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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第一話:『白銀の籠の鳥』 第三節:老いさらばえた玉座と、品定め

重厚な黒鉄の扉が、低く重い軋み音を立てて開いた。

謁見の間に漂っていたのは、豪奢な白壇の薫香の奥に潜む、ツンと鼻を突く特級神水の薬品臭と、死臭に近い澱んだ空気だった。

広大なホールの最奥、高くそびえる階段の上に設えられた白亜の玉座。

そこに鎮座していたのは、一国の絶対君主と呼ぶにはあまりに枯れ果てた、一人の老人――現聖帝の姿だった。

幾重にも張り巡らされた細い銀の管が、玉座の裏手にある特級神水の魔導タンクから伸び、老帝の痩せ細った腕へと直接繋がれている。

皺枯れた皮膚は土気色に濁り、生命の火はとうに消えかけているというのに、特級神水という劇薬によって無理やり肉体を生かされている異形の支配者。その濁った瞳が、入室してきたアリアへと向けられた。

そこにあるのは、末娘の無事を喜ぶ父親の温もりなどではない。己の権力と延命の道具を眺める、値踏みの冷徹さだけだった。

「……よく参ったな、アリア」

掠れた、紙を擦り合わせるような声が落ちる。

「お呼びにより参上いたしました、父上」

アリアはコツン、とヒールの音を静かに止め、寸分の狂いもない優雅な所作で頭を垂れた。

何千回と叩き込まれた、完璧な王族の礼節。表情の筋肉を一切動かさず、感情を鏡の裏へと隠す。

玉座の脇から、ぬらりとした気配を纏って一人の男が一歩前へと進み出た。

純白に金糸の刺繍が施された教皇庁の豪奢な法衣。それをだらしなく押し広げる丸々と太った腹、首元の贅肉に埋もれかけた顎。

教皇庁典礼院の枢機卿――ベルナルドだった。

「おお、これは麗しい……。いつ拝見しても、息を呑むほどの神聖さでございますな」

ベルナルドの油じみた唇が、醜悪な弧を描く。

その細められた豚のような目が、アリアの頭頂のティアラから、白銀のドレスに包まれた華奢な首筋、コルセットで強調された胸元、そして引き締まったウエストのくびれへと、舐め回すように滑り落ちていく。

敬虔な祈りの言葉とは裏腹に、そこにあるのはあからさまな「女」としての品定めと、高貴な皇女を手玉に取っているという優越感が混ざり合った、下卑た視線だった。

(……気持ち悪い)

アリアは心の中で、吐き気を催すほどの嫌悪感とともに冷たく舌打ちした。

肌の上をナメクジが這い回るような不快感。だが、その感情を睫毛の一筋にも表に出すことはない。ただ無機質な人形のように、視線を床の大理石へと落とし続ける。

「アリア殿下。本日は、貴女様にとってこの上なき栄誉となるお役目をお伝えに参りました」

ベルナルドは脂の浮いた手を胸の前で合わせ、慇懃無礼に言葉を継いだ。

「来たる神樹降誕祭において、大聖堂の天蓋バルコニーにお立ちいただき、集った数十万の民に向けて『神樹の祝福の祈り』を捧げていただきたいのです」

「……祈り、でございますか」

「左様。最近、外郭の低地やスラムの愚民どもが、神水の配給について不穏な戯言を喚き散らしておるようでしてな。神罰を恐れぬ不平分子どもに、まことの奇跡を思い出させてやる必要があるのです。……百年前、国のためにその身を捧げられた『悲劇の聖女クラリス様』に瓜二つの殿下が、涙を浮かべて美しく祈りを捧げれば、愚かな羊どもは感涙にむせび、再び教会と帝国にひれ伏すことでしょう」

ベルナルドの笑みは、もはや信仰者のそれではなく、極上の興行を企む興行主のそれだった。

痛みを引き受ける生贄の仕事は、大聖堂の地下に囲い込んだ『本物のお人形(フィリア)』にやらせればいい。

アリアに求められているのは、ただその完璧な美貌とクラリスそっくりの容姿を使って、民衆の不満を逸らすための「客寄せパンダ」になること。

それ以上でも、それ以下でもない。

「殿下は何もお考えにならず、ただ神々しく微笑み、用意された祝詞を口にしていただければ結構。……すべては、神樹の秩序のため。そして、聖帝陛下の御稜威(みいつ)のためでございます」

玉座の老帝が、喉の奥を鳴らして短く頷いた。

「……うむ。教会の申す通りにせよ、アリア。それが、余の血を引く者の務めだ」

娘の意志など、最初から存在しないかのような決定。

「はい」以外の言葉を求めてすらいない、形式だけの謁見。

アリアの胸の奥底で、冷たい炎がごうごうと音を立てて燃え盛っていた。

この老いぼれた支配者も、太った生臭坊主も、民の渇きなどこれっぽっちも見ていない。

自分たちの甘い汁と延命のために、死んだ過去の聖女の亡霊を掘り起こし、十六歳の娘にその皮を被せて踊らせようとしている。

――反吐が出る。誰がお前たちの茶番に付き合うものか。

だが、アリアが取った行動は、抗議の声を上げることではなかった。

「――仰せのままに、父上。教皇庁の尊き導きに従います」

流れるような動作でドレスの裾をわずかに持ち上げ、深く、優美に膝を折る。

宮廷の誰もが溜息を漏らすであろう、機械のように精緻で、一切の破綻のない完璧なカーテシー。

頭を垂れた白銀の髪の陰で、アリアの菫色の瞳は、絶対零度の冷徹な光を宿していた。

(……決めたわ)

今夜だ。

あの部屋の豪奢な窓枠から抜け出して、外の空気を吸いに行く。

完全に逃げ出してしまえば、近衛兵や宮廷騎士団が血眼になって帝都中を引っ繰り返す大騒ぎになる。そんな面倒に巻き込まれるのは御免だった。

だから、いつものように夜の闇に紛れて抜け出し、あの息苦しいドレスを脱ぎ捨てて、下町の泥と熱気に身を浸す。

鬱憤を拳に乗せて闘技場のゴロツキどもを片っ端から殴り倒し、朝露が消える前――侍女たちが朝の紅茶を運んでくる前に、何食わぬ顔でベッドに戻っていればいい。

「下がってよいぞ、アリア」

老帝の掠れた声が響くと同時に、アリアは音もなく立ち上がった。

「失礼いたします」

一度も振り返ることなく、コツン、コツンと優雅なヒールの音を響かせて背を向ける。

背中にねっとりと絡みつくベルナルドの下卑た視線を、まるで見えない刃で切り捨てるようにして、アリアは謁見の間を後にした。

(第一話 第四節へ続く)


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