第二十五話:『禁書庫の機密と血の真実』 第二節:真理の墓場、地下禁書庫
深海黒鋼の大扉をくぐり抜けた瞬間、外の回廊にあった生温かい空気は完全に断ち切られ、氷室のような乾いた冷気が4人の肌を撫でた。
足を踏み入れた空間は、広大という言葉すら生ぬるい地下洞窟そのものだった。
天井の高さは十数メートルに及び、外界の陽光は一切届かない。
頭上には青白い燐光を放つ微弱な導魔鉱石が点々と埋め込まれているだけで、床から天井まで届く無数の黒漆塗りの書架が、まるで立ち並ぶ墓碑のように冷厳な影を落としていた。
書架の表面には、一冊一冊、一箱一箱に、帝立教会の神聖封緘印とアレキシア学府の重層プロテクトが赤錆色の封蝋となって固着している。
「……これが、禁書庫……」
アリアは思わず息を呑み、歩幅を緩めた。
左腰の『蒼水直剣アルビオン』が、冷気に満ちた空間の澱んだマナに反応して、かすかに鞘の中で蒼い燐光を明滅させている。
「静かすぎる……。本棚が並んでるだけなのに、まるで巨大な牢獄に閉じ込められたみたい」
「牢獄、というのは的確な表現ですね」
ルシアンがスレートチャコールの外套の裾を静かに払いながら、アリアの隣へと並んだ。
右目の『アナライザー・モノクル』が、青い数理グリッドを空間全体へ投射し、空気中のマナ密度と魔導トラップの有無を瞬時に走査していく。
「ここにあるのは、知識ではありません。時の権力者たちが『なかったこと』にしたかった過ち、禁忌の兵器実験、そして他国の文化や歴史を塗り替えるための捏造記録です。……真理を追究すべき学術都市が、真理を最も深く埋葬している。反吐が出るほどの欺瞞です」
「へっ、気取った講釈垂れてる連中の腹の中なんざ、いつの時代も真っ黒ってこったな」
リンが『ギア・ガントレット』の指先を軽く鳴らし、書架の背表紙を一瞥した。
「おいルシアン、こんな途途もない数の書類から、お目当ての記録を探し出せるのかい? 適当に片っ端から引っ張り出してたら、夜が明けちまうぜ」
「愚問ですね。当てずっぽうで探すなど、非論理的の極みです」
ルシアンは『幾何魔導杖・アストロラーベ』を軽く掲げ、先端の遊星歯車を静かに回転させた。カチリ、と微小な金属音が静寂に響く。
「学府の機密管理は、すべて十進法と星辰番号による幾何学的な座標管理が徹底されています。……先ほど第3工廠の手記で確認した、エレノア様の研究を強奪・隠蔽した当時の院長派閥――『第8第4研究室』の識別コードを軸に逆算します」
ルシアンのモノクルの奥で、青い数字の列が滝のように流れた。青年は迷うことなく歩調を早め、林立する巨大な黒漆の書架の間を、直角に曲がりながら奥へと進んでいく。
「追従してください。この区画の敷石には、歩行者の生体体温を検知して不活性ガスを噴出する圧力プレートが交互に仕組まれています。……偶数番目のタイルの中心だけを踏んでください」
「あいよ! ほんと、お前が味方で良かったぜ」
リンが身軽にルシアンの足跡を踏み越え、フィリアも「はい、ルシアン様」と裾を慎重に持ち上げて後に続く。4人は音もなく、迷宮のような書架の深奥へと滑り込んでいった。
やがて、書架の群れが途切れた。
禁書庫の最深部。そこは半円形の石造りのドームとなっており、中央の台座の上に、一際異様な重圧感を放つ巨大な耐魔金庫が鎮座していた。
金庫の扉は、竜骨の粉末を練り込んだという高純度の『白銀耐魔鋼』。表面には、帝立教会の紋章と、帝国枢密院の血塗られた双頭鷲の極印が、これ見よがしに刻み込まれている。さらにその上から、ルシアンの手のひらよりも巨大な、真鍮とミスリルが組み合わさった多段式の機械錠が、頑丈な鎖とともに巻き付けられていた。
金庫の銘板には、冷酷なゴシック文字でこう刻印されていた。
『帝国聖歴790年代・対外戦略および聖戦事後処理 極秘原簿――永久閲覧禁止』
「……見つけました」
ルシアンの声音が、低く張り詰めた。青年のネイビーブルーの瞳が、金庫の前に落ちるわずかな影を捉える。
「ここです。百年前、先代の勇者様たちが魔王を討伐した直後の、すべての公式記録から抹消された『事後処理』の原本が、この中に眠っています」
「永久閲覧禁止、か……。よっぽど世間に知られたくない悪事が詰まってるってわけね」
アリアが眉をひそめ、白銀の髪を揺らして一歩前へ出た。その眼差しには、帝国の欺瞞に対する強い怒りと、真実を暴く覚悟が宿っている。
「ルシアン、開けられる?」
「……容易ではありませんね」
ルシアンは金庫の前に歩み寄り、アナライザー・モノクルの焦点を多段式機械錠へと合わせた。
「単なる魔導プロテクトではありません。内部に十重の物理シリンダーが組み込まれており、解錠順序を1ミリでも誤れば、内部に仕込まれた強酸カプセルが破裂し、中の書類一切を瞬時に融解・消滅させる自壊機構が備わっています。……力尽くでこじ開けることは不可能です」
「壊したら証拠が消えちまうってわけか。小賢しい真似しやがる」
リンが舌打ちをする。フィリアが心配そうに両手を胸の前で組んだ。
「ルシアン様……危険すぎます。お怪我はありませんか……?」
「ご心配なく、フィリア様」
ルシアンは静かに微笑み、アストラル・フィールドコートの袖をわずかに捲り上げた。その表情には、恐怖も迷いもない。あるのは、先代の工匠エレノアの遺志を継いだ、一人の数理学者としての絶対の自負だけだった。
「エレノア様の手記にあった『摩擦ゼロの遊星歯車理論』
……あの設計思想をトレースすれば、酸のカプセルに振動を一切伝えることなく、シリンダーのピンだけを浮かせることが可能です」
ルシアンは『アストロラーベ・ワンド』の先端を、金庫の鍵穴の中心へと吸い付くように当てた。
「アナライザー、内部音響透過スキャン。シリンダー深度、1から10までを捕捉」
杖頭のアストロラーベが、滑らかな微細回転を始めた。チ、チ、チ……と、時計の秒針が刻むような極小の振動が、ルシアンの杖を通じて金庫の内部機構へと伝播していく。
第一ピン、解放。第二ピン、バイパス完了。第三、第四、第五……。青年の額に、一筋の汗が流れる。だがその手先は、一ミリの狂いもなく安定していた。数式が頭脳を駆け巡り、歯車の回転数がシリンダーのバネ定数と完璧に同調する。
「……第八、第九。そして――最終第十シリンダー、位相整合」
ルシアンが杖をわずかに右へ15度捻った。
微かな金属の噛み合い音が、静まり返った禁書庫に響いた。直後、金庫の表面を縛っていた太い鎖が自重で緩み、白銀耐魔鋼の重厚な扉が、密閉を解かれた空気の抜ける音とともに、数センチメートル手前へと押し出された。
「……解錠、完了です」
ルシアンが息を吐き出し、杖を引いた。
「やった……ッ!」
アリアが思わず声を上げ、リンがルシアンの肩を力強く叩いた。
「おいおいおい! 本当にやりやがったぞこの男! 天才かよ!」
「痛っ……! だから、叩くなと言っているでしょう……!」
痛みに顔をしかめつつも、ルシアンの口元には誇らしげな笑みが浮かんでいた。青年は手袋をはめた指先で、ゆっくりと金庫の分厚い扉を押し開いた。
密閉されていた百年分の冷気が、白く濁った煙となって足元へ流れ出す。
棚の奥。防腐と遮光の魔導塗料で黒く塗られた桐の木箱の中に、金箔の押し印が施された一束の羊皮紙ファイルが、静かに鎮座していた。
表紙には、百年前の乾いた黒インクで、冷酷な表題が刻まれていた。
『聖戦終結記念・祝勝晩餐会 事後顛末書 兼 逆徒処分報告書』
ルシアンが震える両手で、そのファイルを取り出した。
表紙をめくった瞬間、アリア、リン、フィリアの3人も息を呑み、青年の肩越しにその紙面へと視線を注いだ。
そこに並んでいたのは、およそ人の心を持つ者が記したとは思えない、血の通わない事実の羅列だった。




