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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第二十一話:『水上迷宮ヴェネツィア・アルシア』 第二節:白大理石の都と、碧き大運河

 朝霧を切り裂いて進む幌馬車の車輪が、白く滑らかな舗装路を軋ませた。

 高架水路橋を潜り抜けた先、カルテットの眼前に広がったのは、視界を埋め尽くすほどの眩い白と碧のパノラマだった。

 内陸の荒野やヘパイストスの黒煙のカルデラとは完全に隔絶された、水上の巨大要塞にして美の極致。【水の門閥】ローゼンベルク家が統治する、帝国屈指の大運河都市――『ヴェネツィア・アルシア』。

「……すごい……! 街全部が、水の上に浮かんでるみたい……!」

 馬車の御者台から身を乗り出し、アリアは菫色の瞳を輝かせた。

 視界の限り、白大理石で組み上げられた壮麗な宮殿群が整然と立ち並び、朝日を浴びて神殿のように白く輝いている。建物と建物の間を縫うように、網の目状に張り巡らされた無数の運河。陸路としての道路はほとんど存在せず、行き交う人々は皆、優雅な装飾が施された大小の船に乗って水面を滑るように移動していた。

「ここから先は陸路の馬車は使えません。乗合の船着き場で小舟に乗り換えます」

 ルシアンの指示で、一行は外縁部の船着き場へと馬車を寄せた。馬車を預かり所に預け、石造りの船着き場の階段を降りていくと、漆黒の木肌に真鍮の飾りを施した細長い小舟――ゴンドラを器用に操る、麦わら帽子の初老の舟頭が手招きをした。

「おやおや、東の峠を越えてきた旅人さんかい? ヴェネツィア・アルシアへようこそ! どこまで行くだい? 貴族街の回廊か、中央市場の大回廊かい?」

「中央大運河――グラン・カナルを抜けて、商業区の宿営広場まで頼みます」

 ルシアンが銀貨を一枚弾いて手渡すと、舟頭は白い歯を見せて器用に櫂を操り、四人を滑り込ませた。

 水面すれすれを進むゴンドラの心地よい揺れ。

 川風が運んでくる水飛沫を浴びながら、リンは物珍しそうに運河の左右を見上げた。新調された『緋金剛の連環打撃具』を膝の上に乗せ、八重歯を覗かせて笑う。

「へえ、石造りの橋の下を舟で潜り抜けるなんて、スラムじゃ考えられねえ贅沢だな。……おいアリア、見ろよ。建物のテラスから直接水に階段が伸びてやがるぞ!」

「本当ね! あの宮殿の柱、水底まで大理石でできているかしら……!」

 アリアとリンが少女のように顔を寄せて歓声を上げ、フィリアも聖杖を抱きながら、水路の石壁に飾られた色鮮やかな青い薔薇の鉢植えに目を細めていた。中央の大運河へと漕ぎ出すにつれ、水上の賑わいは一層の華やかさを増していく。金糸のカーテンを揺らし、弦楽器の音色を響かせる貴族たちの大型装甲遊覧船。色とりどりの果物や高価な絹織物を山積みにした商船が、整然とした水上交通のルールに従って行き交う。すべてが豊かで、潤いに満ち、帝国の繁栄を象徴する光に溢れていた。

 ――だが。

 アリアはふと、ゴンドラの縁から水面へと視線を落とした。

 手袋を外し、そっと白く細い指先を、エメラルドグリーンに澄み渡る運河の水へと滑り込ませる。

(……え……?)

 指先が水に触れた刹那、アリアの全身の毛細血管を巡る「蒼血」が、チクリと冷たい針で刺されたように微かに粟立った。

 見た目は底の石畳まで見通せるほど透明で、美しい碧色を湛えている。

 だが、神樹の原初水マナと同期する少女の体液感覚は、その水流の深部に潜む、拭いようのない「異物感」を瞬時に捉えていた。

 重い。自然の川水や湖水のような、生き生きとした生命の流動がない。魚の影も、揺らめく水草の息吹すらも存在しない。薬品で無理やり濁りを沈殿させ、表面の光沢だけを取り繕ったような、死んだ水の冷たさ。そして、水面を撫でる風の奥に、芳醇な花の香りを突き抜けて、鼻腔の奥にへばりつくような防腐剤の甘ったるい刺激臭が微かに漂っていた。

「……アリア殿下、何かに気付きましたか」

 正面に座るルシアンが、指先をわずかに動かしてゴンドラの内側に極小の指向性防音結界を張り巡らせると、中指で眼鏡のブリッジをカシャリと押し上げて小声で問いかけてきた。

 アリアは濡れた指先を引き上げ、眉をひそめて小さく頷いた。

「うん……。このお水、見た目はすごく綺麗なのに……なんだか、息をしていないみたい。それに、微かに変な薬品の匂いがするわ」

「さすがですね。原初水と同期する貴女の感覚器官を欺くことはできないようです」

 ルシアンは視線を落とし、手元の手帳の裏表紙に描かれた運河の水理構造図へと視線を走らせた。

「この美しいエメラルドグリーンの水面は、すべて人工の欺瞞です。……この街を潤す大運河の水源は、上流にある神樹の地下水脈。ですが、その原水は百年間にわたる帝国の過剰搾取によって、高濃度の重金属と神樹の汚染排液で完全に死に絶えています」

「えっ……? じゃあ、なんでこんなに澄んでいるの?」

 アリアが驚きに菫色の瞳を見開くと、隣に座っていたリンも怪訝そうに眉を寄せ、身を乗り出した。

「おいおい、冗談だろ? 底の敷石まで透けて見えるぜ。こんなに透き通ってんのに、毒水だってのかよ?」

 ルシアンは冷徹な眼差しで、豪奢な白大理石の宮殿群の基礎を見据えた。

「強力な凝集剤と防腐薬品を大量に投入し、強制的に毒素を水底のヘドロへと沈殿させているからです。……表層の数メートルだけを化学的に脱色し、貴族たちの遊覧のために『清らかな水の都』を演出し続けているに過ぎません」

 ルシアンの言葉に、フィリアがハッと息を呑んで胸元の聖衣を握りしめた。

「そんな……。では、この街の人々が飲むお水は、一体どうなっているのですか……?」

「それこそが、この都を支配する【水の門閥】ローゼンベルク家の富の源泉――そして、最も悍ましい搾取の構造です」

 ルシアンが前方を指差した。大運河の優雅な直線水路の先、光り輝く貴族街と、背後に広がる薄暗い下層区画を冷酷に二分する、巨大な黒鉄の水門がその異様な威容を現し始めていた。

(第三節へ続く)


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 ヴェネツィア・アルシア都市風景イメージ

挿絵(By みてみん)


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