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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第二十五話:『禁書庫の機密と血の真実』 第四節:幕間・ガールズ・メモワール

ここまで読んでいただきありがとうございます。25話完結です。

切ないですね……

百年前の、ある新緑の夜。

外界の冷たい湿気を遮断した麻布の大型テントの内部は、携帯用の魔導ランタンが放つ橙色の柔らかな光と、どこか気抜けするような長閑な温もりに満たされていた。

布一枚を隔てた外からは、薪が規則正しく爆ぜる微かな熱気とともに、深く息を吐き出すような巨漢のあくびが漏れ聞こえてくる。

夜番の前半を受け持つダンカンが、愛用の金砕棒を膝に置いてあぐらをかいている気配だ。

その傍らでは、川辺で獲ってきたばかりの渓流魚の下処理を終えたレンが無言で釣り糸の手入れを続けているのだろう、金属環が擦れ合う微細な乾いた摩擦音が時折静寂を渡っていた。

テントの奥、毛布を敷いた簡易ベッドの上であぐらをかいていたエレノア――エルは、手にした琥珀色のガラス小瓶を無造作にあおり、喉を鳴らして高濃度蒸留酒を流し込んだ。

「ぷはぁっ……! んーっ、五臓六腑に染み渡るわね! やっぱり激戦の後の安酒は最高だわ!」

額に押し上げた偏光ゴーグルの真鍮フレームを指先で弾き、エルはだらしなく口角を吊り上げた。

ピチピチのワークウェアの胸元を大胆に緩め、鍛え上げられたしなやかな体幹を毛布へ預ける姿には、帝立アカデミーの元主任技師という肩書の欠片すら見当たらない。

「エルさん……またそんなに強いお酒をラッパ飲みして。明日の朝、胃が痛いって騒いでも介抱してあげませんからね」

向かいの敷布の上で、クラリスが銀のカップに注いだ白湯を両手で包み込みながら、困ったように眉を下げて微笑んだ。

白銀の長い髪は後ろで一本の三つ編みに結ばれており、夜空を映したような瑠璃色のリボンが胸元へと垂れている。

魔境の寒風に晒されながらも、その白皙の頬は湯気の温もりを受けてほんのりと桜色に色づいていた。

「いいのよ、明日の胃痛は明日のあたしが計算すれば済む話! それよりさぁ、クレア?」

エルが瓶を床の木箱へことりと置き、膝をにじり寄せてきた。

その琥珀色の瞳の奥に、悪戯な光が灯っている。

「さっきの夕飯、見たわよ〜? レンが焼いてくれた岩魚、アンタ真っ先に飛びついてたじゃないの。しかもあいつが『ほらよ』って骨を綺麗に抜いて皿に置いてやった時のアンタの顔! なぁにあれ、蕩けきっちゃって! 聖女様じゃなくて、ただの餌付けされた子猫じゃないの!」

「な……っ!? え、エルさん……っ!?」

指摘された瞬間、クラリスの耳朶から首筋にかけて、一瞬にして鮮やかな林檎のような朱が走った。

持っていたカップを取り落としそうになりながら、慌てて両手を顔の前に掲げ、指の隙間からすっぽりと顔全体を覆い隠してしまう。

「ち、違います……っ! あれは、ただ……レンさんの焼くお魚が、美味しかっただけで……っ!」

「嘘おっしゃい! あたしが同じ魚に手を出そうとしたら、アンタ無言で袖口つまんで牽制してきたじゃない! あの『あたしの魚を取らないで』と『レンに話しかけないで』が半々に入ったジト目、傑作だったわよ〜!」

「見てたんですか……!? も、もう……エルさんの意地悪……っ!」

指の隙間から覗く菫色の瞳が、恥ずかしさのあまり潤んでいる。

両手で顔を覆ったまま、毛布の上を小さく転がるようにして身を縮めるクラリスの姿は、神樹聖教が崇める神々しい『奇跡の象徴』などではなく、年相応に恋するひとりの少女そのものだった。

エルは腹を抱えて愉快そうに喉を震わせると、ふっと表情を緩め、柔らかな手つきでクラリスの三つ編みの毛先をすくい上げた。

「……素直でよろしい。あんまり可愛いから、ついからかっちゃうのよね」

「うぅ……エルさんは、いつもそうやってからかいます……」

クラリスはおずおずと顔を覆っていた手を下ろし、小さく唇を尖らせた。

その細い首筋に、エルは静かに視線を落とす。

かつて彼女の首には、神樹聖教の冷たい金属ロザリオが下げられていた。

鎖骨の間に焼き付けられた『聖別印』――教会の所有物であることを示す屈辱的な刻印を覆い隠すように、いま掛けられているのは、細い鋼糸で編み込まれた素朴な青い鉱石の首飾りだった。

クラリスの白い指先が、無意識のうちにその鉱石の表面を、壊れ物に触れるように優しく撫でていた。

「……レンさんが、作ってくださったんです」

ぽつり、と。

外の虫の音よりも微かな声で、クラリスが呟いた。

「この焼印を、見るのも触られるのもずっと怖くて、醜くて……自分が人間じゃない道具のように思えて、ずっと俯いていました。……でも、レンさんは『綺麗だ』って言ってくださったんです。この首飾りで傷を隠して、私の手を握ってくれました」

少女の瞳の奥に、朝焼けのような淡い黄金の光芒が灯る。

「私……レンさんと出会って、初めて生きたいって思いました。誰かの身代わりになって死ぬためじゃなくて、明日も、その次の日も、あの方の隣で笑っていたいって」

「クレア……」

「だから、約束したんです。魔王を倒したら、教会を捨てて、二人で逃げようって。……誰も私たちのことを知らない、ずっと遠い海へ行こうって」

クラリスは胸の前で両手を重ね、青い石を包み込むようにして微笑んだ。

その笑みには、いかなる悲壮感もなく、ただ水平線の青を夢見る純真な祈りだけが満ちていた。

「海って、本当に広くて、塩の匂いがするんでしょうか。……私、一度も見たことがないんです。レンさんは、毎日美味しいお魚を釣って食べさせてくださるって言ってくれました。……約束、したんです」

クラリスの言葉に、エルは短く息を吸い込み、それから破顔して妹分の頭を乱暴なほど優しく掻き回した。

「当たり前じゃない! 海は広いわよ! 空の青がそのまま地面に落っこちたみたいに青くて、見渡す限り水しかないんだから!」

「きゃっ、エルさん、髪が……!」

「いいじゃないの、最高よ! あたしもアンタたちについていってやるわ! 逃亡先の港町でさ、世界一の釣り具工房を開くの! レンには新開発の剛竿とリールを押し付けて、毎日デカい魚を獲ってこさせる! ダンカンもお抱え用心棒として雇って、道場付きの孤児院を開かせてやるんだから!」

エルは胸を張り、眩しい未来図を誇らしげに語った。

象牙の塔で求められた殺戮兵器ではなく、大好きな仲間たちが腹の底から笑い、美味い飯を食うための、世界で一番温かい道具たちの青写真。

「決まりね! あたしがアンタたちの結婚式の仲人でもやってあげるわよ!」

「け、結婚だなんて……! もう、エルさんったら、話が早すぎます……っ!」

クラリスは再び両手で顔を覆い、今度こそ毛布の中へ頭から潜り込んでしまった。

その愛らしいじたばたとした動きに、エルは声を上げて笑った。

「ふふっ……約束ですよ、エルさん」

毛布の奥から、くぐもった、しかし透き通るような少女の声が響いた。

「魔王を倒して……みんなで、海へ行きましょうね」

「ええ、約束よ。……絶対に行きましょ、クレア」

橙色の光の中、二人の少女の無邪気な笑い声が、夜の静寂を柔らかく溶かしていった。


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挿絵:挿絵(By みてみん)

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――しかし。

その笑い声は、吹き抜ける冷たい隙間風にさらわれるようにして、ふっと輪郭を失った。

熱気は引いていき、橙色の光は白く乾いた冷気へと色褪せる。

夜営の温もりはどこにもなく、視界を満たしたのは、光の届かない地下禁書庫の冷酷な闇だった。

ルシアンの手元。

震える指先がめくった、百年前の報告書の最下段。

そこには、乾いた黒いインクで、あまりにも簡潔な事実だけが淡々と刻まれていた。

『魔導技師エレノア・ハイネマン――自爆、死亡』

『元聖女クラリス・フォン・シルフィード――生命燃焼、死亡』

二度と届くことのない約束の海。

海風の匂いを知らぬまま散った少女と、友のために自らを爆砕した技師。

静まり返った地下最深部に、ただ重く、痛烈な沈黙だけが横たわっていた。

(第二十五話 完 / 第二十六話へ続く)


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