れています。……彼女が無意識に『毒を引き寄せる体質』に導かれているとすれば、行き先はひとつしかありません」
ルシアンの指先が、地図の北東部――等高線が険しく切り立った断崖の記号を強く突き刺した。
「旧薬草園のさらに奥、神樹の古い根が地表へ露出して腐食し、あらゆる植物が枯れ果てた禁忌地帯――【枯死の断崖】です! そこなら、底知れぬ谷底へ身を投げれば誰にも害を及ぼさないと、彼女ならそう考えるはずです!」
「枯死の断崖……!」
アリアは涙を乱暴に手甲の裏で拭い、左腰のアルビオンを強く握り直した。
「追うよ! 絶対に追いつく! ……あんな手紙で終わらせてたまるもんか!」
「応よ! アタシらの足を舐めんなってんだ!」
リンがガントレットの蒸気圧を高め、窓枠を蹴破るような勢いで部屋を飛び出した。ルシアンは完成した中和薬のフラスコと注射器具をスレートチャコールの外套の内懐へ厳重に固定し、アストロラーベを握りしめて後に続く。
宿を飛び出した3人の全身を、冷たい雨の豪雨が容赦なく叩きつけた。視界を白く遮る雨煙の中、ルシアンがモノクルで微細なマナの歪みを捉えて進路を叫び、リンが泥濘を蹴立てて道を切り拓く。その先頭を、銀の髪を濡らしながら、アリアが風のように駆け抜けていた。
(待ってて、フィリア……!)
少女の胸元で、純白の光を帯びた『勇者の聖痕』が、フィリアの消え入りそうな命を希求するように強く、熱く脈動していた。




