第二十八話:『百合の芽生え、天空への航路』 第四節:天空への跳躍、アエリアを目指して
笑い声が静まり、暖炉の薪がパチリと小さな火花を散らした。卓の上に広げられたのは、煤けた羊皮紙に記された西大陸の全図だった。
ルシアンが指先でアストロラーベ・ワンドの先端を滑らせると、青白い魔導幾何学の光が地図の上へと投射され、四大門閥の拠点と魔王軍の進軍予測ラインが立体的な等高線となって浮かび上がる。
「……さて。身支度と食事を終えたところで、現実的な航路の策定に入りましょう」
ルシアンの声には、いつもの冷徹で精密な理知が戻っていた。
青年はスレートチャコールの長外套の襟元を正すと、右目のアナライザー・モノクルの焦点を合わせ、地図の中央やや北東――雲の意匠で囲われた高標高の山脈地帯を指し示した。
「僕たちがここまで巡ってきたのは、火の門閥ヘパイストス、水の門閥ヴェネツィア・アルシア、そしてここ大学術都市アレキシアです。残る四大門閥の巨頭はふたつ。……次に目指すべきはここ、【風の門閥・ツェペリン家】が統治する天空都市アエリアです」
「天空都市アエリア……」
フィリアが【風のワンド】を抱えながら、その名を小さく反復した。
新調されたハーレムパンツの裾から覗く足首に結ばれたリボンが、窓からの微風に揺れる。
「噂には聞いたことがあるわ」
アリアが腰の白銀直剣の鞘に手を掛け、菫色の瞳を細めた。
「標高四千メートル、雲海の上に浮かぶ巨大な浮遊岩塊に築かれた観測都市でしょ? 地上の争いから隔絶されて、世界中の風と天体を観測し続けているって」
「ええ。ですが、彼らが百年間隠し続けてきたのは、単なる天候の記録ではありません」
ルシアンが手帳をめくり、アレキシア禁書庫から抜き出してきた極秘暗号データを卓上へ投影した。
「魔大陸から進軍する二代目魔王レンの背後には、星詠族の長老オディロンがついています。彼らは西大陸を更地にするため、天蓋結界の潮汐力と位相減衰を計算し、『天蓋の外側には超高圧の原水(星海)が満ちている』という衝撃的な数理仮説を打ち立てている。……ですが、オディロンの理論はあくまで遠く離れた魔大陸から割り出した『理論値』に過ぎない」
ルシアンは眼鏡のブリッジをクイと押し上げ、地図上の天空都市をワンドの切っ先で叩いた。
「西大陸において、唯一その天蓋の境界面――高度四千メートルの直下で、百年分の歪みと振動を至近距離から直接記録し続けてきたのが、ツェペリン家の大天蓋観測塔です。彼らはそのノイズを『観測エラー』として隠蔽していますが、オディロンの理論式と照合すれば、この世界が原水の海に包まれている動かぬ物理的証拠になる。……教会と帝国の欺瞞を完全に粉砕するための『実測ログの原本』が、あそこにあるのです」
「なるほどね! 魔王側の計算式と、天空都市の実測データを突き合わせりゃ、教会の嘘が完全に暴けるってわけかい!」
リンが両腕の『ギア・ナックル』を打ち鳴らし、獰猛に八重歯を覗かせた。
「その通りです。……ですが問題は、標高四千メートルに浮かぶアエリアへどうやって到達するかです」
ルシアンが地図の周囲に目を落とす。
「地上とアエリアを繋ぐ唯一の交通路は、ツェペリン家が管理する巨大な垂直昇降機のみ。ですが、いま地上は大聖堂と学府の厳重な警戒態勢下にあります。僕たちのような手配人が正面から昇降機に乗れるはずがありません」
「……だったら、空を飛んで直接乗り込むしかないわね」
アリアの言葉に、ルシアンは静かに頷いた。
「ええ。そのための足が、この街の外郭に眠っています。……先刻、禁書庫の機密を解読した際、かつて百年前、魔導技師エレノア様がアカデミーを脱走する際に建造した『非公式の秘匿ハンガー』の記録を見つけました。外郭の廃坑道を利用した第十三地下ドック……そこに、彼女が遺した旧式の小型高機動飛空艇――『ストーム・ペレル』がそのまま秘匿・保管されているはずです」
「へえ! そのエレノアって技師の姉ちゃん、脱出用の舟まで用意してたのかよ!」
リンが感心したように口笛を鳴らし、アリアも菫色の瞳を輝かせた。
「エルの……エレノアの船ね。それなら話は早いわ!」
アリアたちが頷き合い、脱出の段取りを固めようとした――まさにその刹那だった。ピピピッ、と青年の右目に装着された『アナライザー・モノクル』が、甲高い警告音を鳴らしながら赤く明滅した。
レンズの内側に、宿を取り囲むように急速に収縮していく無数の幾何学マーカーが濁流のように立ち並ぶ。
「……っ!? しまっ……た!」
ルシアンの顔から血の気が引いた。
「どうしたの、ルシアン!?」
「探知結界です! 大聖堂直属の異端審問庁執行部隊と、学府の重装憲兵隊が、この路地一帯を第一種汚染区画として完全封鎖しにかかっています! 先刻、断崖で中和したフィリア様のマナ残渣が微小に漏洩し、嗅ぎつけられたんだ……っ!」
「なッ……あいつら、もうそこまで追いついてきやがったのかよ!」
リンが窓枠に手を掛け、外の路地を睨みつける。
薄暗い裏通りの両端から、黒服の異端審問官たちが鉛の封印杭を携え、抜き身の魔導槍を構えた重装兵とともに包囲網を急速に狭めてくる金属音が聞こえていた。
逃げ道が塞がれるまで、猶予は二分もない。
「立ち話をしている暇はありません! 予定を繰り上げます、エレノア様の秘匿ハンガーへ走るぞ! あそこなら、外郭門の防空網の死角を突いて空へ抜けられる!」
「よし、全員全速力よ! 遅れないで、フィリア!」
「はいっ!」
アリアの号令とともに、四人は宿の勝手口を蹴破り、路地裏へと飛び出した。
背後から「いたぞ!」「包囲を縮めろ、一人たりとも逃がすな!」と憲兵たちの怒号が追いすがる。
だが、狭い廃工廠の路地を駆け抜ける四つの影は、追手の包囲網を置き去りにするような圧倒的な初速を叩き出していた。
先頭を駆けるアリアの白銀の足捌きに食らいつくように、フィリアの華奢な身体が路地の泥濘を軽やかに跳ねていく。
(……走れる……! 身体が、前へ飛んでいくみたい……!)
かつてのように重たい布地に足を取られることも、息苦しさに胸を押さえて立ち止まることもない。
薄手のスモックのスリットが風を孕んで翼のように翻り、裾を絞った白と浅葱色のハーレムパンツが、空気抵抗を綺麗にいなして宙を蹴る。
足首に編み上げられた『旅路のサンダル』は、濡れた敷石の凹凸をしっかりと捉え、滑ることなく推進力へと変えていく。
何より、手にした【風のワンド】から溢れ出る柔らかな緑の燐光が、前方の空気の壁を滑らかに切り開き、フィリアの背中を力強い薫風となって押し出していた。
「おいおいフィリア! すげえ身軽さじゃねえか! アタシらの全力疾走に普通に食らいついてきてるぜ!」
並走するリンが、驚きと興奮の混ざった声を上げる。
「はいっ……! 足が、ちっとも重くありません……!」
フィリアは弾んだ息の中で、満面の笑みを返した。
短く切り揃えられた桜金色の毛先が、朝の風に揺れて軽やかに躍っている。
「……は、ぁ……っ! く、くそっ……! なぜ、前衛と後衛の……心肺機能の格差が……ここまで……ッ!」
最後尾を走るルシアンだけが、フィールドコートの裾を必死に抑え、歪んだ眼鏡を指で押し上げながら酸欠で白目を剥きかけていた。
「情けないわよルシアン! フィリアを見習いなさい!」
「非論理的です……! 彼女の……生体マナ循環の加速は……明らかに常人のそれではない……っ!」
憲兵たちの放った魔導弾が背後のレンガ壁を粉砕する中、四人は外郭最外周の廃坑道へと滑り込んだ。
重厚な防爆シャッターの前へ到達すると同時に、ルシアンが手帳に記された解除コードをワンドで入力する。
重いギアが噛み合う轟音とともにシャッターが跳ね上がり、四人は暗いドックの中へと雪崩れ込んだ。
そこに鎮座していたのは、鈍い黒鉄と真鍮のフレームで組み上げられた、エイの姿を思わせる鋭利なフォルムの小型高機動飛空艇――『ストーム・ペレル』だった。
主翼には魔導技師エレノア特有の多重リール式マナ循環パイプが張り巡らされ、後部には圧縮魔導スプリングを用いた巨大な推進ノズルが睨みを利かせている。
「飛びますよ! 全員、甲板の固定バーに掴まりなさい!」
ルシアンが操縦席へ飛び込み、アストロラーベ・ワンドを術式スロットへ叩き込んだ。
カシャリ、と計器の針が一斉に跳ね上がり、青白いマナの炎が炉心で轟音を立てて点火する。
ドックの天井が開き、遥か前方に広がる絶壁と大空が露わになった瞬間――ガキンッ! と外部カタパルトの高圧スプリングが解放された。爆発的な推進Gが四人の身体を押し潰すように襲いかかり、小型飛空艇は坑道のレールを火花散らして撃ち出された。
「きゃあっ……!」
「うおぉぉッ、すげえ加速だぜぇッ!」
追手の放った無数の矢と魔導光を遥か眼下に置き去りにし、艇は鉛色の絶壁を蹴破って大空へと躍り出た。
暗闇を突き抜けた瞬間、四人の視界を埋め尽くしたのは、圧倒的な白光と、どこまでも青く澄み渡った大天空だった。
眼下に広がるのは、激闘の爪痕を残す大学術都市アレキシアの全景と、雨上がりの緑を濡らす広大な針葉樹林。
さらにその遥か東の地平線には、魔王レンの手によって更地へと均された灰色の平原が、冷たい境界線のように横たわっている。
だが、飛空艇の舳先が目指すのは、地上ではない。
高度千メートル、二千メートル――
猛烈な上昇気流に乗った艇は、湿った雲の層を矢のように切り裂き、一気に突き抜けた。
雲海を抜けたその先。そこには、息を呑むような絶景が広がっていた。足元を埋め尽くすのは、果てしなく広がる純白の雲の絨毯。
そして頭上には、地上の欺瞞をすべて忘れさせるような、どこまでも高く、深く、吸い込まれそうな本物の天穹の蒼。
その遥かなる雲海の彼方、陽光を浴びて神殿のように輝く巨大な浮遊岩塊――風の門閥が統べる【天空都市アエリア】の雄姿が、白い翼を広げた巨鳥のように佇んでいた。
「……わぁ……」
甲板の先端、手すりに手を掛けたフィリアの口から、感嘆の息が零れ落ちた。
吹き抜ける猛烈な天空の薫風が、少女の桜金色のショートボブを柔らかく乱し、スリットスモックの裾を大空へ向けて美しくはためかせる。
腰のコルセットがしっかりと風圧を受け止め、ハーレムパンツを纏った華奢な両足が、揺れる甲板の上で微動だにせず大地ならぬ空を踏みしめていた。
手にした【風のワンド】の先端が、天空のマナと共鳴して淡いエメラルドグリーンの光の軌跡を描く。
「すごい……! アリア様、見てください! 雲が、足の下にあります……!」
振り返ったフィリアの顔には、一片の曇りもなかった。
瞳をきらきらと輝かせ、風を胸いっぱいに吸い込んで、まるで空そのものと戯れるように笑っている。
「ええ……! 本当に、すごいわね!」
アリアが隣に並び立ち、白銀のポニーテールを風に遊ばせながら微笑み返した。
その隣では、リンが風に向かって豪快に拳を突き出し、操縦桿を握るルシアンが、風圧に眼鏡を押さえながらも満足げに口角を吊り上げている。
生贄としての宿命を捨て、自らの足で歩み始めた白百合の少女。
そして、世界の欺瞞を打ち破るために泥を啜って進む、新世代の反逆者たち。
手折られた鎖は、青空を翔ける翼へと変わった。
小型飛空艇は白い航跡を描きながら、風の門閥が待ち受ける遥かなる天空の巨塔を目指し、果てしない雲海の彼方へと吸い込まれていった。
(第二十八話 完 / 第二十九話へ続く)
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