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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第二十二話:『神水メガバンクの闇帳簿』第三節:幕間・レクイエム・ラクリモーサ

 大運河都市ヴェネツィア・アルシアの河口上空、高度1,000メートル。

 雲海を引き裂いて滞空していたのは、巨大な黒紫色の影――全長50メートルを超える飛竜、冥淵飛竜ベルゼファル。

 その強靭な頭頂の黒鱗の上に、漆黒の外套を夜風にはためかせ、二代目魔王レンは直立していた。

 腰の右側には、禍々しい装飾の中で唯一異彩を放つ、擦り切れた古びた革ポーチ。

 その中には、百年前の川辺でクラリスが笑顔で「瞳」を描いてくれた、小さな木製ルアーが静かに眠っている。

 背後には、全長2.5メートルを超える漆黒の重金属柱――『黒骸の断罪柱』が、大気中の重力を歪めながら自律浮遊していた。

 だが、その断罪柱の様子は、ヘパイストスの更地化作業の時とは根本から異なっていた。

 表面の漆黒の装甲板の隙間から、まるで血管のように張り巡らされた真紅の燐光ラインが、激しく、不規則に明滅を繰り返している。

 そして――。

 断罪柱の内部、第2層に組み込まれた、天才魔導技師エルの生涯の最高傑作――【超高精度魔導リール】が、許容限界を超えた回転数で逆回転を始めていた。

 エルの卓越した技術によって、本来であればどんな巨大魚の暴力的な引きをも完璧にいなすはずの、精巧無比なドラグ機構。

 その金属ドラグワッシャーが激しい摩擦熱によって火花を散らし、大気を切り裂くような高音の悲鳴を夜空へと放ち続けている。

 抑えきれない。制御できない。レンの意志すら飛び越えて、ドラグは悲痛な叫びを上げ続けていた。

「……疼くのか、エル」

 レンの呟きは、暴風の中に溶けて消えた。

 青年は左手を胸元へと当てた。

 黒金に歪んだ『禍刻の十指魔手甲』の隙間、黒衣の胸部の中央に埋め込まれた『真紅の魔核』が、火傷を負わせるほどの熱量を放ち、激しく脈打っていた。

 それは悪意による脈動ではない。

 百年前、レンの胸の中で命を燃やし尽くした少女が遺した、あまりにも純粋な愛と奇跡の結晶。

 その魔核が、水深30メートルの暗黒の底から発せられる「極めて微弱な波長」を、狂おしいほどの精度で捉えていた。

 間違えるはずがなかった。

 たとえ泥水で何万倍に薄められようと、防腐薬品で汚されようと、どれほど頑丈な水密要塞の奥深くに隠されようと。

 かつてその手を握りしめ、共に生きようと誓い、最後はその冷たい亡骸を抱きしめて泣いた――あの少女の血の匂い。

「……あんな場所に、閉じ込められていたのか」

 レンの薄い唇から、微かな吐息が漏れた。その横顔には、ヘパイストスで見せていた「感情を完全に失った死人の能面」の影はなかった。

 眉間には深い皺が刻まれ、奥歯をギリリと噛み締め、冷徹な漆黒の双眸の奥底には、百年間凍りついていた情念が、地獄の業火となって燃え盛っていた。

 あの夜、帝国はクラリスを奪った。

 世界を救うための生贄だと騙り、その命を消費し、最後は使い潰して捨てた。

 レンはそう信じていた。

 だが――現実は、それよりも遥かに醜悪だった。

 捨てたのではない。

 あいつらは、あの少女の苦痛を、流した涙を、命そのものである血を、冷たい水晶管に詰め込んで地下金庫にしまい込んでいたのだ。

 己の醜い肉体を若返らせ、不老不死の快楽を貪り続けるための「資産」として。

『痛い……苦しいよ……。お願い、誰か……助けて……』

 耳の奥で、百年前のあの夜に途絶えたはずの、クラリスの泣き叫ぶ声が木霊した。

「……あんな暗い底に」

 レンの左腕が、微かに震えた。黒金の爪が、自らの胸元の装甲を軋ませるほど強く食い込む。

「あんな冷たい暗闇の底に、一秒たりとも……置いておくものか」

 ドラグの悲鳴が、最高潮に達した。

 大気が震え、夜空の雲が真紅の魔力光によって赤黒く染まり上がっていく。

 レンは静かに息を整えると、左腕を顔の前へと持ち上げた。

 黒金に鋭く尖った人差し指と中指を揃え、己の眉間の中心へと静かに押し当てる。

挿絵(By みてみん)

 思考波の超指向性魔導同調――深層念話。

『……ナディア。カルノス』

 青年の冷徹な意志が、不可視の魔導パルスとなって高度1,000メートルの虚空を突き抜け、直下の漆黒の海面へと撃ち込まれた。

 呼応は、一瞬だった。

 大運河の河口、夜の海面が突如として山のように大きく盛り上がった。

 水深数百メートルの暗渠を押し広げ、無数の巨躯が猛烈な水煙を吹き上げながら海面を割って浮上してくる。

 現れたのは、数百隻に及ぶ漆黒の生体装甲艦隊。

 そして、その周囲を取り囲むように群れを成すのは、鋼鉄をも容易に噛み砕く巨大な鋏脚を備えた甲殻巨獣の群れと、漆黒の巨躯をうねらせる深海巨鯨や海蛇型の水棲巨大魔獣たちだった。

 先頭に立つのは、甲殻巨獣の背に仁王立ちする潮殻族の長カルノス。

 そして、エメラルドに光る鱗を月光に反射させ、海棲魔獣の頭頂に座す淵鱗族の長ナディア。

 海面のマナ粒子を伝い、ナディアの透き通るような敬虔な念話が、レンの脳裏へと直接響き渡った。

『全艦隊、突入準備完了にございます、我が王!』

 眼下に見えるのは、白大理石の宮殿群が立ち並ぶ、豪奢なる水の都ヴェネツィア・アルシア。

 都市の外縁部からは、侵入者を察知したローゼンベルク家の迎撃警報が鳴り響き、数百門の魔導重カノン砲を備えた重装甲水上戦艦の艦隊が、防衛ラインを敷くべく運河を埋め尽くし始めていた。

 レンは見下ろした。

 金と嘘で塗り固められた、眩いばかりの欺瞞の都を。

「……解体する」

 眉間から指を下ろしたレンの声は、静かだった。

 だがそれは、世界の理を根底から覆す、終末の宣告だった。

「水門を破砕し、あの都の偽りをすべて水底へ沈めろ。……あいつを縛る檻を、この手で叩き割る」

 レンの右手が、背後で唸りを上げる断罪柱のグリップへと伸ばされた。

 真紅の魔核が放つ光芒が、漆黒の重金属柱を呑み込み、夜空に巨大な十字架のような光の裂け目を刻みつける。

 涙の日。

 百年間泣き続けた聖女の哀哭に捧げる、終末のレクイエムが、いま幕を開ける。

(第二十二話 完 / 第二十三話『激流の解体線』へ続く)


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