第二十七話:『生贄の刻印と、雨の白百合』 第一節:廃温室の薬師、暴かれる生体時限爆弾
崩壊したアレキシア学術都市の中枢から立ち上る黒煙が、鉛色の空を重く覆っている。
外郭導魔橋を駆け抜けた蒸気魔導馬車は、追手を振り切るように舗装路を外れ、打ち捨てられた旧薬草園の鬱蒼とした樹海へと滑り込んでいた。
かつて学府の植物魔導学派が管理していたというその一角は、長年の放置によってツタと雑草が生い茂り、木々の間には錆びた鉄骨と割れたガラスが散乱する巨大な廃温室が佇んでいる。
車輪が泥濘に足を取られて停止すると、ルシアンが周囲の索敵を終えて扉を開けた。
「ここなら学府の警備魔導網の死角です。雨脚も強くなってきました、奥の管理区画へ入りましょう」
4人は馬車を降り、割れたガラス戸をくぐって廃温室の深部へと足を踏み入れた。
頭上を覆う巨大なガラスドームは天井の半分が抜け落ち、冷たい雨水が枯れ果てた薬草棚を規則正しく濡らしている。
絡み合うツタを払い、かつての栽培管理室とおぼしき頑丈なコンクリートの部屋へと腰を落ち着けたところで、アリアは濡れた前髪を払って深く息を吐き出した。
その隣で、フィリアは祈祷杖を両手で抱きしめたまま、微かに唇を震わせて立ち尽くしている。
禁書庫の底で暴かれたあの血塗られた顛末書――百年前、神樹聖教がクラリスを道具として使い潰し、初代勇者たちを謀殺したという生々しい記録は、同じ聖女の候補として育てられたフィリアの胸に、重く冷たい鉛のように沈殿していた。
「フィリア、寒くないかい? 手が冷え切ってるよ」
リンは両手に填めた無骨な『ギア・ナックル』の指先を気にしながら、懐から乾いた清潔な布を取り出し、フィリアの冷たく悴んだ指先と濡れた額を丁寧に拭った。
「あ……リン様、ありがとうございます……。私、大丈夫です……。ただ、少し……胸のあたりが、息苦しくて……」
フィリアがおずおずと微笑もうとした、まさにその時だった。
「――そうだろうね。胸が詰まるのも無理はないさ。その身体はもう、とっくに悲鳴を上げているんだからね」
低く乾いた、冷淡な女の声が、部屋の奥の暗がりから降ってきた。
「誰だッ!」
アリアが即座に左腰の『蒼水直剣アルビオン』の鯉口を切り、鋭い切先を暗闇へ向けた。
リンは低く身構え、両腕の『ギア・ナックル』の調律歯車をきしりと噛み合わせる。
ルシアンは瞬時にアストロラーベ・ワンドを構え、右目のアナライザー・モノクルで影を走査した。
枯れたツタのカーテンを押し分けて現れたのは、灰褐色の長衣をまとった長身の女性だった。
額から左右に伸びる、木の枝のようにねじれた漆黒の角。
帝国の人間にはあり得ない異様な風貌と、漂う濃密なマナの気配に、ルシアンの喉が小さく鳴った。
「……亜人……!? まさか、魔王軍の幹部か……ッ!」
「騒ぐんじゃないよ、小僧ども。あたしは戦いに来たんじゃない。……魔王軍、樹角族の大薬師エルザさ。確認しに来ただけだよ。教会が百年かけてこしらえた、最新型の『生贄』の出来栄えをね」
エルザと名乗った女はアリアたちの武器を一瞥すらしようとせず、まっすぐにフィリアを見据えて歩み寄ってきた。
「フィリアから離れなさい!」
アリアがアルビオンの切先を突き出したが、エルザはその刃先を指先で軽く払いのけた。
「どきな、勇者気取りの小娘。あたしが手を出さなくたって、その娘はもう長くない」
「……あん? なんだって……!?」
リンが眉を吊り上げ、凄みを利かせる。
その隣で、アリアは耳を疑ったように菫色の瞳を大きく見開き、その場に凍りついた。何を馬鹿なことを言っているのかと、理解を拒むように表情を強張らせる。
エルザは動じることなく、立ち竦むフィリアの前へ歩み寄ると、躊躇なくその白く細い顎先を指先で持ち上げた。
次いで、フィリアが首元に着けていた巡礼服の襟元を無造作に押し開き、鎖骨の間に刻まれた神樹の刻印――淡い金緑色に発光する『聖痕』を露わにさせた。
「な、何をなさるのですか……っ!」
フィリアが怯えて身を引こうとしたが、エルザの指先が首筋の頸動脈と鎖骨の付け根を強く圧迫した。
「動くんじゃない。……ふん、やはりね。脈動が完全に澱んでいる。体内のマナ循環経路が、神樹の排液と同じ悪臭を放っているよ」
「排液の悪臭……? フィリアは神聖術の使い手よ! 毒なんて浴びてない!」
アリアの鋭い怒声とほぼ同時に、リンが身を沈めてエルザとフィリアの間に強引に割って入った。
『ギア・ナックル』を構えた左腕でフィリアを背後へ庇い、エルザを鋭い眼光で睨み据える。
しかし、エルザは冷笑を浮かべ、遮るリンの肩越しにフィリアの胸元の聖痕を顎で指した。
「浴びてない、だと? 冗談を言うんじゃないよ。この娘自身が【神樹の毒を吸い上げるためのフィルター】そのものなんだからね」
「……フィルター……?」
フィリアの瞳が、驚愕と恐怖に見開かれた。
「100年前の聖女クラリスは、自らの魂と寿命を燃やして奇跡を使うことで、結果として命を縮めた。だが教会の上層部は、それでは効率が悪すぎると考えたのさ。もっと長持ちし、意思に関係なく毒を濾過し続ける部品が欲しかった。……そこで作られたのが、この娘だ」
エルザの淡々とした宣告が、廃温室の冷気を一層凍りつかせていく。
「お前のその肉体はね、周囲の空間に漂う神樹の毒素――人間が吸えば内臓が腐るような汚染マナを、呼吸と皮膚から無自覚に吸い上げ、体内で濃縮して閉じ込めるように生体改造されているんだよ。大聖堂にいた時も、この街へ逃げてきた間も、お前は一秒たりとも休むことなく、周囲の毒を溜め込み続けてきたのさ」
「そんな……私が、毒を……? で、でも、私は誰かを傷つけるようなことは……!」
フィリアの顔から、さっと血の気が引いていった。信じたくない現実を突きつけられ、呼吸が浅く乱れ、自らの震える両手をまるで汚らわしい汚物でも見るかのように戦慄の眼差しで見つめる。唇の色は白く褪せ、恐怖のあまり膝が激しく震えていた。
「今はまだね」
エルザは冷徹に言い放った。
「教会の手元にあれば、定期的に地下炉へ連行され、身体から毒素を絞り取られていただろうさ。だがお前はそこから逃げ出した。冷却も抽出もされないまま、お前という容器は毒を溜め込み続けた。……そこの魔導士の坊や、お前のその眼鏡で、この娘の胸の刻印を測ってみな」
促されたルシアンが、青ざめた顔でアナライザー・モノクルの演算ダイヤルを回す。
レンズの奥に展開された幾何学データが、赤黒い警告色で点滅し始めた。
「……っ!? な、何ですか、このマナ圧縮率は……!? 生体の許容量を……99%以上、超過しかけている……!?」
ルシアンの悲鳴のような報告に、アリアとリンが息を呑んだ。
「そうさ」
エルザは冷ややかに頷いた。
「お前の体内毒素は、もう限界値の99%に達している。残り1%……あと数日、あるいはほんの少しの強い感情の揺らぎやマナの行使で、その容器は完全に決壊する」
「決壊したら……フィリアはどうなるのよ!?」
アリアが踏み込み、エルザの胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄った。
その表情は怒りに燃えているようでいて、眉根は悲痛なほど激しく歪み、瞳の奥には大切な家族を失うかもしれないという底知れぬ動揺と恐怖が剥き出しになっていた。
エルザはアリアの切迫した視線を正面から受け止め、残酷な現実を宣告した。
「どうなるも何もない。内臓が泥のように溶けて、この娘は絶命する。……だが、それだけじゃ済まないよ。濃縮され尽くした超高密度の神樹毒素が、この娘の肉体を起点にして四方へ一気に爆発・飛散するのさ」
割れた天窓から吹き込む風が、冷たく首筋を撫でた。
「……爆発……?」
フィリアの掠れた声が、静寂に落ちる。
「半径数キロメートル以内の全域が、致死性の汚染蒸気で満たされる。植物は枯れ果て、そこに生きる人間や獣は、皮膚をただれさせ血を吐いて死に絶える広域の生物災害――バイオハザードだ」
エルザの冷淡な視線が、崩れ落ちそうになるフィリアを射抜く。
「お前は聖女なんかじゃない。……いつ爆発して周囲の人間を皆殺しにするか分からない、歩く生体時限爆弾だよ」
(第二節へ続く)




