第二十一話:『水上迷宮ヴェネツィア・アルシア』 第四節:濁った神水と、聖女の戦慄
叫び声の上がった路地の隅へ、フィリアがためらうことなく駆け出していた。
湿った薄暗い石畳の上、粗末な布切れの上に横たわっていたのは、五歳にも満たない幼い少年だった。土気色の顔には脂汗がびっしりと浮かび、浅く苦しげな呼吸を繰り返している。少年の小さな手足を激しい痙攣が襲うたび、傍らで膝をつく母親が、狂乱の涙を流しながらその胸元を抱きしめていた。
「誰か……! お願いです、誰か……! この子が、もう三日も高熱で……!」
「私が診ます! 落ち着いてください!」
フィリアは躊躇うことなく地面に跪くと、両手で抱えていた聖杖を立て、少年の額へと優しく手をかざした。エメラルドの瞳を痛ましげに細め、すぐさま柔らかな治癒のマナを紡ぎ始める。
その瞬間、給水所の列に並んでいた周囲の人々の間に、驚愕のざわめきが波紋のように広がった。
「な……んだ、あのお嬢ちゃんは……?」
「金も取らずに……あんな純度の高い治癒魔法を……?」
「嘘だろ……。教会の神官だって、金貨を積まなきゃ手もかざしちゃくれねえのに……」
水一杯にすら法外な金が毟り取られるこの街で、見ず知らずの貧民の子に無償で奇跡を行使する存在など、彼らにとっては信じがたい光景だった。
人々が息を呑んで見守る中、フィリアは少年の乱れた呼吸を整えるため、全身全霊で聖域の光を注ぎ込み続ける。
「フィリア、その子の状態は……!?」
駆け寄ったアリアが腰を落として尋ねると、フィリアは額に汗を浮かべ、険しい表情で息を詰まらせた。
「全身の粘膜と内臓組織が激しく炎症を起こしています……! 深刻な脱水症状と、何かの毒素を急激に摂取したことによる急性拒絶反応です……!」
「毒素ですって……!? そんな馬鹿な、この子に毒なんて飲ませてないわ!」
母親が激しく首を振り、縋るように胸元から小さなガラス瓶を差し出した。
厳重に蝋で封をされた、手のひら大の細身の小瓶。表層には、金箔で描かれた青い薔薇と天秤の紋章が刻まれている。
「これよ! 給水所の特級窓口で、うちの家財道具も結婚指輪も全部売り払って……金貨三枚で買った『希釈特級神水』なのよ! ローゼンベルク家の役人は、これを飲ませればどんな病気も奇跡のように治るって……!」
「……金貨三枚……!?」
背後に立ったリンが、信じられないというように息を呑んだ。下層民の平民にとって、金貨三枚は数ヶ月分の生活費を丸ごと注ぎ込むに等しい大金だ。
「……その小瓶を、僕に渡しなさい」
ルシアンが歩み寄り、母親の手からガラス瓶を受け取った。指先で蝋の封を素早く剥ぎ取り、コルク栓を抜く。漂い出たのは、表通りの運河と同じ、鼻をつく甘ったるい防腐剤の刺激臭。
ルシアンは中指で眼鏡のブリッジをカシャリと押し上げ、右目のレンズに魔導照準器の多重サークルを展開した。左手を瓶の口にかざし、極微小な魔導パルスを液中へと流し込む。空中に幾何学的な数理式と成分スペクトルが光速で展開され、青年のネイビーブルーの瞳が、侮蔑と怒りに冷たく凍りついていった。
「……酷い欺瞞ですね」
吐き捨てるようなルシアンの言葉に、アリアが身を乗り出す。
「ルシアン、何が分かったの……!?」
「表向きの微かな青白い光は、低級な蓄光鉱石の粉末を溶かして発光させているだけの偽装です。……中身の99%は、神樹の猛毒排液を運河の泥水で雑に薄めたもの。そこに強力な神経麻痺薬と防腐剤を混ぜ込み、一時的に苦痛を感じなくさせているだけの……ただの『遅効性の毒水』ですよ、これは」
「な……っ!?」
母親が目を見張り、絶望の叫びを呑み込んだ。
「病気が治ったように見えるのは、麻痺薬で感覚が麻痺している間に、患者自身の体力が尽きるまでの猶予に過ぎません。……金を払わせて毒を飲ませ、死期を早めている。ローゼンベルク家は、下層民の命を文字通り汚水と引き換えに買い取っているのです」
ルシアンの冷徹な解析結果を聞いた瞬間、少年の胸元に手を当てていたフィリアの全身を、かつてないほどの激しい戦慄が貫いた。
正当なる聖女としての資質を持ち、かつて二代目生贄候補として選ばれたフィリアの研ぎ澄まされた生体回路。
その魂が、少年の体内に残留していたごく微小な『特級神水の原液』と触れ合った瞬間、液体の奥底に濃縮されていた百年前の記憶の残滓が、濁流となってフィリアの意識へと直接なだれ込んできたのだ。
視界が真っ白に染まる。
フィリアの脳裏に強制的に結像したのは、冷たい拘束台の上で手足を縛られ、全身の血管に何本もの太い硝子管を突き刺された、見知らぬ白銀の少女の姿。
神樹の猛毒を小さな肉体ひとつで引き受けさせられ、内臓を灼かれ、血を吐きながらも死ぬことすら許されず、ただ奇跡の雫を濾過し続けるための生体パーツとして使い潰されていく。
『痛い……苦しいよ……。お願い、誰か……助けて……』
泣き叫ぶ少女の消え入りそうな祈り。
その命を削り、激痛の果てに搾り取られた血と奇跡の結晶こそが、この街で取引されている『特級神水』の正体だった。
そして――いま、フィリアの腕の下で必死に呼吸を繋ぎ止めようとしているのは、冷たい石畳の上で、ただ必死に母の手を握りしめている無力な幼子。
高熱にうなされ、苦しげに眉を寄せる少年の小さな胸の鼓動。
母親が全財産を投げ打って求めたのは、我が子の命を救いたいという、純粋で無垢な親の愛だった。
それなのに。
あんなにも泣き叫んで命をすり潰された少女の血を、彼らは金儲けの道具へと貶めた。
そればかりか、泥水で薄め、毒を混ぜ、すがる思いで金を差し出した親の愛を嘲笑うように、この幼い命に毒として飲ませていたのだ。
過去の聖女への冒涜。そして、いま目の前で必死に生きようとする幼子を踏みにじる、あまりにも冷酷で醜悪な拝金支配。
「……っ……許せ、ない……」
フィリアの双眸から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
だが、その涙を拭う少女の顔に宿っていたのは、普段の柔らかな微笑みでも、弱々しい怯えでもなかった。悪を絶対に許さないという、烈火のごとき聖なる怒り。
いつも穏やかで誰に対しても優しいフィリアが、唇を血がにじむほど強く噛み締め、怒りに肩を震わせている。その異様な気迫に、隣にいたアリアとリンすらも息を呑んだ。
「人の命を……っ! あの人が、あんなにも泣き叫んで遺した祈りの残滓を……っ! そして、この子が必死に生きようとする命を……!!」
フィリアは聖杖を両手で力強く握りしめ、石畳へと激しく突き立てた。少女の華奢な全身から、怒りと慈愛が融合した、眩いばかりのエメラルドの聖域マナが奔流となって噴き上がる。
「こんな汚らわしい、偽りの毒で奪わせるものですか……ッ!!」
天を突く光の柱。
「主よ、偽りの毒を祓い、清らかなる命の息吹を――『無垢なる聖域・解毒の祈祷』!」
聖杖の宝珠から解き放たれた温かな光の波動が、少年の全身を優しく包み込んだ。
少年の口から、黒く濁った毒液が吐き出される。
フィリアの無償の祈りが内臓の炎症を瞬時に鎮め、少年の荒い呼吸は、見る見るうちに穏やかな寝息へと変わっていった。
「あ……あっ……! 息が、穏やかに……! 熱が下がっていくわ……!」
母親が少年の手を握りしめ、ボロボロと感謝の涙を流した。周囲の見守っていた人々からも、感嘆と安堵の溜息が漏れる。
だが、その奇跡の光景を切り裂くように、乱暴な金属鎧の擦れる足音が路地の角から響き渡った。
「おい貴様ら! そこで何をごそごそとやっている!」
姿を現したのは、真鍮の胸当てに青いサーコートを羽織った、ローゼンベルク家の私兵徴税部隊の四人だった。腰のサーベルに手をかけ、高圧的な足取りで母子とカルテットを取り囲む。隊長格の男が、少年の枕元に転がっていた空き瓶を一瞥し、下卑た笑みを浮かべてサーベルを抜き放った。
「ほう……? 給水所の許可印もない不審者が、無許可で路上医療を行っているな? しかも、大公閣下が下層民へ慈悲として下賜された特級神水を勝手に廃棄したな」
「慈悲ですって……!? 貴方たちが売っているのは、ただの泥水と毒薬じゃない!」
アリアが立ち上がり、フードの奥から菫色の瞳に強い怒りを宿して一歩前に出た。
だが、その白銀の髪と凛とした顔立ちが露わになった瞬間、私兵隊長の眉がピクリと跳ねた。
続けて、跪くフィリアの胸元の聖衣、そしてルシアンの仕立ての良いアカデミーの法衣へと視線を走らせた瞬間、隊長の顔色が急速に強張った。
「……待て。その白銀の髪に、菫色の瞳……それに、典礼院の聖衣だと……? まさか、帝都から手配が回っている第七皇女……いや、典礼院の脱走生贄……!?」
四大門閥の治安部隊には、教皇庁から極秘の重要指名手配が下達されていた。男の頭の中で、目の前の少女たちの姿と、極秘手配書の似姿が一瞬にして結びつく。隊長は青ざめ、慌てて腰の警笛へと手を伸ばした。
「総員、抜刀! 侵入者だ! 本部へ警報を――」
笛に息を吹き込もうとした、その刹那だった。
「――喋らせるかよッ!」
低く鋭い少女の怒号とともに、風が弾けた。
私兵たちの視界から、黒と橙の軽装道着を纏った影が一瞬にして掻き消える。
隊長の鼻先に肉薄したのは、八重歯を剥き出しにしたリンだった。
新調された『緋金剛の連環打撃具』を構えた少女の右掌が、吸い付くように隊長の顎下へと滑り込む。ゼロ距離からの無反動打撃――『浸透勁』。手甲の内部に組み込まれた多重遊星歯車が超高速回転を奏で、背面の排気スリットから白い余剰蒸気が吹き抜けた。衝撃は頭蓋の骨を傷つけることなく、直接脳幹へと浸透した。隊長は警笛をくわえたまま白目を剥き、声すら上げられずに真後ろへと吹き飛んで昏倒した。
「た、隊長!? てめえら、何者――」
残る三人の私兵が狼狽えてサーベルを振り上げたが、アリアはすでに動いていた。抜刀は、一瞬。
左腰の『蒼水直剣アルビオン』を、鞘走りの音すら立てずに抜き放つ。
刃を反転させ、白銀の刀身の峰を滑らせるように、踏み込んできた私兵ふたりの剣撃の軌道を絶妙な角度で受け流す。
同時に、アリアの蒼血が呼応した。
二人の兵士が乗せていた強烈な踏み込みの運動エネルギーに直剣の峰が触れた瞬間、アリアの相殺能力が作用し、兵士たちの突進の推進力がゼロへと凍結させられた。
勢いを失って前のめりにつんのめった私兵の鳩尾へ、アリアの鋭い峰打ちと足払いが完璧な連続動作で叩き込まれる。
ドガッと鈍い衝撃音を残し、二人の私兵が石畳の上へと転がった。最後の一人が恐怖に顔を引きつらせて後退りしたところへ、背後から回り込んだリンの強烈な回し蹴りが側頭部を捉え、石壁へと叩き伏せて沈黙させた。
わずか数秒の電光石火の制圧。警笛を鳴らされることもなく、路地には再び静寂が戻っていた。石畳の上に転がる私兵たちを見下ろし、リンは手甲のギアをカチリと鳴らしてフッと息を吐いた。
「へっ、間一髪だったな。顔を見られた以上、ぐずぐずしてられねえぞ」
「まったくです。巡回部隊の定時報告が途絶えれば、遅くとも一刻のうちに追手がかかりますよ」
ルシアンが油断なく周囲の暗渠へ視線を走らせながら即座に応じる。
「お母さん、この子を連れて、すぐに安全な場所へ身を隠してください」
アリアが母親の手を取り、財布から数枚の銀貨を握らせると、母親は何度も頭を下げながら、少年を抱きかかえて路地の闇へと逃げ去っていった。周囲の平民たちも、私兵が倒された騒ぎに息を呑みつつ、カルテットへ畏敬と感謝の眼差しを向けながら足早に散り散りに姿を消していく。
静寂を取り戻した下層泥水路。
ルシアンが昏倒した隊長の腰から奪い取った、青い宝石の埋め込まれた真鍮の鍵束を弄びながら、冷徹に眼鏡を押し上げた。
「……これで、状況証拠は完全に揃いました。そして、僕たちの存在も早晩、街の警備網に察知されます。一刻の猶予もありません」
ルシアンは手帳の地図を開き、運河の最も深き水底の一角を指し示した。
「この街のすべての水利権と、門閥貴族たちが買い漁る本物の『特級神水』……そして、百年間にわたる搾取の記録が保管されている心臓部があります」
「心臓部……?」
アリアが問いかけると、ルシアンのネイビーブルーの瞳が鋭く閃いた。
「大運河の中央、水深三十メートルの水底に沈められた難攻不落の水密要塞――ローゼンベルク家の地下大金庫、【神水メガバンク】です」
ルシアンは手にした認証キーを掲げ、不敵に告げた。
「あそこの闇帳簿を暴き立て、神水の独占水門を開放しない限り、この街の渇きは終わりません。……潜入しましょう、アリア殿下」
フィリアが聖杖を強く握り締め、アリアとリンが力強く頷く。白大理石の宮殿が浮かぶ華やかな水上迷宮。
その底深くに眠る、百年越しの血の欺瞞を暴くための潜入戦が、いま始まろうとしていた。
(第二十一話 完 / 第二十二話へ続く)




