第二十八話:『百合の芽生え、天空への航路』 第三節:断髪の誓い、白百合の芽生え
「……髪を、切っていただけませんか」
静まり返った部屋の中に、フィリアの澄んだ声が落ちた。
卓の向こうで食後のお茶を啜っていたアリアが、目を丸くして顔を上げた。
リンも驚いたように琥珀色の目を瞬かせ、手帳を整理していたルシアンの手がピタリと止まる。
「髪を……? フィリア、その長い髪を切っちゃうの?」
「はい」
フィリアは自らの背中へと手を回し、濡れて重たく束ねられた淡い桜金色の長髪を胸の前へと引き寄せた。
指先を通せば、春の朝露のような、しっとりと冷たい感触が伝わってくる。
「この髪は……大聖堂の枢機卿様たちから、切ることを固く禁じられていたものです。『百年前のクラリス様に似せるため』、少しでも伸びた毛先を揃える以外、鋏を入れることすら許されませんでした」
少女の眉が、痛ましげに、けれど静かな拒絶を帯びて微かに引き結ばれる。
「私はずっと、教会の教えに従うことが善いことなのだと信じ込まされていました。誰かの身代わりになり、死んだ誰かの面影を真似て、与えられた檻の中で祈り続けることだけが私の存在価値なのだと……。でも、もうやめます」
フィリアはアリアの前に歩み寄り、畳まれた毛布の上にすとんと正座した。
そのエメラルドの瞳は、揺るぎない光を湛えてアリアの菫色の瞳を真っ直ぐに見据えている。
「私は、クラリス様の代用品ではありません。教会の都合で作られたお人形でもありません。……アリア様たちの背中を守り、この足で大地を踏みしめて、一緒に旅を続けたいのです。だから……この呪縛を、アリア様の手で断ち切ってください」
「……フィリア」
アリアの胸の奥に、熱い誇らしさがこみ上げてきた。
少女は八重歯を覗かせて不敵に笑うと、腰の革ホルダーから、手入れの行き届いた白銀の短剣を抜いた。
刃先が朝露の陽光を弾いてきらりと閃く。
「いい度胸よ、フィリア。……あたしに任せなさい!」
「おいおいアリア、あんたのその大雑把な手捌きで大丈夫かい? トラ狩りみてえなザンバラ頭にすんじゃないよ」
「失礼ね! 自分の前髪くらい自分で整えてるわよ!」
「殿下、幾何学的対称性――いわゆる左右のバランス配分には細心の注意を払いなさい。毛先の切断面が斜めに狂えば、空気抵抗が増大して非論理的なシルエットになりますからね」
「ルシアンは黙ってて! 気が散るでしょ!」
口喧嘩をしながらも、アリアの手つきは驚くほど優しかった。
フィリアの背後に回り、冷たく濡れた桜金色の束を左手で優しく掴む。
「いくよ、フィリア」
「はい……」
フィリアはそっと胸の前で小さな両手を重ね、静かに瞼を閉じた。
それは神樹や教会へ向けた盲目的な従属の祈りではない。これまでの哀しい孤独に別れを告げ、仲間たちと生きる新しい自分を迎えるための、穏やかで神聖な心の祈りだった。
シャキン。
鋭い金属音が静寂を裂いた。
重たい桜金色の髪束が、アリアの振るう白銀の刃によって迷いなく両断された。
春の宵桜が風に舞うように、パラパラと、床に敷いた麻布の上へと淡い桜色の毛先が零れ落ちていく。
続けて、耳の横、襟足、首筋のラインを揃えるように、リズミカルな刃の音が部屋に響いた。
かつて、帝国アカデミーの抑圧に中指を立て、自らの手で長い髪を切り落として自由を掴み取った魔導技師エレノアと同じように。
少女は今、他人に押し付けられた十六年間の鎖を、一筋ずつ切り落としていた。
やがて、アリアが短剣を鞘へと滑り込ませた。
「……できた! 目を開けていいわよ、フィリア!」
鏡の前に案内されたフィリアは、おずおずと瞼を持ち上げ、息を呑んで目を見張った。
そこに映っていたのは、首筋がすっきりと露わになった、ふんわりと丸みのある軽やかなショートボブの少女だった。
重たく垂れ下がっていた呪縛が消え去り、風が首元を吹き抜けるたび、桜金色の柔らかな毛先がふわりと軽やかに躍る。
「あ……」
フィリアがおずおずと自らの襟足に触れる。軽い。首を傾げるだけで、世界がふわりと浮き上がるような錯覚を覚えるほどの解放感。
「すっごく可愛いわ、フィリアッ!」
アリアが後ろからフィリアの肩を抱き寄せ、鏡越しに満面の笑みを向けた。
「前の長い髪も綺麗だったけど、今のフィリアのほうがずっと素敵! 青空や太陽の下が、すっごくよく似合ってるわ!」
「へへっ、アタシも同感だね!」
リンが歩み寄り、豪快に八重歯を覗かせてフィリアの頭をわしゃわしゃと優しく撫でた。
「あの重っ苦しい教会のベールを脱ぎ捨てて、目元の愛嬌がパッと引き立ってるぜ! これなら旅の風だって思いっきり受け止められる!」
「お二人とも……ありがとうございます……っ」
褒め言葉のシャワーを浴びて、フィリアの頬がほんのりと桜色に染まる。
そこへ、手帳を閉じたルシアンが歩み寄り、歪みのない眼鏡のブリッジを指先でクイと押し上げた。
「……コホン。客観的な数理所見を述べさせていただきますと」
「また理屈から入るの、ルシアン?」
アリアがジト目を向けると、ルシアンは少しだけ視線を泳がせながらも、真面目な面持ちでフィリアを見つめた。
「……頭部および頸部の質量バランスが改善されたことで、マナの神経伝達ロスが大幅に低減されています。何より……顔立ちの輪郭線に対し、毛先の描く曲線が極めて調和的です。……要するに、その……非常によく似合っていますよ、フィリア様」
「ふふ……ルシアン様らしいお褒め言葉ですね。嬉しいです」
フィリアが花が綻ぶように微笑むと、ルシアンは気恥ずかしそうに軽く咳払いをしてそっぽを向いた。
「よしっ! 頭が最高にさっぱりしたところで、次は身体の番だ!」
リンが物置の奥から、抱えきれないほどの布地と革紐の束をドサリと卓の上へ広げた。
それは、アレキシアの外郭工匠たちが隠し持っていた丈夫な仕立て布と、かつてエレノアの工房に残されていたという「高機動用マナ浸透繊維」の生地だった。
「あのドロドロに破けた巡礼服なんざ二度と着る必要はねえ! これから行くのは強風吹き荒れる天空都市だろ? アタシとアリアで、あんたにぴったりの動きやすいやつを仕立ててやるよ!」
「えっ、お二人でですか……!?」
「あったり前でしょ! 女子旅の醍醐味は着せ替えよ!」
「……あの、僕は居場所に困るのですが」
「ルシアンはあっち向いて手帳でも見てなさい!」
アリアとリンが楽しげに笑い声を上げながら、布地に刃を入れ、針を通し、フィリアの華奢な身体に合わせて手際よく組み上げていく。
締め付けられていた胸元の布を緩め、風を通すスリットを切り込み、泥を弾く革のベルトを締め直す。
「ちょっとくすぐったいです……!」
「動かない動かない!」
まるで姉妹がふざけ合うような賑やかな時間が流れていった。
――そして、半刻後。
「……できたわ! フィリア、完璧よ!」
アリアの弾んだ声に促され、衝立の奥から、おずおずとした足音とともに一人の少女が姿を現した。
「……あ、あの……こんな感じで、大丈夫でしょうか……?」
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その姿を目にした瞬間――
壁際で背を向けていたルシアンが振り返り、息を呑んで完全に硬直した。
そこに立っていたのは、かつて大聖堂の奥で萎れていた、儚い白百合の生贄ではなかった。
大空の風をその身に宿したような、息を呑むほどに軽やかで、眩しいまでの新星の姿だった。
上半身を包むのは、肩と背中がすっきりと開いた純白のホルターネックチュニック。
その上から羽織った薄手のスモックには、腰の深くまで大胆なスリットが刻まれ、金糸と淡い若葉色の豪奢な刺繍が風を孕むようにふわりと揺れている。
細く引き締まったウエストには、旅路の過酷さに耐えうる頑丈な茶革の『旅の腰コルセット』がキュッと巻き上げられ、少女らしい豊かな胸元と美しいくびれの曲線の魅力を際立たせていた。
何よりも目を引いたのは、その足元だった。
歩くことすら拒絶していたあの重たい裾の長いスカートは跡形もなく消え去り、白と浅葱色の生地で作られた、裾の絞られたふんわりとした『ハーレムパンツ』を穿きこなしている。
足首には、しなやかな革紐を幾重にも編み上げた『旅路のサンダル』。
華奢な足指が、しっかりと大地を踏みしめていた。
胸元を斜めに走る革ストラップには、ルシアンから預かった偏光クリスタルが誇らしげに輝き、手元には、大聖堂の長大な祈祷杖に代わる、短く優美な真鍮と白百合の細工を施した【風のワンド】が握られている。
「……っ」
ルシアンの喉が、引き攣った音を立てた。
青年のネイビーブルーの瞳が、フィリアの露出した白皙の肩や、スリットの隙間から覗く健康的な太もも、そしてコルセットで強調された豊満なプロポーションを一瞬で捉え、瞬時に茹で蛸のように耳の先まで真っ赤に染め上がった。
「ど、どうしたのよルシアン? なんか言いなさいよ」
アリアがニシシと八重歯を覗かせてからかうと、ルシアンは激しく動揺しながら、ガタガタと震える指先で眼鏡のブリッジを慌ただしく押し直した。
「……コ、コホンッ! ……か、外見の美醜など生体意匠の偶発的産物に過ぎませんよ! ……た、ただし! 質量配分による重心降下、および大気流動を逃がすスリット構造は……ええ、極めて空力力学的であり、マナの自己循環効率においても……大いに、合理的です……ッ!」
早口でまくしたて、懐から取り出した胃薬の包みを落とかけるインテリ。
そのあまりにわかりやすい動揺ぶりに、リンが腹を抱えて大爆笑した。
「ぎゃははははッ!! なんだよその理屈! 素直に『似合ってて可愛い』って言やあいいだろ、モヤシ眼鏡!」
「余計なお世話です野蛮人ッ!!」
部屋中に響き渡る笑い声の中で、フィリアはそっと自分の両足を見下ろした。
つま先をトン、と跳ねさせてみる。
布が肌に擦れ、裾から吹き抜ける風が直接肌を撫でていく。
「……軽い」
少女の瞳が、朝露のきらめきを映してぱっと輝いた。
「足が……こんなに軽いです! 走れる……私、これならどこまでも走れます、アリア様……っ!」
フィリアは嬉しそうにその場で小さくステップを踏み、ふわりとスモックを風に躍らせた。
その顔に浮かんでいたのは、誰かのために無理に貼り付けていた哀しい慈愛の微笑みではなかった。
十六歳の少女が、生まれて初めて自分の「意志」と「自由」を手に入れた、心の底からの眩い笑顔だった。
フィリアは【風のワンド】を両手で胸元へ引き寄せ、三人へと真っ直ぐに向き直った。
「私はもう、身代わりの聖女ではありません。……皆様の背中を守る、パーティーの一員です!」
白百合の蕾は、嵐を乗り越え、自分だけの色を誇るように凛として咲き誇っていた。
(第四節へ続く)
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