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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第二十九話:『天空都市アエリアと星詠の影』 第一節:コズミック・チャート

 永久凍土の彼方、極夜の闇に沈む魔王城ネクロ・アビス。

 その最頂部に位置する『深淵観測の間』は、外界の吹雪の音すら届かない、絶対零度の静寂に支配されていた。

 カチリ、と硬質な氷の結晶が弾ける音が響く。

 床一面に敷き詰められた黒曜石の鏡面には、頭上の吹き抜けから覗く鉛色の天空が映し出されていた。

 だが、その鏡面を満たしているのは、美しい星々ではない。

 幾重にも同心円を描いて蠢く、禍々しい真紅と青の魔導幾何学――天蓋結界の歪曲応力をリアルタイムで可視化する、巨大な天体海図だった。


「……観測波長、第四象限において微小な減衰スパイクを感知。潮汐周期は予定通り、第六補正角へ移行しております」


 静寂を破ったのは、ひび割れた鐘の音のような老人の掠れ声だった。

 天体盤の脇に佇むのは、全身を星辰の刺繍が施された濃紺の天体布で覆った老賢者――星詠族の長老、オディロン。

 その長く伸びた白眉の下で、白濁した双眸が虚空を見上げ、細い指先が真鍮の観測針を小刻みに調整している。


「計算上の誤差は零。……ですが、この歪み……天蓋境界膜にかかる外圧の唸りは、潮汐の極大期に向けて日々強まっております」


 オディロンの背後、黒大理石の階壇の上に静かに立つ陰影があった。

 漆黒の儀仗長衣の裾をなぞるように、冷たい氷の風が吹き抜ける。

 二代目魔王――レン。

 その胸元には、透き通るような真紅の結晶『ブラッドステラ(真紅の魔核)』が、冷徹な死人の能面のような表情とは裏腹に、命の鼓動のように静かに、深く脈動していた。

 背後には、全長2.5メートルを超える漆黒の重金属柱――『黒骸の断罪柱』が自律浮遊し、その内部に封じられたダンカンの金砕棒とエルの魔導リールが、微かな共振の唸りを上げている。

 レンは天体盤の前に立つと、感情の失せた低い声で短く問うた。


「……あの天蓋の向こうに、何がある」


 飾り気のない、だが世界の根幹を貫く問い。

 オディロンの深く刻まれた顔の皺が、微かに緩んだ。

 白濁した両目の奥に、盲目の学者特有の、真理に触れる者だけが宿す昏く熱い光が宿る。


「神話の語る『神聖なる虚無』でも、教会が説く『天上の楽園』でもございません。……あそこにあるのは、無尽蔵の質量と水圧で渦巻く、果てしない【星海】――外宇宙を満たす原水の海でございます」


 オディロンは老いた手を掲げ、真鍮の細い観測針で天体盤の中心を突いた。

 波紋のように広がる幾何学光芒が、黒曜石の鏡面にひとつの球体の立体投影を描き出す。


「魔王様、ご覧ください。かつて神樹の出現とともに形成されたこの世界『アストラ』の構造を」


 老賢者は傍らの硝子椀を取り上げ、そこに張られた水を満たすと、息を吹きかけて中央に小さな空気の泡を作ってみせた。


「私たちは、この泡の内側に住まう哀れな虫ケラに過ぎませぬ。……頭上を覆う【天蓋結界】とは、外側の巨大な水圧からこの気泡を守るための、薄い膜に過ぎぬのでございます」


 ゴボリ、と小さな気泡が立ち上り、硝子椀の内側に空間が残されたまま、水底へと固定される。


「魔王様。この世界を、いま水底に沈めた『逆さの椀』だとお考えください」


「……道理で、な」


 レンの唇から、氷の冷気のような呟きが漏れた。


「百年前、西大陸の汽水域で糸を垂らしていた頃から、ずっと奇妙な違和感があった。……潮の満ち引きだ。太陽と月が描く引力計算だけでは、どうしても説明がつかない『不規則な引き波』が、満月の夜ごとに川底をさらっていた」


 レンは自らの左手――生体金属の鉤爪へと変異した『禍刻の十指魔手甲』の手首を、わずかに捻った。

 指先から伸びる不可視の魔力糸が、空気を擦ってチリチリと乾いた摩擦音を立てる。


「気圧の急変もないのに、空全体が重たく軋み、水面が天に向かって引っ張られるような感覚があった。……あれは、天蓋の外側にある巨大な潮流が、境界膜を外から引っ張っていた水圧の唸りだったわけか」


「……ま、魔王様……。貴方様は、皮膚ひとつでそこまで……ッ!?」


 感嘆と戦慄が、老人の胸を激しく突き上げていた。

 帝国アカデミーの碩学たちが何世代もかけて数理をこねくり回し、それでもなお教会の神話に囚われて見落としていた宇宙の物理力学。

 それを、この青年は、かつて泥に塗れて川辺に糸を垂らしていた【現場の皮膚感覚】だけで、百年前からすでに知悉していたのだ。


「左様にございます……! まさしくその通りにございます、魔王様!」


 オディロンは昂揚を抑えきれぬように、観測針を激しく指し示した。


「天蓋の外側を満たす原水には、恒星の引力と外宇宙の暗黒流が織りなす『大星海の潮流』が存在いたします。外海の巨大な海流が天蓋の境界面を擦過するたび、内側の気圧と水脈が外へ向けて強烈に引き絞られる。……貴方様が川底で感じておられたのは、天蓋の外で渦巻く『星海の引き波』に他なりませぬ!」


 老賢者は苦々しげに顔を歪め、教会の欺瞞に対して吐き捨てるように言葉を継いだ。


「帝国と教会は、神樹の奇跡によって民の知性を眠らせ、空の物理を隠蔽してまいりました。世界が海の中に沈められた孤立した気泡であると知られれば、『絶対の神域』という支配の神話が根底から崩壊するからでございます」


「だが――西大陸にも、それに気づいている連中がいるはずだ」


 レンの冷徹な眼差しが、天体盤の北東――雲海の上に浮かぶ特異点へと据えられた。


「高度四千メートル。天蓋の膜に最も近い場所に、あの連中は居座っている」


「……御意。【風の門閥・ツェペリン家】が統治する天空都市アエリアにございます」


 オディロンが観測針をアエリアの座標へと合わせると、真紅のラインが激しく脈動した。


「我が星詠族が魔大陸側から天体を観測して導き出したこの数理モデルは、あくまで外周から割り出した理論式に過ぎませぬ。しかし、ツェペリン家の大天蓋観測塔は、百年間もの長きにわたり、天蓋境界面の直下でその『振動ノイズ』を直接計測し続けております。……彼らはそれを『観測機器のエラー』と偽り、記録のすべてを大観測塔の深奥へ封印している。かの地の生データこそが、理論を事実へと反転させる最後の鍵にございます」


「そうか」


 レンは短く応えると、背を向けた。

 漆黒の儀仗長衣の裾が翻り、背中に浮遊する漆黒の巨大金属柱――『黒骸の断罪柱』が、重苦しい唸りを上げて共鳴する。

 青年の視線は、観測の間のさらに奥、絶対零度の氷に閉ざされた玉座の背後へと向けられていた。

 そこには、全裸のまま透明な氷晶の中に永久に封じられた、銀灰色の髪を持つ少女――クラリスが、眠るように横たわっている。


(……あいつに見せる海は、地上の濁った川や湖だけではないのだな)


 天蓋という名の偽りの檻を砕き、世界を均したその先に――

 空いっぱいに広がる本物の星海がある。


「……ツェペリンの空を、更地にする」


 レンの唇から零れ落ちた宣告は、絶対零度の氷風よりも冷酷に、観測の間の床を凍りつかせた。


「灰翅族ヴォルクに伝えろ。進軍翼艇の全軍を、西大陸上空・雲海境界線へ集結させろと」


「ははっ……!」


 老賢者が床に平伏し、その双眸に歓喜と畏怖の涙を浮かべる背後で、魔王の靴音が静かに遠ざかっていく。

 胸の真紅の魔核が、冷徹な殺意と、哀しい純愛の熱を帯びて、静かに、深く脈動していた。


お読みいただきありがとうございます!


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