↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
104/152

第二十九話:『天空都市アエリアと星詠の影』 第三節:風を食らう檻、暴かれた観測ノイズ

 薄暗い排気ドックの通路は、地上のどの裏路地よりも陰鬱な冷気に満ちていた。

 頭上には、白亜の巨塔を支える無骨な鉄骨と、絶え間なく空気を送り出す太い魔導パイプラインが縦横に張り巡らされている。だが、その配管の隙間から漏れ出してくるのは、生命を育む風ではない。饐えた薬品臭と、オイルの焦げた粒子が混ざり合う、乾き切った薄い空気だった。


「……信じられない」


 アリアが眉根を寄せ、吐き気を催すような表情でその光景を睨みつけた。腰の『アルビオン』の鞘を握る指先が、怒りで白く強張っている。


「息を吸うのに……金を取っているの?」


「【空気税(エア・タックス)】です」


 ルシアンがスレートチャコールの長外套の襟を引き上げ、モノクルの焦点を通路の壁面に刻まれたツェペリン家の紋章へと合わせた。


「標高四千メートルは、本来人間が生存できる環境ではありません。気圧は地上の六割、酸素濃度も極めて低い。ツェペリン家は、巨大な風力炉と魔導吸気弁で都市全体をドーム状に加圧し、生存環境を人工的に維持しています。……ですが、その加圧空気の大半は、上層の貴族街と大天蓋観測所へ優先配分されている」


「反吐が出るね」


 リンが低く唸り、ギア・ナックルの拳を握りしめた。


「鉄を食わせるヘパイストスも、水を濁すヴェネツィアも胸糞悪かったが……風の貴族様は、空気にまで首輪をつけてやがるのかよ」


「……こんなの、間違っています」


 フィリアが【風のワンド】を胸の前で抱きしめ、痛ましげに唇を噛んだ。桜金色の毛先が、冷たい換気風に揺れる。少女の足元では、新調されたハーレムパンツの裾がふわりと膨らみ、微かにマナを帯びて周囲の薄い大気を自然に引き寄せていた。だが、その恩恵を独り占めすることに、彼女の心は痛烈な痛みを覚えていた。


「感情的になるのは後にしなさい。……騎士団の追手がこの下層ドックへ降りてくるまで、猶予はありません」


 ルシアンはドックの隅に停めたストーム・ペレルへ偽装の防塵シートを被せると、アストロラーベ・ワンドの先端で配管の制御盤を軽く叩いた。


「アエリアの構造上、下層の汚染空気を上層へ逆流させないための【主排気シャフト】が存在します。定期換気用の昇降リフトなら、警備兵の巡回ルートの死角を突いて中央観測塔の基底部へ直通できるはずです」


 青年のアナライザー・モノクルが青白い光を放ち、分厚い鉄扉のロック機構を狂いなく解錠していく。

 かつて学府の禁書庫を暴いた数理の技工は、門閥の閉鎖的なインフラに対しても遺憾なく発揮されていた。

 重たい鉄扉が音もなく開き、四人は換気シャフトの点検用リフトへと滑り込んだ。

 ルシアンが手動レバーを引くと、リフトは風切り音を立てて垂直に急上昇を始めた。

 下層の薄暗い鉄骨群が瞬く間に下方へと滑り落ち、やがて視界が開ける。

 頭上に現れたのは、白亜の大理石と金箔のレリーフで装飾された、眩いばかりの天球回廊――ツェペリン家の心臓部、【大天蓋観測塔】の基底部だった。

 四人は身を屈め、静まり返った観測塔の主回廊へと侵入した。

 広大な円形ホールの中央には、天頂に向けて突き刺さるように屹立する、巨大な真鍮製の超長距離天体望遠儀が鎮座していた。無数のレンズと多重反射鏡が幾重にも組み合わされ、その根元には、膨大な魔導結晶が青白い光を明滅させている。全大陸の天候と星辰を観測・統括する中央演算室。


「警備兵の巡回周期まで、およそ百八十秒。……急ぎますよ」


 ルシアンがアストロラーベ・ワンドの先端を、主計器盤の水晶スロットへと迷いなく突き刺した。青年の十指が、空中に投影された青白い魔導幾何学の鍵盤の上を、吸い込まれるような速度で踊り狂う。


「学府特級暗号をバイパス……ツェペリン家が敷設した階層結界を、逆位相パルスで解凍します。……開け、百年分の観測記録……ッ!」


 カチリ、と硬質なラッチが外れる音が響いた。

 空間に、何百、何千という観測ログが、光のホログラムとなって一斉に展開される。その大半には、朱色のインクで『記録抹消』『測定不能エラー』『神樹の脈動ノイズ』という検閲印が捺されていた。


「これ……全部、観測に失敗した記録なの?」


 アリアが光の束を覗き込み、眉をひそめた。


「違います、殿下。失敗などではない」


 ルシアンの声が、異様な緊張を帯びて微かに震えていた。

 青年のモノクルのレンズが激しく旋回し、検閲印の下に隠された生の波形データを次々と吸い上げていく。


「ツェペリン家は、天蓋の直下四千メートルで、常にこの『異常振動』を感知していた。ですが、教会の教義に反するがゆえに、すべて機器の不調として封印してきたのです。……波形データを展開します」


 空中に、一本のギザギザとした波形グラフが投射された。不規則に上下し、一定の間隔で鋭いスパイクを刻む、奇妙な振動リズム。

 ルシアンは手帳の奥から、かつてアレキシア禁書庫で回収し、解読を進めていた『オディロンの天蓋潮汐数理式』の写本データを呼び出した。


「魔大陸の星詠族オディロンが遺した数理モデル……『天蓋境界膜の歪曲周期』を、ツェペリン家の実測ログへ重ね合わせます」


 ふたつの波形が、空中でゆっくりと重なり合っていく。

 ――その瞬間。

 グラフの山と谷が、寸分の狂いもなく、完璧に噛み合った。微小な誤差すら存在しない。遠く離れた魔大陸の賢者が導き出した仮説のグラフと、西大陸の天空都市が百年間記録し続けた実測値が、まるでひとつの生物の心電図のように完全に重なり合ったのだ。


「……っ!?」


 ルシアンが息を呑み、眼鏡を激しく押し直した。


「完全一致……! 理論と現実が、完全に符合しました……! この振動は、大気の乱れでも、機械の故障でもない……!」


「じゃあ……これは何なのよ、ルシアン!?」


 アリアの問いに、ルシアンは青ざめた顔を上げ、天頂の望遠儀を指し示した。


「天蓋の外側から、境界膜を押し潰している『圧力ノイズ』です……! あのオディロンの仮説が正しければ……この空の向こうには、教会が言うような神の虚無など存在しない。……満ちているのは、想像を絶する質量を持った、未知の流体……ッ!」


「……流体……?」


 フィリアが【風のワンド】を握りしめ、青ざめた唇を開いた。琥珀の刻印から微かに伝わる大気の脈動に、少女は息を詰まらせる。


「……空が、押し潰されています。……風が、泣いているんじゃない……上から、ものすごい力で押さえつけられて……窒息しそうになっているんです……!」


 アリアは弾かれたように、中央の天体望遠儀へと駆け寄った。接眼レンズに、自らの菫色の瞳を押し当てる。

 倍率が最大まで跳ね上がる。雲を抜け、成層圏を突き破り、視界の先、高度一万メートル――この世界を外界から遮断している【天蓋結界】の最前線が、レンズ越しに網膜へと飛び込んできた。

 そこにあったのは、透き通るような青空ではなかった。

 硝子の壁越しに、深海を覗き込んだような、底知れぬ暗青の世界。

 天蓋の膜が、外側からの凄まじい質量によって、ギリギリと軋むように内側へと撓んでいた。

 そして――その透明な膜のすぐ向こう側を、見たこともないほど巨大な【波のうねり】が、ゆっくりと、雄大に横切っていった。

 魔導拡声器を通したノイズの中に、風の唸りとは根本的に異なる、深い水底の胎動のような重低音が、確かに響き渡っていた。


「……あ……」


 アリアの唇から、言葉にならない声が零れた。

 空の向こうに、水がある。天球の果てに、果てしない海が満ちている。

 自分たちが命を削って奪い合ってきたこの大地は、海の底に沈められた小さな気泡の中に過ぎなかったのだ。


「……あの人は、知っていたのね」


 アリアはレンズから目を離し、震える呼気を吐き出した。菫色の瞳の奥に、かつてない戦慄と、欺瞞を許さぬ猛烈な炎が宿る。

 ピピピピッ、と突如として観測室の天井が紅い警告光に染まり、防衛機構の甲高いサイレンが鳴り響いた。ハッキングを察知したツェペリン家の私設親衛隊が、回廊の各ゲートを一斉に封鎖し始めている。

 アリアは腰の『アルビオン』の柄を強く握りしめ、振り返った。その表情には、もはや迷いのかけらもなかった。


(第二十九話 完 / 第三十話へ続く)


お読みいただきありがとうございます!


面白いと思っていただけたら、ブックマークと感想をいただけると励みになります。


次話もよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。