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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第二話:『地下闘技場の無敗王者』 第一節:泥の路地と、地下の咆哮

地鳴りのように腹の底を震わせていた神水の激流が、排気シャフトの深淵を抜けると同時に、ふつりと遠のいた。垂直落差数十メートルに及ぶ漆黒の縦穴の最底部。

立ち込める冷たい水煙を切り裂き、アリアは猫のように音もなく両足の爪先を暗渠の縁へと着地させた。

激流の飛沫を浴びて濡れた灰褐色のフード付き外套の裾を払う。

宮廷の息詰まる薫香と薬品臭は綺麗さっぱり消え失せ、代わりに鼻腔を突いたのは、重たく湿り気を帯びたドブ川の澱みと、饐えた油、そしてどこかで焦げ付いた粗悪な肉の匂いだった。 帝都アルシリアの繁栄が切り捨てた吹き溜まり――外郭スラム街。 暗渠の鉄梯子を軽やかに駆け上がり、外れたマンホールの隙間から地上へ適し出ると、頭上には天蓋結界の淡い魔導光すら届かない、墨を流したような夜闇が広がっていた。

両脇にひしめき合うのは、廃材と錆びたトタンを継ぎ接ぎした粗末なバラック小屋の群れ。

足元には貴族街から流れ出た生活排水が粘土質の泥濘となって広がり、ところどころに吊るされた安物のオイルランプが、煤けた路地を頼りなく赤く照らし出している。

「……んーっ、やっぱりこの空気よ!」

アリアは外套の襟元を少し緩め、深く息を吸い込んで口元を緩めた。宮廷の貴族たちが顔を顰めて卒倒しそうなこの雑多な悪臭こそが、偽りのない生の熱気そのものだった。フードを目深に引き下げ、白銀の髪を完全に隠す。

腰に提げた無骨な官給品の鋼鉄剣が外套の下でカチャリと鳴るのを確かめ、アリアは泥を蹴って路地の奥へと足早に進み始めた。 ――だが、ここは夜の帳が降りた無法地帯のスラムである。

華奢な背丈の者が、外套を目深に被って一人で歩いていれば、夜陰に潜むハイエナたちの格好の獲物に見えて当然だった。 路地の角、崩れかけたレンガ壁の影から、ぬらりと二つの大柄な影が歩み出てアリアの行く手を塞いだ。

「へへっ、見ねえツラだな小僧。こんな夜更けに、一人でどこへ行く気配だ?」

「ずいぶん上等な外套着込んでるじゃねえか。身ぐるみ剥がされたくなきゃ、小遣い全部置いていきな!」

油ぎった笑みを浮かべる二人のゴロツキ。手にはそれぞれ、錆びた山刀とトゲ付きの棍棒が握られている。

もし歴戦の武芸者が見れば、アリアの泥濘を踏みしめる寸分のブレもない足捌きや、無駄を削ぎ落とした重心の低さに戦慄しただろう。だが、目先の金に飢えたチンピラたちには、ただの「迷い込んできた世間知らずのガキ」にしか映っていなかった。 アリアは立ち止まると、嫌がるどころか、フードの奥で楽しげに口角をキュッと吊り上げた。

「あたしから巻き上げる気? ……ふふっ、いい度胸ね!」

凛と通った鈴の転がるようなその声を聞いた瞬間、二人のゴロツキは顔を見合わせ、下卑たニヤケ面をさらに崩した。

「あァ……? なんだ、小僧かと思ったら女のガキじゃねえか!」

「へへへっ、いい声してんなぁオイ! 金だけじゃなくて、その外套の下の体もじっくり置いていってもらおうか!」

完全に舐めきった調子で、山刀を持った男が下品に舌なめずりをしながら手を伸ばしてきた。

「はい、ますます減点!」

男の指先が外套に触れる寸前――目の前から影が掻き消えた。

神速。

抜刀の音すら置き去りにした一閃。アリアの腰の鉄剣が、鞘ごと男の鳩尾へと正確無比にめり込んでいた。

「が、は……ッ!?」

肺の中の空気をすべて吐き出し、くの字に折れ曲がって泥水の中へ崩れ落ちる男。

もう一人の棍棒を持った男が、下品な笑みを貼り付けたまま固まり、何が起きたのか理解できずに口をあんぐりと開けた瞬間には、すでにアリアはくるりと軽やかに回転し、男の足元へと滑り込んでいた。 舞うような足捌きから繰り出された、鋭利な足払い。

視界が上下逆さまになり、男の背中が泥濘へ派手な水飛沫を上げて激突する。

追撃の必要すらなかった。アリアは鞘の先をくるりと指先で回して男の喉元へ突きつけると、クスクスと悪戯っぽく笑い声を漏らした。

「ざーんねん! 足腰の粘りも礼儀も全然足りないわね。夜更かしして女の子をからかう暇があったら、腕立て伏せと走り込みからやり直しなさい!」

「ひ、ひぃぃっ……!?」

失禁寸前で泡を吹く男を見て、アリアは満足そうに鉄剣を腰へ収めた。

「ほら、お腹冷やさないうちに帰りなさい。じゃあね!」

ひらひらと小馬鹿にするように手を振り、アリアは鼻歌交じりに二人の間を跨ぎ越して駆け出していく。路地の暗がりで様子を窺っていた他のゴロツキたちも、いまの楽しげかつ圧倒的な立ち回りに肝を冷やしたのか、蜘蛛の子を散らすように闇の中へ気配を消していった。迷路のような路地を抜け、辿り着いたのは、かつて神水濾過施設として使われていた巨大な地下廃工廠の跡地だった。地上には崩れ落ちた外壁が放置されているだけだが、その足元――分厚い防爆扉の隙間からは、地面を微かに震わせるほどの地鳴りのような重低音が漏れ出している。――ウオオオオオオオッ!!――殺せ! 叩き潰せ! 賭け金を倍にしろォッ!!男たちの下卑た怒号と、生々しい肉弾戦の破砕音、そして狂乱した歓声。非合法の賭博と暴力が支配する、帝都最大の吹き溜まり――地下闘技場。アリアは迷わず、重厚な鉄扉の前に立つスキンヘッドの門番の前へと歩み寄った。大男の手には、血糊の染み付いた巨大な鉄パイプが握られている。

「おい小僧、ここはガキの来――」

言いかけた大男の分厚い掌へ、アリアは無言で銀貨を二枚、パチンと弾いて落とした。銀貨の重みと輝きを確かめた大男の濁った目が、ぎょっと見開かれる。

「……奥のリングだ。死んでも骨は拾ってやらねえぞ」

「拾ってもらう気なんて、最初からないわ!」

アリアはフードの奥でケロッと笑うと、重い鉄扉を片手で押し開き、熱気と暴力が渦巻く暗がりへと躊躇なく足を踏み入れだ。熱気。汗と安酒、沸いて乾いた血の臭いが混ざり合った濃密な空気が、肌にまとわりつく。すり鉢状に掘り下げられた広大な地下空間の中央には、頑丈な丸太と鉄柵で囲われた円形の土俵――『擂台(リング)』が設えられていた。周囲を取り囲む何百人もの荒くれ者たちが、汗まみれの拳を振り上げ、唾を飛ばしながらリングの上へと絶叫を浴びせている。その狂熱の中心、土埃の舞うリングの上を、アリアの瞳が捉えた。

「――お次、誰か骨のあるヤツはいねえのかよッ!!」

響き渡ったのは、大男たちの怒号を真っ向から切り裂く、驚くほど澄んだ、だが芯の通った少女の勝ち誇るような声だった。

(第二話 第二節へ続く)


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