第二十五話:『禁書庫の機密と血の真実』 第三節:暴かれた謀殺と、二代目魔王の正体
地下最深部の静寂の中、乾いた羊皮紙の擦れ合うかすかな摩擦音だけが響いていた。
ルシアンがめくった表紙の次頁。
そこには、百年前の帝国枢密軍事院と帝立教会典礼院の連名による、冷酷極まりない官僚的な筆致で事後処理の経緯が記されていた。
『聖歴792年 早春。魔王討伐の任を終え、帝都アルシリアへ凱旋した討伐隊一行に対する、特務処理の完了をここに報告す』
アリアの喉が、ごくりと小さく上下した。
肩を寄せ合うようにして覗き込むリンの表情から一切の冗談めいた色が抜け落ち、フィリアは祈祷杖を抱く指先を白くなるほど強張らせている。
報告書は、魔王討伐を祝うために大聖堂で開かれたという『救世祝勝晩餐会』の記録から始まっていた。
国を挙げた歓喜と美酒の宴。
だが、そこに張り巡らされていたのは、平民出の英雄たちを讃えるための祝福ではなかった。
『――討伐隊の功績が平民層へ伝播することによる貴族秩序の動揺、ならびに帝立教会の権威失墜を未然に防止するため、大聖堂の香油へ【生体マナ遮断聖毒】を混入』
『葡萄酒への毒物混入を警戒せる聖女クラリスの心理を逆算し、堂内全域へ気化香油の白煙を充填。生贄の体内でマナを凝固せしめ、治癒術式および奇跡の行使を封殺の上、身柄の完全回収を図る』
『同時に、制御不能なる平民戦力3名の秘密裏なる処分を執行』
「……香油に、毒を……?」
アリアの唇から、震える声が漏れた。
世界の破滅を食い止め、傷だらけになって帰還した英雄たちに対し、国家と教会が最初に用意したものが、祈りの空間を満たす麻痺と裏切りの毒煙だったというのか。
「汚ねえ……ッ!」
リンが奥歯をギリと噛み鳴らし、両拳の『ギア・フレーム』の金属が軋んだ。
「魔王を倒して帰ってきた連中を、毒煙で動けなくして騙し討ちにしやがったのか……!? 人間のやることじゃねえぞ、こんなの……!」
ルシアンは青ざめた唇を固く引き結び、震える指先で頁をめくった。
そこには、毒に侵されながらも仲間を庇い、必死に脱出を試みた一行の、凄惨極まりない最期の記録が淡々と綴られていた。
『処分記録 其の1:魔導技師 エレノア・ハイネマン』
『教会特務兵およびアカデミー兵器学派部隊による追撃戦の最中、旧第1工廠の全魔力炉を過負荷暴走させ、追撃部隊4個小隊を巻き込み自爆。未公開工学データおよび生体触媒理論の焼失を確認。……魔導技師エレノア、死亡』
「エレノア様……っ」
ルシアンの胸中を、激しい痛打のような衝撃が貫いた。
あの第3工廠の手記に記されていた、温かな工房の夢。
人を殺すための道具ではなく、誰もが笑って暮らせる道具を作りたいと願い、中指を立てて象牙の塔を飛び出した女性。
彼女は、自らの命と生涯の研究のすべてを炎に変えて、仲間たちを逃がすための絶対防壁となったのだ。
ルシアンの指が、次の記録へと滑る。
『処分記録 其の2:前衛 ダンカン・ブリッグス』
『帝都外郭・泥濘地帯の隘路において、追撃騎士団の重装騎兵部隊を単身足止め。愛用の八角鉄製金砕棒および特注大盾を構え、無数の刺突槍および魔導徹甲弾を受け止める。……仁王立ちの姿勢を崩さぬまま、絶命を確認』
「…………ダンカン・ブリッグス」
リンが低く、掠れた声でその名を繰り返した。
琥珀色の瞳が、羊皮紙に記された『仁王立ちの姿勢を崩さぬまま絶命』という文字に釘付けになっている。
逃げる仲間たちに背を向けることなく、無数の刃と徹甲弾をその身一つで受け止め、最後の一歩まで倒れなかった前衛の戦士。
同じく前衛として拳を振るうリンの胸の奥底に、見知らぬ先代の巨漢が遺した「絶対に退かない」という泥臭い武の芯が、強烈な熱となって焼き付けられていた。
そして、頁は一行の逃避行の終着点――かつてレンとクラリスが出会ったという、冷たい霧が立ち込める最果ての沼沢地へと続いていた。
『処分記録 其の3:元聖女 クラリス・フォン・シルフィード』
『重度の聖毒麻痺および致命傷を負いし討伐隊首魁を庇い、沼沢地にて包囲さる。身柄確保のため近接せる教会執行部に対し、クラリスは自らの生命維持を無視せる【絶対不可逆の完全治癒術式(最後の奇跡)】を発動』
『瀕死の首魁の致命傷を完治せしめたる代償として、自らの全魂力および心肺機能を完全に燃焼・喪失。……その場にて絶命』
「そんな……あんなにお優しい奇跡の力を、ご自身の命を燃やし尽くすために……」
フィリアの双眸から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ち、祈祷杖を抱く胸元へと吸い込まれていった。
自分の命と引き換えに、たったひとりの少年を生かすために放たれた、最後の祈り。
だが、報告書の記述はそこで終わっていなかった。
紙面の最下段。
赤黒い血痕の滲んだ特記事項の欄に、調査官の恐慌が透けて見えるような、震えた筆跡で最後の一節が記されていた。
『特記:討伐隊首魁に関する処分失敗の顛末』
『クラリスの絶命を確認せる直後、首魁の肉体に異常変異が発生。クラリスの胸元より魔王の残滓たる真紅の魔核が励起し、首魁の心臓部へと融合・置換せらる』
『首魁は絶命せるクラリスの遺体を抱き抱え、出現したる不可視の魔導複合糸にて包囲部隊第1および第2大隊を瞬時に全滅せしめ、東方の死の海域方面へ逃走。消息を絶つ』
書籍の末尾。
指名手配と永久抹消指定の赤印が捺された箇所に、その青年の本名が、はっきりと刻印されていた。
『処分対象首魁――被差別辺民出身・初代勇者 【レン】』
時が、完全に凍りついた。
誰も呼吸すらできなかった。
禁書庫の冷気が、4人の肺胞の奥まで侵食し、思考を真っ白に染め上げていく。
(……初代勇者、レン……?)
アリアの頭の芯が、激しいめまいに襲われた。
脳裏を駆け巡る無数の光景。
水の都の濁流の上で、大水門をいとも容易く両断したあの黒衣の男。
水底のメガバンクから奪還した水晶管を、まるで壊れ物を扱うように胸元へ強く抱き締め、能面の頬を濡らした一筋の涙。
そして――かつて地下暗渠の焚き火の前で、不器用に魚の骨を取れずにいた自分を見かねて、無言で魚を取り上げ、見事な手つきで骨を外してみせた、あの横顔。
『世界を均す土木作業員』。
『障害物をすべて平らに押し潰す、絶対零度の災厄』。
その怪物の正体は。
世界を滅ぼそうとする悪魔なんかじゃなかった。
百年前、世界を救い、誰よりも仲間を愛し、すべてを奪われ、愛する少女の亡骸のために世界を更地に変えようとしている――世界でたったひとりの、悲しき勇者その人だったのだ。
「……嘘、でしょう……?」
アリアの声が、震えて途切れた。
「あの人が……世界を救った、先代の勇者様……? じゃあ、あたしたちは……国を守るために、あの人を……すべてを奪われた被害者を、討伐しようとしていたの……!?」
「アリア殿下……」
ルシアンが痛ましげに声を絞り出したが、その青年自身もまた、眼鏡の奥の瞳を激しく揺らし、言葉を失っていた。自らの数理が解き明かした真実のあまりの残酷さに、知性のすべてが麻痺していた。
フィリアは祈祷杖に額を押し当てて声を殺して泣いていた。
その時だった。
どくん、と。
アリアの胸の奥で、経験したことのない鋭い拍動が跳ねた。
まるで冷たい氷の針を直接心臓に突き立てられたような、激しい寒気と疼き。
少女は思わず自らの左胸を掻きむしるようにして膝を折った。
「くっ……!? あ、れ……?」
「アリア!? おい、どうした!?」
リンが咄嗟にアリアの肩を強く抱きとめる。
「な、なんでもない……。ただ、急に……胸の奥が、ちぎれそうに痛くて……」
震える声でそう答えたアリアの、菫色の瞳から、大粒の涙が一筋、音もなく頬を伝い落ちていた。
自分自身が泣いていることすら自覚できないまま、次から次へと溢れ出す透明な雫。
まだクラリスの記憶を直接見たわけではない。
だが、初代聖女と同じ菫色の瞳を持ち、同じ『無垢なる聖域』の波紋を宿すアリアの魂が、百年前の少女の悲鳴と、底なしの痛みに無意識の共鳴を起こしていた。
冷たい禁書庫の闇の中、羊皮紙の上に刻まれた『魔導技師エレノア、死亡』『聖女クラリス、死亡』という黒い文字が、嘲笑うかのように4人を見下ろしていた。




