第一話:『白銀の籠の鳥』 第一節:白銀のドレスと素振りのタコ
抜けるように高い秋空から、柔らかな朝の光が降り注いでいた。天蓋結界の淡い魔導光と混ざり合った陽光は、微かな金色の粉を散らしたように煌めき、眼下に広がる帝都の整然とした街並みを白く照らし出している。吹き抜ける朝風は清冽で、窓辺に飾られた純白の百合の花をかすかに揺らしていた。皇宮の深奥に位置する離宮『水水晶の離宮』の私室は、そのすがすがしい朝の気配とは裏腹に、息が詰まるほどの豪奢と冷厳な静寂に満ちていた。
天井には神樹の枝葉を模した金糸の彫刻が張り巡らされ、床に敷き詰められた白大理石は、差し込む陽光を鏡のように反射している。壁際に並ぶ三人の専属侍女たちは、乱れ一つない仕立ての侍女服に身を包み、足音すら立てずに控えていた。その所作には訓練された優雅さが行き届いているものの、張り詰めた面持ちと硬い視線は、この部屋の主が決して一筋縄ではいかない「じゃじゃ馬」であることを雄弁に物語っている。
その部屋の中央、全身を映し出す大きな三面鏡の前に、アリアは立たされていた。
「――アリア様、少し息を吸い込んでいただけますか?」
背後に回った筆頭侍女の微かな緊張を帯びた声とともに、背筋を貫くように締め上げられた純白の絹紐が、ぎしりと軋んだ音を立てた。身にまとわされているのは、皇女としての至高の威厳と神聖さをあますところなく誇示するために仕立てられた、重厚なる宮廷正礼装――白銀のドレスだった。
幾重にも重なり合う最高級シルクのペチコートは歩くたびに微かな波音のごとき衣擦れを響かせ、裾には純銀の糸で神樹の豪奢な大樹紋様が隙間なく刺繍されている。細くくびれたウエストを美しく際立たせる白磁のコルセットには細密な彫金が施され、胸元から肩口にかけて幾重にもあしらわれた繊細なレースは、朝露を浴びた蜘蛛の巣のように儚く優美だ。
足首までをふわりと包み込む優雅なドレープは、光の角度によって真珠のような淡い虹色の光彩を放ち、帝都の職人技の極致を見せつけていた。
どこからどう見ても、一国の象徴として民を跪かせるにふさわしい、息を呑むほど絢爛豪華なお姫様の装いそのものだった。
「まあ……アリア様、また少しお背中と腰回りが引き締まられたのではございませんか? コルセットの留め具が、先月よりも一筋奥へ入ってしまいますわ」
細身の紐を整えながら、侍女が当惑と感嘆の混ざり合った吐息を漏らす。
無理もなかった。
宮廷の奥深くで贅沢な神水風呂に浸かり、甘い菓子を口にして暮らす他の皇女たちのような、柔らかく崩れた肉感などアリアの身体には微塵も存在しない。
日々の過酷な鍛錬によって限界まで絞り込まれた体幹の筋肉、鋭角なくびれを描くウエスト、そして無駄な贅肉を削ぎ落としたしなやかな手足。
引き締まった健康美を誇るその肉体は、どれほど豪奢なドレスを着せかけようとも、風を裂く鋭利な刃の気配を隠しきれずにいた。
アリアは鏡越しに、自分の両の掌へと視線を落とした。白く細い指先。だが、その掌の付け根と指の節々には、貴族の令嬢には決してあってはならない、分厚く硬い「素振りのタコ」が刻まれている。侍女の視線がそこへ滑り落ちそうになる寸前、アリアは無意識に指先を丸め、ドレスのレースの袖口の陰へと隠した。
「……気にしないで。ただの成長期よ」
ぶっきらぼうに返すと、侍女たちは顔を見合わせ、困ったように眉を下げた。
「ふふ、ご謙遜を。ですがアリア様、本日執り行われます神樹大聖堂での謁見では、どうか第三皇女殿下のように淑やかにお振る舞いくださいませね。元老院の貴族様方や、第一皇子派の将校の方々も大勢お見えになるそうでございますから」
「第一皇子派ね……」
アリアの唇から、冷ややかな呟きが零れ落ちた。アルシリア神聖帝国、現聖帝の宮廷。
老境に入り、教会の特級神水による延命で辛うじて生命を繋ぎ止めている父帝の玉座の下では、すでに醜悪な後継者争いが泥沼の様相を呈していた。
三十代を越え、火の門閥ブラント家から莫大な軍需資金を吸い上げて好戦的な軍拡を煽る長兄、第一皇子。
対するは、水の門閥ローゼンベルク家と教皇庁に擦り寄り、内陸運河と神水の利権を握って肥え太る次兄、第二皇子。
父帝の延命が尽きる日を今か今かと待ちわびる二人の兄たちは、互いの足を引っ張り合い、宮廷に血生臭い毒気を振りまくことしか頭にない。
そして上の姉たちといえば、有力門閥や教会の枢機卿の家門へと政略結婚で売られていき、今や己の延命水と宝石の数を競い合うだけの、退廃した贅沢の虜だった。
(どいつもこいつも、父上がいつ死ぬかばかりを計算しているハイエナじゃない)
年の離れた第七皇女として生まれたアリアは、継承権争いの中心からは完全に外れた存在だった。上の兄や姉たちにとって、アリアは「父帝が晩年に気まぐれで作った出来損ないの末娘」であり、同時に、初代聖帝の直系のみが宿すという正統なる白銀の髪と菫色の瞳を受け継いで生まれた、気味の悪い異端児でしかなかったのだ。
だが、皇宮という名の檻の中で、アリアの存在を極めて歪な形で貪欲に利用しようとする者たちがいた。
父帝、そして教皇庁である。
百年前、国家のために命を捧げて散ったとされる「悲劇の聖女クラリス」。アリアの容姿は、その聖女の面影を残しているなどという生易しいものではなかった。透き通るような白銀の髪、夜明けを思わせる菫色の瞳、滑らかな白皙の肌の質感に至るまで、まるで鏡を覗き込んでいるかのように、百年前の肖像画の少女と瓜二つだったのだ。
神樹の目詰まりと地下の異臭に怯え、不穏な空気が漂い始めた民衆を欺くため、父帝と教会はこの「生きた瓜二つの偶像」を喉から手が出るほど欲していた。ただし、両者の思惑は微妙に異なっていた。
教会には、大聖堂の奥深くで「本物の奇跡」を紡ぐために厳重に隔離され、外界の泥から遠ざけられた純粋培養の聖女――生贄の役割を一手に担う『お人形』が別に囲い込まれている。
だからこそ教会と父帝がアリアに求めているのは、過酷な生贄の役目そのものではなかった。
血統正しき皇女でありながらクラリスと同じ顔を持つ彼女を、豪奢な衣装で飾り立てて最前線の神輿に据え、民衆の熱狂を煽るための『都合の良い看板』として消費すること。
痛みを引き受ける生贄と、民衆を欺くための美しき看板。
二つの人形を使い分け、民を欺き続けようとする大人たちの浅ましい計算が、アリアには透けて見えていた。
(悲劇の聖女の再来、ね……反吐が出る)
かつてアリアに施されようとした「皇女としての淑女教育」の記憶が、苦々しく蘇る。
美しいステップを踏んで笑うだけの典礼舞踏、指先を血で汚さぬための刺繍、そして教会の教理をオウムのように復唱する礼儀作法。
それらすべてを、アリアは幼少期から徹底的に叩き壊してきた。
舞踏の手ほどきをする家庭教師の足をわざと踏み抜いて逃げ出し、刺繍の針を放り出して木刀を握り、説教を垂れる宮廷神官の頭上を飛び越えて、高い離宮の窓枠から庭石の上へ軽々と飛び降りた。
淑女の足首を縛る裾の長いドレスを嫌い、誰もいない夜の訓練場で、泥にまみれながら木刀の素振りを何千本、何万本と繰り返した。
『皇族の女が剣など握って何になるのです! 貴女の役目は、ただ美しく装い、民の前で敬虔に祈ることなのですよ!』
泡を吹いて怒鳴り散らした教育係の顔を、アリアは今でも覚えている。
祈るだけ?
綺麗な服を着て、誰かが用意した舞台の上で微笑むだけで、何が守れるというのか。
民が飢え、下流の街が濁った水に喘いでいる現実から目を背け、安全な城の奥で首を傾げて祈っていれば、世界が救われるとでも思っているのか。
(あたしのこの手は、祈るためにあるんじゃない)
アリアの血管を巡るのは、初代聖帝の血筋にのみ流れる原初無属性のマナ血液――『蒼血』。
誰にも教わらず、ただ己の生存本能と身体知に従って研ぎ澄ませてきた【始祖原水流剣術】。
音速を超えて空間を薙ぐ神速の刺突と抜刀術こそが、欺瞞に満ちたこの皇宮の中で、唯一アリアが己の意志で手に入れた「本物の力」だった。
「――お支度が整いました、アリア様」
侍女の満足げな声が、アリアの意識を現実へと引き戻した。丁寧に櫛削られた艶やかな白銀の髪は、肩口へと美しく流され、頭頂には真珠とミスリルをあしらった豪奢なティアラが載せられている。
三面鏡の中に完成したのは、一点の曇りもない美しさを湛えた、神話の絵画から抜け出してきたかのような「完璧な白銀の姫君」だった。
痛々しい生贄の焼印などどこにもない、透き通るように白い素肌。
朝焼けの光芒を宿す、深く澄み渡った菫色の双眸。
だが、鏡の中のその瞳は、従順な生贄のお人形の光など宿していなかった。誰にも媚びず、誰の操り人形にもならず、ただ己の意志で世界の理不尽を睨み据える、爛々とした戦士の光芒。
アリアは鏡の中の自分を見つめ、侍女たちに決して聞こえぬほどかすかな声で, 冷徹に唇を動かした。
「――誰が、祈るだけの置物になんてなってやるもんですか」
(第一話 第二節へ続く)
下記キャラクターイメージイラストです!(AI使用)
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