第三十話:『星海の露顕』 第一節:水奈落の数理
天井の防衛魔導灯が、規則的な朱の明滅を繰り返していた。真鍮のフレームに守られた水晶管が鋭い警告振動を刻み、円形演算室の白亜の壁を血のような赤で染め上げている。
「侵入警報の発令を確認……! 防衛ゲート第一から第三が完全閉鎖されます!」
主計器盤の前に張り付いたルシアンの声は、緊迫しながらも冷徹な芯を保っていた。
右目のアナライザー・モノクルの多重レンズが細やかに回転し、空中に投影された青白い魔導幾何学の線画を瞬時に再構築していく。
地方零細学者貴族アイテール家の出身でありながら、門閥貴族の子弟たちを蹴落として帝国魔導学院を歴代最高得点で首席卒業した青年。その卓越した演算能力が、極限状況の中で研ぎ澄まされていた。
「ルシアン、さっきの波は……! あの望遠儀の向こうにあったものは、本当に……!」
アリアが蒼水直剣『アルビオン』の鯉口を切り、接眼レンズから振り返った。菫色の双眸が激しく揺れている。
望遠儀越しに直視した、あの天蓋境界面の光景――暗青の奈落を雄大に横切っていった、底知れぬ巨大な波のうねり。その残像が網膜に焼き付いて離れない。
「錯覚などではありません、アリア殿下」
ルシアンは左手のアストロラーベ・ワンドを垂直に掲げ、先端の真鍮環を勢いよく回転させた。
青年の十指から放たれた極細の魔力光が、空中に巨大な三次元座標系を描き出す。
「高度一万メートルにおける光の屈折率、天蓋結界境界膜の剪断応力、そして先刻ツェペリン家の機密アーカイブからサルベージした百年分の実測振動ログ……そのすべてを、魔大陸の星詠族オディロンが遺した天蓋潮汐数理式へと代入しました」
ルシアンの指先が虚空を叩くたび、数万行に及ぶ数式が激しい光の粒子となって流れていく。
演算が収束した瞬間、空中に展開されていた天球モデルの色調が、晴れやかな青から深海のような重苦しい濃藍へと反転した。
「気象魔導学における神樹の脈動仮説を棄却。大気圏外を『神聖なる虚無』と仮定した場合、境界面に発生している毎秒四万ヘクトパスカルの垂直抗力ベクトルを説明できません。……解は、ただひとつ」
ルシアンは眼鏡のブリッジを押し上げ、青ざめた、しかし揺るぎない確信を宿した瞳を上げた。
「天蓋の外側を満たしているのは、超高密度の原水。……質量にして地上の全海洋の数千倍、超高圧で渦巻く本物の【星海】です」
「そんな……」
フィリアが【風のワンド】を胸の前で抱きしめ、息を詰まらせた。胸元の偏光クリスタルが、大気の異様な圧迫感に共鳴するように微かにエメラルドの光を明滅させている。
「教会が教えてくれた天球は……神様が私たちを優しく包んでくださっている世界は……全部、嘘だったんですか……?」
「嘘、というよりは悪質な隠蔽ですね」
ルシアンの口調には、真理を冒涜されてきた学者特有の乾いた怒りが滲んでいた。
「我々が『空』と呼んでいたものは、巨大な水槽の底に沈められた逆さの硝子椀の内側に過ぎなかった。……帝国と教会は、世界が海の底に沈められた脆弱な気泡であることを隠し、『神樹の奇跡』という甘い物語で民の思考を奪ってきたのです」
「ふざけやがって……!」
リンが両腕の『ギア・ナックル』を打ち鳴らし、低く吐き捨てた。足元の『ギア・グリーブ』の真鍮ダンパーが、踏みしめた床の石板を小さく軋ませる。
「自分たちは標高四千メートルの特等席にふんぞり返って、下層の連中から息を吸う金まで巻き上げておきながら……頭の上の空まで真っ赤な偽物だったってのかい!」
「ええ。ですが、問題はそれだけではありません」
ルシアンの表情が一転して険しさを増した。モノクルが映し出すシミュレーション画面で、球状の天蓋結界に一本の真っ赤な亀裂が走る。
「……オディロンの潮汐式を逆算して判明した、最悪の事実があります。天蓋の外側にある星海は、恒星の引力によって絶えず引き波と満ち潮を繰り返している。……そして現在、天蓋結界の各結節点は、百年間の魔素劣化によって限界を迎えつつあります」
「限界って……どういうことなの?」
アリアが身を乗り出す。
「もし――」
ルシアンは一度言葉を切り、重苦しい沈黙を落とした。
「もし、この天蓋が完全に破壊されれば。あるいは、外側からの水圧に耐えかねて結界が破断すれば……外側の星海が一気にこの内側へ雪崩れ込んできます。……その時、地上を襲うのは単なる大雨や洪水ではありません。大陸全土を数千メートルの水深で呑み込む、不可避の【絶対津波】です」
演算室の空気が、凍りついた。
アリアの脳裏に、永久凍土の魔王城に座す漆黒の青年の姿が鮮烈に蘇る。百年前、すべてを奪われ、死ぬことすら許されずに魔王へと変異したレン。
あの人は、西大陸の汽水域で糸を垂らしていた頃から、この天蓋の歪みと水圧の違和感に気づいていた。
(……あの人は、知っている)
アリアの胸を、激しい怖気が駆け抜けた。
レンは無差別に民衆を殺戮するような狂人ではない。ポルト・ヴェルデでも、エスチュアリーでも、ヘパイストスでも、あの人が粉砕してきたのは搾取のシステムと門閥の軍事拠点だけだった。民の暮らす街並みには、傷ひとつつけずに通り過ぎていった。
だが――もし、あの人が世界の欺瞞に対する激しい怒りのままに、この天蓋そのものを更地化の標的として叩き割ってしまったら?
アリアの頬からサッと血の気が引き、唇が微かにわなないた。頭上を覆う分厚い岩盤を突き抜け、その遥か上空から、数万トンの暗い濁流が轟音とともに降り注ぐ光景が脳裏をよぎる。
下層の薄暗い通路で、管を咥えて必死に呼吸を繋いでいた人々の姿。
逃げ惑うこともできず、ただ濁流に呑み込まれていく名もなき命の群れ。
少女の菫色の瞳が絶望の幻影に揺れ、けれど次の瞬間には、奥歯をギリッと噛み締めて強い光を取り戻した。
「……あの人が、天蓋を壊して世界を均そうとしたら……外の海が全部落ちてきて、地上のみんなが……下層で必死に生きている人たちまで、全員海の底に呑まれて死んじゃう……!」
「その通りです、殿下」
ルシアンが冷徹に頷いた。
「魔王レンの目的が帝国の支配構造の解体にあるとしても、天蓋破砕という手段を取る限り、結果として生じる星海の崩落は西大陸全土の生命を根絶やしにします。……それは救済などではない。ただの破滅です」
「そんなの……絶対にダメよ!」
アリアが強く拳を握りしめた。帝国の腐敗は許せない。聖女を生贄にし、空気にまで首輪をつけて私腹を肥やす門閥の罪は、何としても暴いて裁かなければならない。けれど――
「あの人の怒りはわかる。あの人が背負わされた絶望の深さも……少しだけ、わかってきた気がする。でも、だからって、世界ごと海に沈めていいはずがない! こんな無茶苦茶な壊し方、絶対にさせちゃいけないのよ……!」
言葉に熱が宿る。
それは、かつて教会の操り人形として「魔王を討伐する」と教え込まれていた頃の義務感ではない。
自分の足で地を網い、泥を啜り、下層の息遣いを知った少女が、生者として世界を守るために放った本能の叫びだった。
(力ずくでも、止める)
あの人が天蓋を叩き割る前に。世界が星海の底へ沈められてしまう前に。追いついて、立ちはだかり、あの人の暴走をねじ伏せなければならない。
重厚な衝撃音が、演算室の分厚い防護扉の向こうから響いた。扉の外枠が軋み、真鍮のボルトが激しい火花を散らす。
「天空騎士団の突入部隊です! 魔導融断器で外層ロックを焼き切っています!」
ルシアンがアストロラーベ・ワンドを構え直した。扉の隙間から、青白い高圧の風刃が漏れ出し、床の敷石を鋭く削り取っていく。
「ここは私が食い止めます!」
前に進み出たのはフィリアだった。新調された白と浅葱色のスモックをふわりと広げ、両手で掲げた【風のワンド】を扉の継ぎ目へと突き立てる。
「乱暴な風……全部、鎮まりなさい!」
少女の凛とした呼気とともに、エメラルドグリーンの光の奔流が扉の全域を包み込んだ。外から押し寄せる破壊的な空圧の刃が、フィリアの紡ぎ出す逆位相の風と衝突し、瞬時に運動エネルギーを奪われてただの微風へと霧散していく。さらに少女は風の密度を極限まで硬化させ、扉の内側に不可視の大気壁を構築した。外からの融断作業がピタリと停止し、苛立たしい怒号だけが扉の向こうへ遮断される。
「すごいわ、フィリア! 完璧な足止めね!」
「はいっ……でも、長くは持ちません! ルシアン様、脱出経路は!?」
フィリアが額に汗を浮かべながら振り返った。ルシアンのモノクルが、演算室の天井――大観測塔の最上階へと続く換気ダクトの構造図を投影する。
「この真上です。……観測塔の天頂部、外郭テラスに直結する『天蓋円形講堂』。……現在、そこで風の門閥当主ツェペリン卿が、帝国全土へ向けた定例の『天候神事』を執り行っています」
「天候神事……? あんな嘘っぱちの空の下で?」
リンが眉を吊り上げた。
「ええ。天蓋の歪みによって生じる異常気象を『神の怒り』と偽り、民に更なる献金を強要するための儀式です」
ルシアンの唇に、冷ややかな弧が刻まれた。
「舞台は整っています。……この実測生データと星海の真実を、あの講堂にいる貴族どもの面前で突きつけてやりましょう」
「ええ、行くわよ!」
アリアが『アルビオン』を天へと掲げた。菫色の瞳には、偽りの空を切り裂き、迫り来る破滅を食い止めるための、迷いのない闘志が燃え盛っていた。
(第二節へ続く)




