第二十七話:『生贄の刻印と、雨の白百合』 第二節:魔王の密命と、母の怨嗟
「ふざけた事を言うなッ!」
リンの怒声が、湿り気を帯びた廃温室の空気を激しく切り裂いた。
踏み込んだ足元からコンクリートの破片が跳ね上がり、『ギア・ナックル』のナックルプレートがエルザの鼻先数ミリで鋭く停止する。
超重量の打撃を寸前で抑え込んだ拳からは、高圧蒸気シリンダーの荒い排気音が吹き出していた。
「時限爆弾だのバイオハザードだの、勝手なことばかり並べ立てやがって! アタシらの仲間を、そんな化け物みたいに言ってタダで済むと思ってんのか!」
リンの琥珀色の双眸が、剥き出しの敵意で燃え盛っている。
だが、至近距離に凶悪な鉄拳を突きつけられたエルザは、眉ひとつ動かさなかった。
ただ、その乾いた唇に、侮蔑とも憐憫ともつかない薄い冷笑を浮かべる。
「殴りたいなら殴りな、小娘。だがね、現実ってのは拳の重さじゃ覆らないのさ」
エルザの視線はリンを素通りし、アリアの背後で膝をつき、自らの両腕を抱きしめて小さく震えるフィリアへと向けられた。
「……あたしが憎んでいるのは、その娘じゃない。その娘をそんな歪な汚物容器に仕仕立て上げた、神樹聖教のクソ野郎どもさ」
エルザの低く濁った声に、それまで漂っていた冷徹な医師の仮面が剥がれ落ち、底知れぬ憎悪の熱が滲み出た。
女性は灰褐色の長衣の袖をまくり上げ、自らの前腕を4人に晒す。
その浅黒い皮膚には、木の根が侵食したような赤黒いケロイド状の瘢痕が、肘から手首にかけて醜く這い回っていた。
「あたしにはね、かつて幼い娘がいたよ」
雨だれの音だけが、コンクリートの部屋に響く。
「西大陸の神樹イグニス・アルボルから、中央の海を越えて東の魔大陸沿岸へ絶え間なく押し寄せる、あのドス黒い濃縮排液の湿地帯で育った子だ。西の帝国の連中が神樹の清潔な神水で肥え太る裏で、毒の混じったヘドロの澱みは全部あたしたちの住処へ垂れ流されていたのさ」
エルザの指先が、自らの腕の瘢痕を爪が食い込むほど強く掻きむしった。
「娘はある日、突然血を吐いて倒れた。肺も胃も、神樹の排液に含まれる魔毒で焼け爛れてね。あたしは薬師だ。あらゆる薬草をすり潰し、魔大陸中を駆け回って解毒薬を探し求めた。……だが、治せなかったよ。あの子はね、息をするたびに内臓を吐き出して、ただ苦しんで死んだんだ。あの子の冷たくなった身体を抱きしめた時の重みと臭いを、あたしは死んでも忘れやしない」
エルザの瞳の奥で、昏い怨嗟の炎が揺らめいている。
その眼差しが、フィリアの胸元の淡く光る聖痕を射抜いた。
「教会はね、そんな地獄を生み出す神樹の毒を、民を欺くための『奇跡の神水』へ精錬するために、人間を生きたフィルターにして濾過させてきた。百年前はクラリスを使い潰し、今度はその娘だ。……あたしから言わせればね、その娘の身体に詰まっているのは、あの子を殺した毒そのものなんだよ。この娘が息をするたびに、あたしの娘を奪った悪臭が鼻をつくのさ」
「……っ……」
フィリアの喉から、声にならない嗚咽が漏れた。
他人の最愛の命を奪った忌まわしき猛毒が、いま自らの体内で脈打ち、外へ溢れ出そうとしている。
その事実が、フィリアの優しすぎる心を内側から鋭利な刃物のように切り刻んでいく。
「でも……! だからって、フィリアが悪いわけじゃない!」
アリアが叫んだ。
アルビオンの鋒を下げ、アリアは必死にエルザの憎悪の視線を遮るように立ち塞がる。
「フィリアだって、自分がそんな身体にされているなんて知らなかった! 教会に利用されて、騙されていた被害者じゃないか! なんであんたは、そんな酷い現実をフィリアに叩きつけるのよ……!」
「被害者だからって何なんだい? 爆発すりゃあ加害者になるんだよ!」
エルザの怒声が、天窓のガラスを震わせた。
「お前たちが感動的な仲良しごっこをしていようが、この娘が善人だろうが、限界を超えれば大地は腐り、何千もの罪のない人間が死ぬ! あたしの娘と同じ苦しみを味わってのたうち回るんだ! それを見過ごせとでも言うのかい!?」
アリアは言葉を詰まらせ、悔しさに唇を噛み締めた。
正論だった。
感情論では決して拭えない、物理的な生体兵器としての破滅が、すぐそこに迫っているのだ。
「……ですが、エルザ殿」
それまで沈黙を守り、アストロラーベの幾何学盤を凝視していたルシアンが、静かに口を開いた。
青年のアナライザー・モノクルの青い光条が、エルザの肩に提げられた革の薬箱の底部を捉えている。
「貴女のその言葉が本心なら、なぜ貴女は【抑制剤の抽出瓶】を肌身離さず持っているのですか?」
ルシアンの指摘に、エルザの眉がわずかに跳ねた。
「貴女の薬箱の底、重層魔導硝子で密閉されたフラスコから漂うマナの波形……あれは神樹の毒素の排出薬、それも生体のマナ循環を逆位相で固定化するための超高精度な中和触媒の波形です。……貴女は、最初からフィリア様を救うための処方を持ってここへ来たのではないですか?」
「な……ルシアン、本当なの!?」
アリアが弾かれたように振り返る。
温室の中を、冷たい沈黙が支配した。
雨音が再び重く響き渡る中、エルザは小さく舌打ちし、肩の薬箱の留め金を乱暴に外した。
中から取り出されたのは、複雑な真鍮の管が巻き付けられた、深紫色の液体が満ちる円筒形のガラス容器だった。
「……目ざとい小僧だね。学府の出来損ないにしては、いい目をしているよ」
エルザは自嘲するように口元を歪め、その容器を忌々しそうに見つめた。
「あたしが自分の意志でこんなものを作るわけがないだろう。……これはね、あの男の命令さ」
「あの男……?」
リンが怪訝そうに呟く。
「魔王レン様だよ」
エルザの口から出たその名に、カルテットの全員が息を呑んだ。
「数ヶ月前、魔大陸に『二代目生贄擁立』の凶報が届いたあの日…… あの御方は、胸元の魔核を激しく脈動させながら、あたしに命じたのさ。『あらゆる手を尽くし、あの娘の体質を元に戻す薬を作れ。二度と、あんな真似を繰り返させるな』とな」
エルザの脳裏に、感情を喪失した死人の能面を被りながら、なおその深淵で哀しい執念を燃やしていた黒衣の青年の姿が蘇っていた。
「あの御方にとって、この娘は100年前のクラリスの生き写しに見えたんだろうさ。人間を根絶やしにする更地化の号令を下す一方で、たった一人の生贄の娘を救うための解毒薬を、あたしに極秘で調合させていたんだよ」
「魔王が……フィリアを救うために……?」
アリアの脳裏に、大図書館の崩壊の最中、天空に浮かんでいたあの黒衣の男のシルエットが鮮烈に蘇った。
世界を更地に変えようとする災厄の男が、自らと同じ地獄に落とされようとしている少女のために、裏で薬を用意していた。
その不器用で、痛ましいほどの人間性の残滓に、アリアの胸が強く締め付けられる。
「だがね、あたしには我慢がならなかった」
エルザの吐き捨てるような声が、温室の空気を叩いた。
「レン様の命だから薬は作ったさ。だが、いざこの娘の顔を見たら……あの子の顔がちらついて、どうしても薬を差し出して『助けてやる』なんて言えなかった。この娘がどれだけ危険な爆弾なのか、自分が背負っている罪の重さを、教会の欺瞞を、思い知らせてやりたかったのさ」
エルザは深紫色の容器を、コンクリートの床へと乱暴に投げ捨てた。
金属の管が甲高い音を立てて転がり、ルシアンの足元で止まる。
「それはまだ未完成の原薬だ。神樹の毒素を中和する成分は入っているが、劇薬すぎてそのまま飲ませりゃあ、毒が破裂する前にショック死するよ。定着させるには、精密なマナの循環制御と、生体への負荷をゼロにする触媒理論が必要だ。……あたしの手には負えないね」
エルザは背を向け、灰褐色の長衣を翻した。
「薬はくれてやる。どうせその娘の命はあと数日だ。爆発させて街ごと死ぬか、劇薬をあおって即死するか、好きにしな」
ツタのカーテンの隙間へと、エルザの長身が溶け込むように消えていく。
アリアが呼び止めようと足を踏み出したが、女の気配は降りしきる雨の樹海の中へ完全に霧散していた。
部屋に残されたのは、足元に転がる紫のフラスコと、重苦しい沈黙だけだった。
「……ルシアン」
アリアが掠れた声で呼ぶ。
ルシアンは膝をつき、壊れ物を扱うように慎重な手つきでフラスコを拾い上げた。
アナライザー・モノクルの青い光が、薬液の成分比率を高速で走査していく。
「……エルザ殿の言う通りです」
ルシアンは悔しそうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「毒素の結合を解く成分は完璧ですが、反応速度が急激すぎます。このまま投与すれば、フィリア様の脆弱化した神経系が耐えきれません。……安全に体質を中和するには、マナの急激な熱暴走を抑える【触媒による張力分散】が必要です」
「触媒……まさか、エレノアの……?」
リンの問いに、ルシアンは力強く頷いた。
「はい。禁書庫から持ち出したエレノア様の未公開生体触媒理論――あれを数理式として組み込めば、この薬を安定化させられるはずです。……ですが、それには精密な術式構築のための時間と、静かな環境が必要です」
「よし……! ここを出よう。まずは外郭の宿へ入って、腰を据えて体勢を立て直すよ!」
アリアが力強く告げ、床にへたり込んだままのフィリアへと手を差し伸べた。
「フィリア、立って。大丈夫、希望はあるよ。あたしたちが、絶対に何とかしてみせるから」
だが――フィリアはその手を、取らなかった。
少女は濡れたコンクリートの床を見つめたまま、微動だにしなかった。
巡礼服の袖を握りしめる両手は白くなるほど力が込められ、小刻みに、激しく震えている。
「フィリア……?」
アリアが覗き込むと、フィリアはゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、すべての光が消え去っていた。
頬を伝って零れ落ちる涙が、床に落ちて小さな染みを作っていく。
「……皆様」
フィリアの唇から零れ落ちたのは、壊れた硝子細工のように脆く、冷え切った声だった。
「……私は……生きていて、いいのでしょうか……?」
「何言ってんのよ! 当たり前じゃない!」
アリアが叫んだが、フィリアはただ悲痛に首を横に振るだけだった。
数時間後、一行はアレキシア外郭の街道沿いにある寂れた旅籠へと潜伏した。
激しい雨が屋根を打ち叩く中、フィリアはあてがわれた部屋のベッドに座り込んだまま、一言も言葉を発しなかった。
アリアが温かいスープを運んでも、リンが励ましの声をかけても、ただ俯いて小さく「申し訳ありません」と繰り返すだけだった。
その虚ろな視線は、部屋の隅の簡素な木机の上に置かれた、手付かずの羊皮紙とインク瓶へと何度も彷徨っていた。
やがて夜が深まり、フィリアの部屋の扉が固く閉ざされた。
隣室でルシアンが徹夜でエレノアの論文とフラスコの数理解析に没頭し、アリアとリンが疲労に耐えながら交代で宿の周囲を見張る中――。
閉ざされた部屋の奥で、フィリアはひとり、暗闇の中に立ち尽くしていた。
自らの胸元――脈打つたびに淡く光る聖痕に手を当て、溢れ出る涙を両手で押し殺しながら。
(私の身体は……皆様を殺してしまう……)
(私がここにいたら……大好きなアリア様も、リン様も、ルシアン様も……あの子のように、内臓を吐いて死んでしまう……)
少女の瞳に宿ったのは、逃れようのない深い絶望と、あまりにも哀しい覚悟だった。




