第二十三話:『激流の解体線』第一節:水門両断、激流の解体線
大運河の河口にそびえ立つ、ヴェネツィア・アルシア最大の防壁『青薔薇の大水門』。
全幅300メートル、海面からの高さ40メートルを誇るその巨大鋳鉄構造物は、外海からの荒波を遮断すると同時に、都の内水路の富と神水利権を閉じ込めるための巨大な鉄の檻でもあった。
水門の上部および運河の防潮堤には、ローゼンベルク家直属の内水路防衛艦隊――青銅の装甲板で全身を固めた重装甲巡洋戦艦30隻が扇形に陣を敷き、数百門の魔導重カノン砲の砲口を一斉に河口の海原へと向けていた。
けたたましい警戒鐘が都の全域に鳴り響く中、水上艦隊の総旗艦の甲板で、青いサーコートを纏った艦隊司令官がサーベルを抜き放ち、海上を指し示して絶叫した。
「全艦、魔導砲装填! 撃ち方始め! 外海の蛮族どもを、一匹残らず海底の藻屑に変えてやれッ!!」
轟音とともに、数百門の砲口から一斉に紅蓮の閃光が放たれた。
高圧の魔導火薬によって撃ち出された榴散徹甲弾の群れが、夜空を灼き尽くすような火の雨となって海面へと降り注ぐ。
漆黒の夜の海を山のように盛り上げて突き進むのは、魔大陸の六大部族が誇る異形の軍勢だった。
先頭を切って波を切り裂いたのは、潮殻族の長カルノスが率いる甲殻巨獣の突撃部隊。
体長20メートルを超える巨大な鋏角巨獣たちが、鋼鉄をも凌駕する超硬質のキチン質甲殻を盾にして水面を滑走する。直撃した魔導砲弾の大半は、火花を散らして硬殻の表面を滑るように弾かれ、黒煙を吹き上げる。
だが、ローゼンベルク家の精鋭艦隊もただの案山子ではなかった。
「敵の装甲角を見誤るな! 右舷三番、集中斉射――撃てェッ!!」
艦隊副司令の鋭い号令とともに、三隻の重装巡洋艦が至近距離から同時に魔導徹甲弾を撃ち込む。十字砲火を浴びた一頭の中型甲殻獣の眉間へ、超高熱の炸裂弾が直撃する。強固な甲殻が耐えきれずに砕け散り、内部の生体肉と青い体液を夜空へ撒き散らしながら、甲殻獣は断末魔の叫びとともに波間へと沈没していった。
さらに防潮堤から放たれた数条の高圧電磁魚雷が海中を疾走し、海面下を進む淵鱗族の大型海蛇型魔獣の胴体を直撃、強烈な電撃の檻がその巨体を痙攣させて水底へと縫い止める。
「手応えあり! 撃ち続けろ! 押し返せるぞ!」
人間側の兵士たちから歓声が上がった。
しかし、その防戦の勢いは、カルノス自らが駆る最大級の旗艦巨獣の突入によって瞬く間に粉砕された。
「小賢しい鉄の玩具を並べおって……! 我らが海を塞ぐ檻を、いつまでも残しておくと思うなァッ!!」
カルノスの咆哮とともに、巨大甲殻獣の両腕の巨大な鋏脚が海中から振り抜かれた。水煙を巻き上げて繰り出された一撃が、先ほど戦果を挙げた重装巡洋艦の喫水線下を真横から両断する。分厚い青銅装甲板が飴細工のようにへし折られ、艦の竜骨が根底から破断した。浸水した戦艦は甲板を大きく傾かせ、乗組員たちの悲鳴とともに渦巻く白波の中へと沈没していく。
同時に、海中深くからは淵鱗族ナディアの指揮のもと、漆黒の深海巨鯨や無数の潜水海獣たちが殺到していた。巨鯨の頭突きが船底を突き上げ、海獣の鋭利な牙が推進スクリューを噛み砕く。装甲艦同士が衝突し、火薬庫の誘爆による火柱が夜空を赤く染め上げていく。
水上の防衛ラインは、開戦からわずか数分で瓦解の危機に瀕していた。だが、ローゼンベルク家の私兵たちが真の絶望を目にしたのは、艦隊の激突によるものではなかった。
防潮堤の上空、高度数百メートルの虚空。漆黒の飛竜ベルゼファルの背から、一筋の影が音もなく離脱した。
黒煙と砲煙が渦巻く戦場の上空を、重力を無視するように滑空し、巨大な『青薔薇の大水門』の正面空間へと静かに滞空した青年――魔王レン。
風に靡く漆黒の外套の下、青年の背後には全長2.5メートルの『黒骸の断罪柱』が自律浮遊し、その第2層に組み込まれた超高精度魔導リールが、激しい摩擦熱の火花を散らして大気を切り裂くような高音の悲鳴を響かせ続けている。胸元の『真紅の魔核』が放つ血のような光芒が、レンの白皙の横顔を禍々しく照らし出していた。
「な、何だあいつは……!? 空中に浮いているぞ……!?」
「撃て! 奴を撃ち落とせェッ!!」
防潮堤の残存部隊が、レンに向けて一斉に高角対空魔導銃の引き金を引いた。数百の閃光が青年の身体を蜂の巣にすべく殺到する。だが、レンは視線すら向けなかった。
青年の冷徹な瞳が捉えていたのは、兵士たちでも戦艦でもない。
水門の基礎、厚さ数メートルの鋳鉄隔壁と、それを水底の岩盤へと固定している巨大な軸受リベット――構造の歪みと応力が最も極限まで集中している『物理の結節点』だけだった。
レンは左腕を水平に掲げた。鋭利な黒金の鉤爪を備えた『禍刻の十指魔手甲』。
その人差し指――【断】の爪先から、目視不可能な超高周波の極細魔導糸が、大気の摩擦すら起こさず水平に薙ぎ払われる。
【絶対切断】。
手首のわずかなスナップ。それは、荒波の中で大物のアタリを捕らえ、針を瞬時に掛けるアングラーの、あまりにも日常的で無駄のない動作。
瞬間。大気を引き裂くような高周波の摩擦音とともに、空間そのものが微かに歪んだ。水門の巨大な鋳鉄隔壁に、斜め45度の完全な切断線が走る。高さ40メートルの鉄塊が、自重と外海の猛烈な水圧に耐えきれず、まるで豆腐のように滑らかに二つに両断された。
両断された数千トンの鉄扉が、轟音とともに外海の水底へと滑落していく。遮るものを失った外海の巨浪が、堰き止められていた膨大な運動エネルギーを一気に解放した。巨大な津波となって、開かれた河口から大運河の内水路へと雪崩れ込んでいく。
「水門が……ッ!? 大水門が切断されたぞォォッ!!」
「逃げろ! 逆流が来る! 街が呑まれるぞ!!」
防衛兵たちの絶叫を呑み込みながら、逆流する大濁流は運河の両岸に立ち並ぶ白大理石の豪奢な貴族宮殿群へと容赦なく衝突した。百年もの間、下層民の血と汗を吸い上げ、水を独占して築き上げられた虚飾の都。その華やかな宮殿の土台が、激流の暴力によって基礎の杭ごと削り取られ、美しい彫刻の施された回廊やバルコニーが、将棋倒しのように次々と運河の濁流の中へと崩落していく。
そして、その激流の衝撃は、水面だけに留まらなかった。大水門が破壊されたことで、運河の内外を隔てていた水圧バランスが瞬時に崩壊。水深30メートルの水底に沈む【神水メガバンク】の分厚い耐圧外郭へ、外海からの超高圧の衝撃波が直撃した。鋼鉄の装甲板が限界を超えて裂け、水密要塞の天井が巨大な亀裂とともに破断する。
破断した要塞の裂け目から、青白い燐光を放つ無数の深層水晶管が、水圧に押し出されるようにして濁流の中へと溢れ出し始めた。
さらに、決壊した水門の濁流に乗って、魔王軍の後続――知性を持たず血の匂いに狂乱した、無数の棘皮巨魚や肉食海獣の群れが、水煙を巻き上げながら運河の内水路へと雪崩れ込んでいく。
都の欺瞞を粉砕する激流。崩れ落ちる宮殿と、逃げ惑う人々の悲鳴が交錯する中、水底の要塞から脱出した新世代カルテットの足元へ、未曾有の災厄の濁流が牙を剥いて迫っていた。
(第二節へ続く)




