第一話:『白銀の籠の鳥』第二節:教理の教科書と、濁る水路
「ではアリア様、最後に胸元のブローチを――」
侍女の一人が小箱からサファイアの留め具を取り出し、アリアの胸元へ手を伸ばした、その時だった。
「あっ、いけません。花瓶の百合が少し傾いて……」
別の若い侍女が窓辺の花瓶に触れた拍子に、白く咲き誇る花弁が微かに揺れた。
ぽとり、と。
純白の花芯の奥から、緑色をした米粒ほどの小さな毛虫が、大理石の床の上へと音もなく落下した。
「――ひゃいっ!?」
さっきまで鏡の前で冷徹に決意を固めていたはずの姫君の口から、およそ一国の皇女とは思えない、情けない裏返った悲鳴が飛び出した。
スカートの裾を両手で派手に跳ね上げ、神速のステップで後ろへ飛び退く。
ドン、と背中が天蓋付き寝台のマットレスに激突し、アリアはドレスの裾を抱え込んだまま、ベッドの上へ飛び乗って正座していた。
菫色の瞳をまん丸に見開き、床の毛虫を睨みつけながらカタカタと肩を震わせている。
「……な、なな、何よアレ! なんで花の上にそんな足の多いのが這い回ってるのよ!?」
「まあ、ふふっ……アリア様ったら」
侍女たちが顔を見合わせ、たまらず口元にハンカチを当てて、親愛の混ざった笑い声を漏らした。
他の皇族たちの前であれば、不敬罪で処刑されかねない無作法。だが、この水水晶の離宮に仕える者たちは皆、理不尽に怒鳴り散らすことなど決してなく、こうして年相応に表情をころころと変える末の姫君のことが、愛おしくてたまらなかったのだ。
「庭園から摘んできたばかりの百合ですから、迷い込んでしまったのですね。……アリア様はあんなに木刀を振り回して宮廷騎士様方を震え上がらせていらっしゃいますのに、小さな虫だけは昔からお嫌いでございますねえ」
「こ、怖がってなんか……っ! べ、別にビビってないわよ! 不衛生だから間合いを取っただけ! 剣術の基本よ、間合いの確保!」
アリアは耳まで真っ赤に染め上げ、唇を尖らせてジト目で侍女たちを睨みつけた。
若い侍女が優しく微笑みながら、手早く紙に包んで毛虫を外へ逃がしてやる。その背中を恐る恐る見届け、ようやくベッドから降りたアリアは、気まずそうにドレスのシワを手で払い、わざとらしく一つ咳払いをした。
「……もういいわ。気分転換に、外の空気を吸ってくる」
逃げるように足早に歩き、私室から続く豪奢なテラスのガラス扉を押し開けた。テラスに出た瞬間、ひんやりとした朝風がアリアの火照った頬を撫でた。
眼下に広がるのは、アルシリア神聖帝国の心臓部――聖都アルシリアの雄大なパノラマである。
天空を覆い尽くすように枝葉を広げる神樹イグニス・アルボルの根元からは、落差三百メートルを誇る『アルシリア大瀑布』が轟音とともにエメラルドグリーンの聖杯湖へと注ぎ込んでいる。
そこから放射状に伸びる高架導水橋を通じ、清純な淡水神水が白大理石の街並みを縦横無尽に巡っていた。
水面は朝日に照らされて七色のプリズムを放ち、二重の虹が架かる光景は、誰もが息を呑む「地上の楽園」そのものだった。
「今日も神樹様の恵みによって、帝都は美しゅうございますね」
ブローチを留めに追ってきた筆頭侍女が、手すりの傍らでうっとりとその景色を見つめ、胸の前で小さく祈りを捧げた。
「……そうね。ここから見ている分には、ね」
アリアは手すりに体重を預け、冷ややかに目を細めた。
彼女の視線が捉えていたのは、貴族たちの宮殿が立ち並ぶ清澄な中央区路ではない。
視線をずっと遠く、標高の低い南東の外縁部――運河の終端へと滑らせていた。
聖杯湖から流れ出る川幅数キロの大動脈河川。
それが皇宮の足元を離れ、下流の平民街へ届く頃には、神水は貴族たちの工房や邸宅から排出された生活排水で濁り始める。
さらにその先、堤防で厳重に隔離された下層のスラム街――『まつろわぬ民』や貧民たちが押し込められた泥濘の低地に至っては、水面はすっかり粘土質の土気色に淀み、朝から鉛色の不穏な煙が幾筋も立ち上っていた。
「ねえ、マリア」
アリアは手すりを指先でトントンと叩きながら、何気ない口調で侍女に問いかけた。
「宮廷神官の授業で習ったわ。神樹の水は神の無償の恩寵であり、この大地に生きるすべての民の渇きを等しく癒やす……って。教会の聖典にはそう書いてあったわよね?」
「はい。神樹聖教の尊き教理でございますね」
「だったら、どうしてあそこ――外郭の低地には、綺麗な水が流れていかないの? 魚も棲めないような泥水で、子供たちが体を洗っているのはなぜ?」
侍女はきょとんと目を丸くした後、困ったような、だが悪気のない柔らかな笑みを浮かべた。まるで、世間知らずな子供の素朴な疑問を優しく諭すかのような声音だった。
「それはアリア様、あのような下層にお住まいの方々は、神樹様への信仰が足りないからでございますよ」
「……信仰?」
「ええ。教皇庁へ納める神水税を怠り、神聖なる教えに従わぬ怠惰な方々だからこそ、清らかな神水を賜ることができないのです。神樹の恵みは、正しき信仰を持つ者にこそ与えられるもの。教会の方々も、そう説いておいででしょう?」
悪意がない。それが、何よりもアリアの胃の腑を冷たく締め上げた。この娘は残酷な人間ではない。アリアのドレスの裾を気遣い、虫に怯えれば笑い、怪我をすれば本気で心配してくれる、心優しい侍女だ。
そんな人間が、下層の人間が泥水を飲んで病に倒れる現実を「信仰が足りない自業自得」として、何の疑問も抱かずに受け入れている。
教育という名の洗脳。神水という資源を人質にした、絶対の支配。
(教科書に書いてあることは、全部大人の都合で作られた嘘っぱちだ)
アリアは手すりを握る手に力を込めた。手のひらにある素振りのタコが、白大理石の角にぎしりと擦れる。神樹の水は平等なんかじゃない。
蛇口の根元を握る聖帝と教皇庁が、民を家畜のように飼い慣らし、言うことを聞かせるための首輪に過ぎないのだ。
「――アリア様、そろそろお時間でございます。謁見の間へ参りましょう」
侍女の促す声に、アリアはゆっくりと息を吐き、テラスの冷気を胸の奥へ沈めた。私室へ戻ると、控えていた侍女が跪き、アリアが履いていた柔らかなシルクの室内履き(ミュール)をそっと脱がせる。
代わりに差し出されたのは、窮屈で堅苦しい宮廷正礼装のための靴だった。
純白の子山羊革に繊細な銀の刺繍が施され、細身のヒールにはミスリルの装飾金具が光る、皇族女性のための特注パンプス。
つま先を押し込むと、足首がピンと張り、爪先立ちに近い不自然な姿勢を強いられる。歩くたびに、磨き抜かれた白大理石の床へ、硬質で涼やかな音が響いた。コツン、コツン。規則正しく、優美で、高貴な調べ。
誰が見ても、深窓で大切に育てられた可憐な皇女の足音そのものだった。
だが、その豪奢な靴の内側で、アリアの五本の足指はしっかりと大地の感触を確かめるように床を掴んでいた。
こんな高いヒールなど脱ぎ捨てて、泥の匂いのする大地を自らの足で駆け抜けてみたい。
虚飾で塗り固められた回廊を進みながら、アリアの双眸は、静かな闘志を宿して前方の重厚な扉を見据えていた。
今日、あの老いさらばえた父と、油じみた笑みを浮かべる教会の枢機卿たちが、自分に何を言わせようとしているのか。
アリアには、もう痛いほど分かっていた。
(第一話 第三節へ続く)
読んでいただき、ありがとうございます!!
よかったな、と思っていただけたら感想いただけたら、今後の励みになります!
今後ともよろしくお願いいたします!




