第二十三話:『激流の解体線』第三節:幕間・コールド・ピエタ
荒れ狂う運河の濁流が渦を巻き、白大理石の宮殿群の残骸が水煙を吹き上げて崩落していく。
その破壊の震源地――
水深30メートルの暗渠を破断され、完全にその外殻を裂かれた【神水メガバンク】の崩壊地点。
裂けた耐圧装甲の亀裂から、外海の水圧に押し出されるようにして、青白い燐光を放つ一本の深層水晶管が、水面へとゆっくりと漂い上がってきた。
周囲を覆う泥水や油膜に一切汚されることなく、澄み切った蒼穹の光を放つそのガラス管。
その中には、百年前のあの夜に強奪され、百年の長きにわたり、この冷たい暗闇の底で機械に繋がれ、搾り取られ続けてきた少女の血が、静かに湛えられていた。
激流が渦巻く水面の上に、音もなく降り立つ漆黒の影があった。魔王レン。
青年は水の上に直接両足を下ろしていた。
激しく逆流する白波すら、彼の足裏に触れた瞬間に不可視の力場によって平らに均され、静まり返る。
背後には全長2.5メートルの『黒骸の断罪柱』が自律浮遊し、その内部に組み込まれた超高精度魔導リールが、極限まで引き絞られたドラグの摩擦音を高く響かせている。
胸元の『真紅の魔核』は、もはや痛烈な熱を発してはいなかった。
まるで、百年の彷徨の果てにようやく母の元へと帰り着いた幼子のように、柔らかく、温かな燐光を脈打たせている。
「……クレア」
レンの薄い唇から、掠れた声が零れた。青年は水面へ膝をつくようにして腰を落とした。
鋭利な黒金の鉤爪を備えた『禍刻の十指魔手甲』――
その手首の力を完全に抜き、爪をそっと内側へと収める。
大軍を瞬時に締め落とし、巨大な水門を紙のように両断したその両手。
いまその指先は、世界で最も壊れやすい極上の薄氷をすくい上げるかのように、微かに震えていた。
水面から漂い上がった水晶管へ、レンの両腕がそっと差し伸べられる。
抱き留めた指先に伝わってきたのは、ガラスの冷たさだけではなかった。
百年間、誰にも見つけてもらえずに泣き続けていた少女の、痛切な体温の記憶。
耳の奥で、百年前の沼沢地で途絶えたはずの、あの掠れた囁きが蘇る。
『……誕生日、おめでとう……レン……』
『海……一緒に行けなくて、ごめんなさい……』
「……謝るな」
レンは水晶管を自らの胸元へと強く、折れそうなほど強く抱き締めた。
漆黒の長髪が垂れ下がり、その白皙の額が冷たい水晶の表面へと静かに押し当てられる。
悲嘆に暮れて泣き叫ぶことはない。
大声を上げて天を呪うこともない。
青年の表情筋は、冷徹な死人の能面を保ったままだった。
だが――。
青年自身すら気づいていない。
感情を凍りつかせ、百年もの間ただの一度も動くことのなかったはずのその双眸から、熱い一筋の雫が零れ落ちていた。
白皙の頬を静かに伝い落ちた透明な一滴が、冷たい水晶管の表面へと落ち、淡い光の波紋を広げる。
胸元の『真紅の魔核』がカチリと音を立て、水晶管の中の青白い液体と美しく波長を同期させた。
管の中で眠っていた光が、レンの胸の熱に触れ、安らぐように小さく瞬く。
「……まだ、ここは海じゃない」
レンは静かに呟いた。
その声音には、絶望の澱みは欠片もなかった。
あるのは、百年前のあの川辺で交わした約束を果たすための、研ぎ澄まされた冷徹な意志。
「連れていく。……あいつらをすべて平らに均したら、必ず」
レンが右手を軽く払うと、背後の『黒骸の断罪柱』の外殻装甲が重厚にスライドし、内部の格納空間が開放された。
青年は自らの手で、水晶管をその深部へと安置した。
ダンカンの金砕棒で鍛え直された頑強な外殻が再び閉じ、エルの魔導リールがカチリとクリック音を立てて施錠される。
何者にも侵されぬ、仲間たちの遺産で包み込まれた鉄の揺籃。
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回収は、完了した。
レンがゆっくりと立ち上がった、その時だった。
数町先、氷結防波堤の頂点――瓦礫と水煙の晴れ間の向こうから、ひとつの視線が突き刺さっていた。
ガラから贈られた機能的な旅装を纏い、左腰に直剣を佩いた少女――アリア・フォン・アルシリア。
その後ろには、息を整えるリン、眼鏡を押し上げるルシアン、祈りを捧げ終えたフィリアの姿があった。
荒れ狂う運河の濁流を挟み、二人の視線が一瞬だけ、真っ直ぐに交錯した。アリアは息を呑んでいた。
手にした直剣アルビオンを通じて、そして全身を巡る蒼血の共鳴を通じて、遠く離れた黒衣の青年の姿を直視していた。
そこにいたのは、帝国軍が喧伝する「世界を滅ぼす邪悪な魔王」などではなかった。
ただ一人、愛しい者の残滓を抱き留め、世界中のすべてを敵に回してなお、その誓約を果たそうと歩みを止めない、あまりにも孤独で純粋な一人の男。
(……あの人は……)
アリアの菫色の双眸が震えた。
なぜ、あの男の背中が、胸が締め付けられるほどに哀しいのか。
なぜ、あの瞳の奥にある冷たい光が、泣き叫ぶ子供のように痛切に見えるのか。
レンは何も語らなかった。
アリアの顔を、そして彼女の首元に微かに覗く聖痕を一瞥しただけで、感情の起伏を一切見せることなく踵を返した。
青年の身体が重力を失い、ふわりと虚空へと浮上していく。
雲海を切り裂いて降下してきた冥淵飛竜ベルゼファルが、その巨大な漆黒の翼を広げてレンを頭頂へと迎え入れた。
『我が王、回収の完了、しかと見届けました』
海面から頭を覗かせた淵鱗族ナディアの敬虔な念話が届く。
レンは上空から、泥水に洗われて崩落していく豪奢な宮殿群を見下ろした。
水門は砕かれ、特権階級の搾取を支えていた神水の元栓は閉ざされた。
都の虚飾は濁流に呑まれ、生き延びた平民たちの上に、新たな水が流れ始めている。
「……作業を終える」
レンの冷徹な声が、夜風に散った。
「損傷した艦艇を回収し、一度全軍を後退させろ。……次は、アレキシアだ」
ベルゼファルが巨大な翼を一度羽ばたかせると、夜空の雲を切り裂き、魔王軍の大艦隊とともに東方の虚空へと消え去っていった。
それから数日間、アリアたちはヴェネツィア・アルシアに留まり続けた。
瓦礫と泥水に覆われた街で、四人は泥まみれになりながら奔走した。
フィリアは不眠不休で怪我人たちの治療にあたり、傷ついた人々を優しい光で包み込んだ。
リンは『ギア・フレーム』の剛力で崩落した巨岩や倒壊した柱を軽々と撤去し、下層民の孤児たちに笑顔で炊き出しの粥を配った。
ルシアンは寝る間を惜しんで泥だらけの測量図を広げ、運河の新たな排水路の設計と、平民主導の水利分配計画を組み上げた。
そしてアリアは、自らの手で瓦礫を運び、家を失った人々を励まし続けた。
水門が砕かれたことで、都には外海の清澄な潮がゆっくりと満ちていた。
門閥の圧政から解放され、互いに手を取り合って生活を再建し始めた平民たちの顔には、確かな希望の光が宿っていた。
街が最低限の平穏を取り戻したのを見届け、四人はようやく旅装を整えた。
運河を見下ろす高台で、ルシアンが懐から一枚の耐水魔導紙を取り出し、眼鏡を押し上げた。
水底メガバンクの金庫から回収した、門閥の命脈を断つ決定的な証拠――『血の闇帳簿』。
「……帳簿の暗号解析が完了しました」
ルシアンのソリッドな低音が、爽やかな朝風の中に響いた。
「ローゼンベルク家が横領していたクラリス様の血の供給ルート……そのすべての濾過技術と兵器転用の研究を請け負っていた中枢機関が存在します」
「……どこなの、ルシアン」
アリアが前を見据えたまま尋ねる。
ルシアンはわずかに眉を寄せ、自らの因縁を噛み締めるように答えた。
「帝国最高学府――【大学術都市アレキシア】。かつて天才魔導技師エルが在籍し、そして僕が卒業した、あの欺瞞の象牙の塔です」
リンが『ギア・ガントレット』の拳を打ち鳴らし、八重歯を光らせて笑った。
「へっ、次は眼鏡の古巣かい! 遠慮はいらねえな、まとめてぶっ飛ばしにいこうぜ!」
「まあまあ、リン様、ルシアン様の胃がまた痛んでしまいますよ」
フィリアがおっとりと微笑み、場の空気をふわりと和ませる。
アリアは左腰のアルビオンの柄を握り直し、東の空へと視線を向けた。
あの男――レンが向かった先。
そして、この世界のすべての嘘を解き明かすための、次なる戦場へ。
「行くよ、みんな! アレキシアへ!」
復興へと歩み出した水の都を背に、四人の足音は力強く、次なる因縁の大地へと踏み出していった。
(第二十三話 完 / 第二十四話へ続く)




