第二十一話:『水上迷宮ヴェネツィア・アルシア』 第三節:水門の徴税と、下層暗渠の乾き
ゴンドラが近づくにつれ、その巨大な構造物が落とす黒々とした影が、水面のエメラルドグリーンを塗り潰していった。大運河の中央を堰き止めるようにそびえ立つ、高さ15メートルを超える重装甲水門――『青薔薇の大水門』。
分厚い鋳鉄の隔壁には、【水の門閥】ローゼンベルク家の家紋である『青い薔薇と天秤』の意匠が誇らしげに刻み込まれている。水門の上部に設けられた監視所には、真鍮の胸当てと青いサーコートを纏った私兵部隊がずらりと並び、水上を行き交う船へ向けて鋭い視線を配っていた。
「……あそこが、街の境界線です」
ルシアンが小声で告げる。水門の直前、大運河は鉄格子のバリケードによって二本の航路に分けられていた。右側の幅広の航路は、貴族や富裕層の大型装甲船のための専用レーン。
豪奢な彫刻が施された船が近づくと、水門の歯車が滑らかに回転し、兵士たちは恭しく敬礼を捧げて無検査で水門を開放する。一方、左側に設けられた狭い航路の前には、粗末な木造の小舟や艀が、何十隻も身動きが取れずに押し込められていた。
「おい、待て! 今日の通行税は銀貨二枚だ!」
監視口の徴税役人が、棒の先についた料金籠を突き出しながら、野菜を満載した小舟の農民へ横柄に怒鳴りつけた。
「ぎ、銀貨二枚ですって!? 昨日は大銅貨五枚だったじゃねえか! そんな大金払ったら、街に野菜を売りに行っても丸ごと大赤字になっちまう!」
「嫌なら引き返せ! 貴様ら下層民の薄汚い泥舟が、大公閣下の清らかな運河を汚す権利を買うための『環境浄化負担金』だ! 払えない貧民に、この門を潜る資格などない!」
役人は冷酷に吐き捨てると、手にした長い鉄鉤付きの突棒で小舟の舳先を乱暴に突き飛ばした。小舟は大きく揺れ、積み上げられていた泥つきの根菜が何十個も濁った水面へと転がり落ちていく。
悲鳴を上げる農民をあざ笑うように、私兵たちは甲高い哄笑を響かせていた。
「……っ、あの野郎……!」
ゴンドラの席で、リンの琥珀色の瞳が怒りの炎を宿して鋭く吊り上がった。額に青筋を浮かべ、眉間を激しく寄せて八重歯をギリリと噛み締める。両拳に込められた力で、新調された『緋金剛の連環打撃具』の内側の遊星歯車が、チチチ……と不穏な摩擦音を立てた。いまにも跳躍して役人の傲慢な面首を叩き割らんと身を乗り出すリンの肩を、ルシアンが力強く掴んで引き戻した。
「堪えなさい、リン……!」
制止したルシアンの表情もまた、いつもの氷のように冷静なものではなかった。眼鏡の奥のネイビーブルーの瞳を険しく細め、苦虫を噛み潰したように苦渋と憤りの色をその引き結んだ唇に滲ませている。自らも帝立アカデミーで門閥貴族たちの理不尽な特権支配に踏みにじられてきた過去を持つ青年だからこそ、その理不尽に対する怒りは誰よりも深かった。
だが、青年はギリと奥歯を鳴らし、自らの理性を鋼の意志で繋ぎ止めていた。
「ここで騒ぎを起こせば、街の警備網全体に警戒態勢を敷かれます。……船頭さん、手前の連絡水路で結構です。ここで降ろしてください」
「へ、へい……! 旅人さんたち、巻き込まれねえうちに早く行きな……!」
役人たちの横暴に怯えていた舟頭は、慌てて櫂を漕ぎ、水門の手前にある目立たない石造りの荷揚げ場へとゴンドラを寄せた。
銀貨を払い、陸へと上がったカルテットは、人目を避けるように路地裏の狭い通路へと足を踏み入れた。
水門の脇に口を開けていたのは、白大理石の華やかな表通りとは似ても似つかない、薄暗くジメジメとした『下層泥水路』。
宮殿の壮麗なテラスが頭上を覆い隠し、陽光の届かない路地には、濃密な湿気とカビの臭いが立ち込めている。足元の石畳は黒いヘドロでぬかるみ、建物の排水管からは、油膜の浮いた濁った廃水が絶え間なく足元の細い暗渠へと垂れ流されていた。表通りで眩いエメラルドグリーンを湛えていた清流は見る影もなく、腐敗したドブ川の悪臭が鼻を突く。
そして、その暗渠沿いに広がるトタンと木板のバラック街を目にした瞬間、アリアの足がピタリと止まった。
「……っ、これ……が……」
アリアは息を呑み、大きく見開かれた菫色の瞳から急速に光を失っていった。
さっきまで白大理石の美しさに目を輝かせていた少女の顔から血の気がサーッと引き、信じられないものを見るように小刻みに唇を震わせる。
「これが、さっきの綺麗な街の……裏側なの……?」
路地の壁際に、力なく座り込む無数の人々。
ヘパイストスの工員たちのように全身が煤けているのではない。
ここの人々は、肌が土気色に干からび、唇は白くひび割れ、虚ろな眼窩の奥に絶望を宿していた。
何十人、何百人もの人々が、粗末な素焼きの水瓶や錆びた鍋を抱え、路地の奥へと続く長蛇の列を作っている。その列の先にあるのは、ローゼンベルク家の私設給水所。鉄格子の窓口の向こうで、役人が高圧的な態度で天秤に金貨を載せ、引き換えに濁った水のごく小さな一杯を配給していた。
「……渇いているんだ」
リンが掠れた声で呟いた。街全体がこれほど膨大な水に包まれているというのに、人々の喉は極限まで干からびていた。
「ルシアン様……なぜ、これほどまでに豊かな水上都市で、人々がこのような苦しみを……?」
フィリアが胸元で聖杖を抱きしめ、悲痛な面持ちで問いかける。ルシアンはカシャリと眼鏡を押し上げ、冷え切った声で街の構造的欺瞞を解き明かした。
「先ほども申し上げた通り、この街を流れる運河の水は、高濃度の神樹汚染排液と重金属が溶け込んだ『死んだ水』です。表層だけを薬品で脱色して透き通らせているため、下層民が喉の渇きに耐えかねて運河の水を口にすれば、内臓を激しく破壊され、数日のうちに命を落とします」
ルシアンは視線を路地の奥の給水所へと向けた。
「ローゼンベルク家は、上流から引いた安全な真水の水利権を完全に独占しています。そして、宮殿や高級ホテルに真水を湯水のように供給する一方で、下層民に対しては『神聖なる浄化神水』と称し、ただの希釈水を法外な値段で売りつけているのです」
「水一杯飲むのに、金を毟り取ってんのか……!? 水なんて、誰のものでもねえ自然の恵みだろうが!」
リンが怒りに八重歯を剥き出しにし、壁のレンガを殴りつけそうになる。
「ええ。ですが、この都市において水は自然の恵みではなく、ローゼンベルク家が独占する『最大の金融商品』です。金を払える貴族には無限の潤いを、払えない平民には死に至る渇きを与える。……それが、この白大理石の迷宮の真実です」
ルシアンの非情な数理の解説に、アリアは震える手で左腰の『蒼水直剣アルビオン』の鞘を握りしめた。ヘパイストスのブラント家が人命を兵器の材料として使い潰していたように、この街の支配者は、人間の生きるための最も基本的な権利――喉を潤すことすらも、私利私欲の道具として搾取していた。
その時だった。長蛇の列の片隅、湿った石畳の上から、女性の悲痛な叫び声が響き渡った。
「誰か……! 誰か、この子を助けて……! お願い、誰かお医者様を……!」
(第四節へ続く)




