第二十四話:『象牙の檻と、煤けた数式』 第一節:街道の追想と、遅延の理由
車輪が規則正しく石畳の継ぎ目を越える重厚な振動とともに、四輪の蒸気装甲馬車が東方大街道を疾走していた。
大水門の崩壊から数日後。
水路の復旧と平民たちの自立を見届けたアリアたちに、水の都の下層民たちが「せめてもの恩返しに」と工面してくれた貸切の乗合蒸気馬車だった。
屋根の排気筒から白い蒸気をまっすぐに吐き出し、窓の外には果てしなく広がる黄金色の麦畑と、遠方に青く霞む山並みが流れていく。
車内の革張り座席で、アリアは膝を抱えるようにして座っていた。ガラから贈られた旅装――白を基調とした動きやすいショートパンツに、太腿のレザーホルスター。肩に羽織った藍色のハーフケープは風を通しやすく、サイドにまとめた白銀の髪が、窓からの風を受けて軽やかに揺れている。
左腰には、常に静かな蒼気を湛えた『蒼水直剣アルビオン』が佩かれていた。
「ふう……! やっぱり、数日思いっきり身体を動かした後の飯は最高だな!」
隣の座席であぐらをかいたリンが、手にした干し肉を豪快に噛みちぎりながら、満足そうに頬を緩めた。膝下を覆う緋色の具足――『ギア・グリーブ』の真鍮金具が、車内の揺れに合わせて鈍い光を散らしている。都の復興作業で手に入れた美味い野営用の携帯食を口いっぱいに頬張り、八重歯を覗かせて笑うその姿は、相変わらず野生児そのものだった。
「皆様の笑顔……本当に温かかったですね。あの街の方々は、きっともう大丈夫です」
向かいの座席で、フィリアがおっとりと微笑んだ。膝の上に置かれた聖樹の祈祷杖を両手で優しく抱きとめながら、車内に持ち込んだ小さな魔導湯沸かし器から、野草茶を陶器のカップへと手際よく注ぎ分けていく。
「どうぞ、アリア様、リン様、ルシアン様。身体を温めてくださいね」
「ありがとう、フィリア」
アリアは湯気の立つカップを受け取り、息を吹きかけながら一口喉を潤した。爽やかなハーブの香りが、張り詰めていた筋肉をじんわりと解きほぐしていく。だが、アリアはカップを持ったまま、少し首を傾げた。向かいの席で、膝の上に広げた測量図面へ羽ペンを走らせている青年に向けて、カップの縁から覗かせるように菫色の瞳を上目遣いに向ける。
「ねえ、ルシアン。……ひとつ、ずっと気になってることがあるの」
「何でしょうか、アリア殿下」
ルシアン・ド・アイテールは図面から顔を上げ、中指で銀縁眼鏡のブリッジを押し上げた。
アカデミー首席の証である白亜の礼装ローブを纏っているものの、連日の泥仕事と旅路の乾燥のせいで、その豪奢な裾はうっすらと煤けて埃を被っている。青年はそれを少し鬱陶しそうに指先で払いながら、理知的な視線を向けた。
「魔王軍の動きだよ。……あの黒衣の男は、大水門をあんなにいとも簡単に真っ二つにして、水底のメガバンクを更地に変えた。あの圧倒的な力があれば、そのまま東へ軍を進めて、次の拠点であるアレキシアを今すぐにでも叩き潰せるはずじゃない?」
アリアの脳裏には、濁流の上に静かに降り立ち、水晶管を胸元へと折れそうなほど強く抱き締めていた男の姿が焼き付いていた。
そして――冷徹な能面の頬を伝い落ちた、あの一筋の涙も。
「あたしたちは水の都で何日も復興を手伝っていた。その間に、魔王軍がアレキシアを強襲したっていう凶報は届いていない。……なぜ、あの男は進軍を止めたの? 足を止める理由なんて、あの怪物にあるのかしら」
アリアの問いに、リンも干し肉を咀嚼する手を止め、リスのように頬袋を膨らませたまま面白そうに口元を歪めた。
「言われてみりゃそうだな。あの黒尽くめの野郎、海中から湧き出た怪獣どもを連れて、とっくに次の獲物を平らに均しに行っててもおかしくねえ。のんびり茶をしばいてる暇があるとは思えねえが」
ルシアンは羽ペンを置き、座席の脇に立てかけていた細身の儀礼用魔導杖を軽く指で叩いた。
「理由は三つあります。……いえ、あの男の行動原理を数理的に分解するならば、四つと言うべきでしょうか」
ルシアンが淡々と人差し指を立てた。
「第一に、前衛戦力の損耗と再編です。水門攻防戦において、ローゼンベルク家の私兵艦隊は愚劣な貴族の集まりとはいえ、帝都から横流しされた最新鋭の重魔導兵器を配備していました。至近距離からの徹甲弾の集中斉射や高圧電磁魚雷により、突出した中型の甲殻魔獣や潜水尖兵に、無視できない実被害が出ています。いかに魔王軍とて、無敵の機械仕掛けではありません」
ルシアンは二本目の指を立てる。
「第二に、潮流の統御――現場の後始末です。全幅300メートルの大水門を完全に両断したことで、外海の激浪が内水路へと制御不能な濁流となって雪崩れ込みました。あれを放置すれば、外海の水圧バランスが崩壊し、沿岸の漁場や潮流そのものが壊滅します。……あの男は、海棲魔獣の長たちに対し、破壊した水門の瓦礫を用いて潮流を逃がすバイパス水路の構築と、激流の安定化作業を命じていました」
「……破壊したのに、海を整えてるっていうの?」
アリアが呟く。ルシアンは冷ややかな目で頷いた。
「ええ。第三の理由は、あの男にとっての最優先事項――奪還した深層水晶管の処遇です。メガバンクの暗渠から回収したクラリス様の血は、百年の長きにわたり機械の檻に閉じ込められ、極度にマナが不安定化していました。あれを戦火の最前線に晒し続けるなど、あの男が許すはずがありません。直ちに自らの拠点へと最高度の防護結界を施して持ち帰り、厳重に安置するための時間を設けたと見るのが妥当です」
ルシアンは最後に、深くため息を吐き出しながら四本目の指を立てた。
「「そして第四の理由。……これが最も本質的です。あの黒衣の魔王の目的は、単純な大陸の武力征服などではないということです」
「征服じゃ、ない……?」
「ええ。領土拡張や殺戮を目的とする侵略者であれば、勢いに任せて次の都市へと雪崩れ込むでしょう。しかし、あの男の進軍は極めて規則的であり、工学的な工程表を淡々と消化しているように思えます。地盤を均し、障害物を撤去し、安全係数を確認してから次の工程へ移る。……まるで、愚直な土木作業員が引いた設計図通りに作業を進めているかのようです」
ルシアンの分析に、車内は静まり返った。車輪が規則的に継ぎ目を越える重厚な振動だけが、床下から伝わってくる。
「……土木作業員、か」
アリアは膝の上で拳を握りしめた。
あの冷徹な眼差し。
一切の躊躇なく水門を両断し、世界を更地へと変えながらも、奪い返した水晶管を抱く手だけは震えていた青年。彼にとって、世界を滅ぼすことは目的ではない。愛する少女の亡骸に海を見せるための、邪魔な障害物を平らに均す『作業』。
そのあまりにも歪で、純粋すぎる絶望の深さに、胸の奥が痛んだ。
「だからこそ、あたしたちが先回りしなきゃいけないんだね」
アリアが顔を上げると、ルシアンは静かに頷いた。
「その通りです。魔王軍が戦力を再編し、アレキシアへの侵攻を開始するまでに、数日から一週間の猶予が生まれました。……その隙に、僕たちは学府の中枢へ潜入し、ローゼンベルク家の闇帳簿に記されていた『クラリス様の血の兵器転用』の確証を押さえなければなりません」
「アレキシア……ルシアンの母校だったな」
リンが干し肉を飲み込み、身を乗り出してきた。いつもの荒っぽい口調ではあるが、その琥珀色の瞳には、どこか悪戯っぽい好奇心と、普段すましてばかりいる相棒の『素顔』を覗き見たいような、無自覚な熱が滲んでいる。
「どんな場所なんだよ、その象牙の塔ってのは。ヘパイストスみたいに煙臭くねえんだろうが……ルシアンみたいな頭でっかちが、山ほど机並べて勉強してんのか?」
ルシアンはリンの物言いにわずかに眉をひそめつつも、苦い笑みを口元に浮かべた。
「……山ほど机を並べているのは事実ですが、純粋な学問の徒ばかりではありませんよ。ヘパイストスが『鉄と煤煙の工場』だとすれば、アレキシアは『白亜の仮面を被った実験室』です」
青年の声から、ふっと熱が引いて冷え切った響きが宿る。
「世界最高峰の英知が集う帝国学術の頂点と謳われながら、その実態は門閥貴族の権力闘争と予算の分捕り合戦の場に過ぎません。純粋な真理の探究など名ばかりで、貴族に都合の良い兵器理論や、平民から搾取するための支配魔導ばかりが優遇される。……百年前、帝立アカデミーの異端児と呼ばれた天才魔導技師エレノア様が、なぜあの場所を捨てて出奔したのか。僕が首席としてあの象牙の塔にいたからこそ、その理由が痛いほどに分かります」
「エレノア様……」
フィリアが胸の前で手を組み、静かにその名を繰り返した。
「ええ。かつてヘパイストスの地下工房でもその名を見かけた、伝説の魔導技師です。エレノア様は、自らの工学と数理を、国家の殺戮兵器に使われることを拒絶した。そして、学府の腐敗した上層部に中指を立てて脱走したのです。……僕の母校は、百年前から何一つ変わっていません」
ルシアンは自らのローブの胸元――白亜の布地に留められた、青藍のサファイアブローチを強く握りしめた。
「あの欺瞞の塔が、クラリス様の奇跡をどのように冒涜し、兵器へと歪めてきたのか。……僕の知性のすべてを懸けて、暴き出してみせます」
青年の決意に満ちた言葉とともに、装甲馬車は緩やかな坂を登り切った。車窓の彼方、切り立つ台地の上に、白亜の巨塔群が林立する異様な都市の威容が姿を現した。上空には、何層もの幾何学レンズのような魔導防壁が展開され、陽光を乱反射させて虹色の光膜を空に広げている。
帝国最高学府――【大学術都市アレキシア】。
門前にはすでに、水の都崩壊の余波を受けた異様な厳戒態勢が敷かれ、鉄壁の防衛網が四人の行く手を塞ごうとしていた。




