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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第二十九話:『天空都市アエリアと星詠の影』 第二節:雲海の迎撃、天空騎士団の洗礼

 雲海を裂く風が、轟音となって甲板を洗っていた。

 高度三千五百メートル。地上の喧騒を遥か眼下に置き去りにした成層圏の直下は、吸い込む空気の粒子ひとつひとつが凍てついており、肺胞の奥を針で刺すように薄い。だが、旧式小型高機動飛空艇『ストーム・ペレル』の甲板に立つ四人に、怯みの色は微塵もなかった。


「……風圧係数、基準値の三倍を推移! 気圧降下に伴い、主翼の揚力バランスが右舷へ偏重しています!」


 操縦席に張り付いたルシアンが、長外套を風に激しくはためかせながら叫んだ。

 右目のアナライザー・モノクルの多重レンズが細かな歯車を噛み合わせ、猛烈な大気の乱流を青白い幾何学の線画として投影し続ける。


「大丈夫です、ルシアン様! 風の通り道は、私が整えます!」


 甲板の中央、揺れる船首楼に立つフィリアが、凛とした声で応えた。

 新調された白と浅葱色のハーレムパンツが強風を滑らかにいなし、大胆なスリットの入った薄手スモックが翼のように空へ翻る。足首に編み上げられた革のサンダルが、激震する甲板の木目をしっかりと捉えて離さない。

 少女が両手で掲げた【風のワンド】の先端から、清冽な若草色の燐光が螺旋を描いて立ち上った。

 胸元の偏光クリスタルが太陽光を乱反射させ、船体を包み込む猛烈な横風のベクトルを、吸い付くように滑らかな層流へと変換していく。

 軋んだ悲鳴を上げていたストーム・ペレルの主翼が、息を吹き返したように水平を取り戻した。激しかった上下動が収まり、船体は滑るように純白の雲の絨毯の上を滑空し始める。


「すごいわフィリア! 船の揺れが、完全に消えた!」


 白銀のポニーテールを風になびかせたアリアが、手すりに手を掛けて感嘆の息を漏らした。


「へっ、大したもんだ。あの泥に塗れた重たい服を着てた時とは、まるで別人の身軽さだね」


 リンが両腕の手甲部『ギア・ナックル』の装甲板をカチリと鳴らし、八重歯を覗かせて笑った。

 足元を固める脚甲部『ギア・グリーブ』の真鍮シリンダーから、余剰熱の白い蒸気が細く立ち上る。

 風は穏やかに流れ、遥か頭上には地上の濁りとは無縁の、どこまでも澄み切った青空が広がっていた。眼下を見下ろせば、一面に敷き詰められた雲海が、朝の陽光を浴びて淡い金色に波打っている。自分たちがこれまでに駆け抜けてきた過酷な戦場――ヘパイストスの鉄煙も、アルシアの運河も、アレキシアの冷たい石畳も、すべてあの雲の底の遥か遠くに沈んでいた。

 ほんの数十秒の、奇跡のような静けさ。フィリアは胸の前でワンドを抱きしめ、頬を撫でる冷たくも澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、そっと微笑んだ。

 ――だが、天空の静寂は、あまりにも唐突に引き裂かれた。

 ルシアンのモノクルが、鼓膜を劈くような金属的な警告音を連続で刻み始めたのだ。青年の顔から、安堵の色が一瞬にして吹き飛ぶ。


「敵影感知! 上空十時方向、高度四千二百の巻雲の中から急降下してきます! ……所属識別コード、風の門閥ツェペリン家私設航空艦隊――【天空騎士団】の迎撃快速翼艇、三機編隊です!」


「チッ、もう嗅ぎつけてきやがったかい!」


 雲の切れ間を貫き、銀翼を広げた三つの鋭利な影が、獲物を狙うハヤブサのような角度で急降下してきた。白銀と青銅で装甲された小型戦闘翼艇。

 その主翼の下には、高圧マナを充填した空圧機銃と、ツェペリン家特有の長大な突風槍がギラリと冷たい光を放っている。


『――未登録の密入域機に通告する! 我らは天空都市アエリア防空第十二戦隊! 貴機は神聖なる天蓋観測航路を侵犯した! 直ちに機関を停止し、降伏せよ!』


 拡声魔導器を通した無機質な通告が風に乗って響く。だが、その言葉の余韻すら消え去らぬうちに、先頭の隊長機から圧縮空気弾の斉射が叩きつけられた。目に見えぬ衝撃の塊が空気を押し潰しながら飛来し、大気を切り裂いていく。


「問答無用で撃ち落とす気ね! ルシアン、回避!」


「言われずとも! ……全速右転舵、ロール機動に入ります!」


 ルシアンが操縦桿を限界まで倒し、ストーム・ペレルが斜めに滑り落ちるように身を翻す。直後、先刻まで艇が存在した空間を、超音速の不可視弾が空間を削り取るように通過していった。衝撃波の余波だけで、甲板の木板が激しく振動する。

 だが、敵は天空都市の気流を知り尽くした航空騎士。初弾をかわされた二番機と三番機が、乱気流を鋭利に切り裂きながら見事な挟撃編隊を組み、瞬時にストーム・ペレルの背後――死角である後方へと食らいついた。


「くっ、背後を取られた……! 敵の旋回性能、こちらの旧式艇を遥かに上回っています!」


『逃がさんぞ、地を幾ネズミどもが! 雲海の下へ叩き落としてくれる!』


 二機の翼艇の機首から、風のマナを極限まで収束させた突風貫徹槍がせり出す。直撃すれば、ストーム・ペレルの薄い推進炉ごと甲板を串刺しにされる必殺の間合い。


「ルシアン、どうするの!? このままじゃ追いつかれるわ!」


「……エレノア様の技術を、侮るなよ……ッ!」


「主翼のマナ循環流を強制遮断! アンカーウインチ、ドラグブレーキを最大摩擦係数で直結――ッ!」


 レバーが倒された瞬間、艇の腹底から凄まじい金属の擦過音が響き渡った。

 高熱を帯びた摩擦板が激しく火花を散らし、巨大なワイヤー巻き取りドラムが猛烈な抵抗力をもって回転をねじ伏せる。

 極限の張力をいなし、運動エネルギーを摩擦熱へと変換する、独特の制動音。

 アリアの耳朶を打ったその音色は、かつて失われた伝説の釣り師が、大魚の引きを指先で受け流す際に鳴り響いたという、あの【リールのドラグ音】の遠い原初の響きを、微かに想起させた。


『な、何ッ!? 空中で停止しただと……!?』


 背後から肉薄していた二機の敵艇が、その異常な減速に対処できるはずもない。猛烈な速度差のまま、敵艇はストーム・ペレルの真上を、無様に追い越して前方へと飛び出してしまった。


「――頭を取ったぞ! やりな、二人ともッ!!」


 リンが叫ぶ。


「任せなさいッ!」


 舳先に躍り出たアリアが、腰の蒼水直剣『アルビオン』を抜いた。

 すれ違いざまの至近距離。神速の抜刀から放たれた真空の刃が、前方を無防備に横切った二番機の左主翼を、根元から吸い込まれるように両断した。

 主翼をへし折られた敵艇は推進バランスを崩し、黒煙を吹き上げながら錐揉み状態で雲海へと落ちていく。

 だが、残る三番機が捨て身の体当たりを仕掛けてきた。機首の空圧砲を限界まで過負荷稼働させ、甲板のアリアを狙って三連の誘導風弾が放たれる。


「アリアには指一本触れさせやしないよ!」


 割って入ったのはリンだった。両足の『ギア・グリーブ』の足先を甲板に深く踏み込み、右腕の『ギア・ナックル』の打撃シリンダーから、限界突破の余剰蒸気を噴出させる。短く鋭く息を吐き出し、腰の回転とともに最短軌道の右拳を撃ち抜いた。

 拳の先端から放たれた超高密度の衝撃波が、迫り来る誘導弾と正面衝突し、中空で衝撃の相殺を引き起こした。爆ぜた風圧と閃光が、甲板の木肌を激しく舐める。その爆煙を突き抜け、上空へ退避していた隊長機がストーム・ペレルの真上へと回り込み、巨大な圧縮突風砲の照準を定めた。


『小賢しいわ下界の塵が! 我が風の前に砕け散れェッ!』


 上空から叩きつけられる、暴風の鉄槌。舵の効かない甲板上で、回避は完全に不可能。だが――


「風を、汚さないでください……ッ!」


 甲板の中央から、凛と澄んだ声が空を打った。

 フィリアが【風のワンド】を両手で天へと突き上げる。

 桜金色のショートボブが光の粒子を撒き散らしながら激しく舞い上がった。少女の胸元、神樹の毒を解き放たれ、純粋な風の触媒となった琥珀の刻印が、眩いエメラルドグリーンの光芒を放つ。

 展開されたのは、攻撃を弾く硬い盾ではない。吹き荒れる暴風のエネルギーを優しく包み込み、その流れを逆位相へと反転させる、巨大な風の蓮華――【白百合の風域(リリィ・ヴェール)】。

 隊長機の放った必殺の圧縮突風が、フィリアの展開した緑の光膜に触れた瞬間、嘘のようにその凶悪な運動エネルギーを奪われ、ただの柔らかな順風へと脱色されて四方へ霧散していった。


『な……バカな!? 風の門閥の秘奥魔導が……無効化されただと……!?』


「今です、ルシアン様! 逃げ道を切り開きました!」


「了解……! 外部ブースター点火、一気にアエリア下層の整備ブロックへ突っ込みます!」


 ルシアンが魔導スプリングの解放弁を引き抜いた。推進ノズルから眩い青白い噴流が噴き出し、ストーム・ペレルは呆然と旋回を止めた隊長機の真横を、矢のような超加速で駆け抜けた。

 雲海が激しく後方へ流れていく。前方、巨大な浮遊岩塊の影――天空都市アエリアの下層に穿たれた、排気ダクトと貨物搬入口が並ぶ薄暗いブロックが、視界を埋め尽くすほどの速度で迫ってきた。


「全員、不時着衝撃に備えなさい! 舌を噛むなよッ!」


 激しい火花と金属同士が擦れ合う凄まじい摩擦音を上げながら、ストーム・ペレルはアエリア下層の整備用ドックの床板へと滑り込み、白い煙を吹き上げながら停止した。

 静寂が戻る。

 オイルの焦げる匂いと、吹き抜ける冷たい隙間風の中、アリアがふらりと甲板から跳び下りた。蒼水直剣『アルビオン』を鞘へと滑り込ませ、肩で息をしながら振り返る。


「……ふぅ。どうにか、乗り切ったわね!」


「へへっ、アタシらの連携、カンペキだったじゃないかい!」


 リンが額の汗を拭い、いたずらっぽく八重歯を覗かせながら、無骨なギア・ナックルの手のひらをフィリアの前へパッと差し出した。


「ほら、フィリア! 決まりの手打ちだ!」


「えっ……あ……っ!」


 差し出された手のひらを見つめ、フィリアは目を丸くした。かつての大聖堂では、誰かと肌を合わせることすら不浄として禁じられていた。だが、いま少女の前にあるのは、泥臭く共に生き残った仲間からの、対等な信頼の証。


「はい……! 私、ちゃんとお役に立てました……っ!」


 誰かのための生贄ではなく、自分の意志と力で、大好きな仲間たちの背中を守り抜いた。

 桜金色の毛先を揺らしながら咲かせたその笑顔は、教会のステンドグラス越しに浮かべていた人形のような微笑みとは比べ物にならないほど、瑞々しく、太陽のように眩しかった。

 だが、ドックの換気口から吹き込んできた風を肺いっぱいに吸い込んだ瞬間――アリアの眉が、不快そうにピクリと跳ね上がった。


「……なによ、この空気。……息が、すごく苦しいんだけど……?」


 冷たく、異様に酸素の薄い、薬品の饐えたような澱んだ空気。見上げれば、頭上遥かに聳える煌びやかな白亜の貴族街とは対照的に、この薄暗い下層ドックの通路には、ボロ布を纏い、首に奇妙な管を巻き付けた人々が、息も絶え絶えに這いつくばっていた。

 風の門閥が統べる天空都市の、もうひとつの現実が、静かに四人を迎えようとしていた。


(第三節へ続く)


お読みいただきありがとうございます!


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次話もよろしくお願いします!

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