第二十一話:『水上迷宮ヴェネツィア・アルシア』 第一節:街道の煙、水辺の飯盒
赤褐色の天蓋を仰ぎ見たヘパイストスの外輪山を越えると、世界を覆っていた濃密な重油の臭気と火山灰の帳は、急速に薄らいでいった。
高台の峠道を下るにつれ、乾き切っていた風に、みずみずしい湿原の草いきれと柔らかな大気の湿り気が混ざり始める。視界の先には、どこまでも平坦に広がるエメラルドグリーンの氾濫原。網の目のように分岐する支流と水路が陽光を浴びて銀色にきらめき、内陸の焦熱地獄を抜けた旅人たちを、雄大で穏やかな水辺の景観が迎え入れていた。
「ふあぁ……! 空気が冷たくて、すっごく気持ちいい……!」
幌馬車の御者台の脇で、アリアは白銀のポニーテールをそよ風に揺らし、両手を広げて胸いっぱいに深呼吸をした。緊張と戦火の煤煙から解放され、咲き誇る白百合のようにパッと綻んだのは、十六歳の少女らしい屈託のない眩い笑顔。左腰に佩いた『蒼水直剣アルビオン』の青白い刀身も、大気中の豊かな水マナに共鳴するように、かすかな燐光を帯びて静かに息づいている。ヘパイストスで溶岩スラグを相殺し、極限まで枯渇していた体内の水分とマナが、大気を通じて急速に潤っていく心地よさがあった。
「長閑な景色だな。……あの煙だらけの鍛冶屋街に比べりゃ、まるで別の国に来たみたいだぜ」
馬車の荷台から身を乗り出し、リンが両手を頭の後ろで組んで伸びをした。身に纏うのは、老技師バラックから託されたばかりの、引き締まったマットブラックと燃焼橙の特注軽装道着。太もものスリットから風を通し、両腕と両脚に装着された『緋金剛の連環打撃具』の金属フレームが、木漏れ日を浴びて鈍く重厚な光を返している。
「気を緩めないでください」
手綱を握るルシアンが、中指で眼鏡のブリッジをカシャリと押し上げ、冷徹な声で釘を刺した。
「ヘパイストスの防空網を単騎で解体した魔王軍の影は、すでにこの水運街道の遙か先――大運河都市『ヴェネツィア・アルシア』の上空域へと到達しています。いつ前哨部隊の潜水魔獣と遭遇してもおかしくありません」
「もう、ルシアン様ったら。たまには肩の力を抜いて、深呼吸なさってください」
荷台の幌の奥から顔を覗かせたフィリアが、少しだけ唇を尖らせて優しく窘めた。生真面目すぎる青年の横顔を見つめてから、少女は胸元で大切そうに聖杖を抱き直し、道端に咲く淡い青色の水生野花へと穏やかに視線を移す。
「今日のお昼は、街道沿いの川辺でお休みを取ると決めたではありませんか。……アリア様のお腹も、さっきからずっと切実な音を奏でていらっしゃいますし」
「ひゃっ……! フ、フィリア、聞こえてたの……!?」
アリアが耳の先まで真っ赤にして両手でお腹を押さえると、荷台のリンが腹を抱えて吹き出した。
「あっはは! 隠すことねえだろ! 峠を越える前から、まるで腹の中に腹ペコの地竜でも飼ってるみたいな大合唱だったぜ!」
「笑わないでよ、リン! あの高炉の溶岩を止めたせいで、本当に体の中のエネルギーが空っぽなんだから……!」
恥ずかしさで頬をぷくっと膨らませるアリアを横目に、ルシアンは「まったく……」と小さく肩を竦めたが、その口元にはわずかに苦笑が浮かんでいた。手綱を引き、街道から一本外れた清らかな浅瀬の河川敷へと馬車を乗り入れる。
「日没前の休息とします。……アリア殿下の極限代謝を補うためにも、ここで徹底的に栄養を補給しておかなければ、次の潜入作戦で倒れられかねませんからね」
「やったぁ! ごはん!」
馬車が止まるや否や、アリアは子鹿のような軽やかさで河原の砂利道へと飛び降りた。
野営の準備は、手慣れた役割分担で素早く進められた。フィリアが聖杖の先端から極微小な浄化光を放ち、清流の水を飯盒へと汲み上げて安全な飲料水へと仕立てる。ルシアンは携帯コンロの魔導火力を几帳面な出力目盛りに合わせ、鍋の熱対流モデルを空中に投影しながら湯を沸かしていく。
そして、食材の調達と下準備は、前衛ふたりの独壇場だった。
「よっと……! おいルシアン、薪はこれくらいで足りるか?」
河原の流木を集めてきたリンが、腕ほどの太さがある乾燥した樫の丸太を河原に立てた。斧を取り出すかと思いきや、少女は右足を引き、真新しい緋金剛の手甲を構えてすっと息を整えた。
掌底の無反動打撃――『浸透勁』。
空気が極微小に収縮した次の瞬間、リンの掌が丸太の天辺にそっと触れた。手甲の内部に組み込まれた多重遊星歯車が超高速で自転し、背面の排気スリットから白い余剰マナの蒸気が吹き抜ける。直後、太い樫の丸太は、内部の繊維結合だけを綺麗に断ち切られ、まるで最初からそうであったかのように、寸分の狂いもない均一な薪へとパカッと縦四つに割れて足元に転がった。
「おっ、すげえな! 手首への衝撃は完全にゼロだ。力加減を抑えりゃ、薪割り程度の繊細な作業でもギアが狂わねえぞ!」
リンは八重歯を覗かせて満面の笑みを浮かべ、手首をくるくると回して新武装の感触を確かめた。
「……リン。緋金剛と腐海生体腱を融合させた百年前の工学遺産を、薪割りの手斧代わりに使うのはやめなさい。心臓に悪すぎます」
ルシアンがカシャリと眼鏡を直しながらこめかみを押さえ、早くも胸ポケットから胃薬を取り出している。その横で、アリアは道着の裾を膝上までたくし上げ、裸足でバシャバシャと浅瀬に飛び込んでいた。
「川魚、見つけたわよ! ……えいっ!」
水流の中に銀色の魚影を捉えた瞬間、アリアの菫色の瞳が鋭く閃いた。神樹の原初水マナを宿すアリアの動体視力と反射神経は、常人の域を遥かに凌駕している。電光石火の早業で水中に両手を突き入れると、次の瞬間には、体長四十センチメートルを超える丸々と太った大イワナが、少女の両手の中で激しく水飛沫を上げて跳ね回っていた。
「捕まえたっ! ……わっ、もう一匹! そりゃあ!」
勢い余って水飛沫を頭から浴びながらも、アリアは瞬く間に三匹の大魚を素手で鷲掴みにして河原へと放り投げた。濡れた白銀の髪を乱暴に手で払い、水滴をキラキラと輝かせながら、満面のドヤ顔で胸を張る。
「どう? 大漁でしょ!」
「すごいすごい! アリア様、野生児顔負けの手づかみですね!」
フィリアがパチパチと手を叩いて歓声を上げ、手際よく魚を締めて塩を振る。串を打たれた大イワナは焚き火の周りに立てられ、皮が香ばしい狐色に焼き上げられていく。大鍋の中では、ヘパイストスでバラックから持たされた燻製肉と、街道沿いの野草、そして乾燥豆がじっくりと煮込まれ、濃厚で野性味あふれるスープの匂いが河原いっぱいに立ち込めた。
「お待たせしました、アリア様。まずはスープからどうぞ」
「いただきますっ!」
差し出された木椀を両手で受け取ると、アリアは目を輝かせてスープを口に運んだ。塩気の利いた濃厚な肉の旨味と、煮崩れた豆の甘みが、乾き切った身体の細胞ひとつひとつに染み渡っていく。そして――意気揚々と串焼きの大イワナにかぶりついた、その時だった。
「……あうっ」
香ばしい皮に歯を立てた瞬間、小骨がチクリと舌を刺した。アリアは涙目になり、箸を使って慎重に骨を外そうと奮闘し始める。だが、剣を握らせれば一級品の指先も、細かな魚の骨取りとなると壊滅的だった。つつき回すうちに身は無惨に崩れ、中骨の周りはぐちゃぐちゃのそぼろ状になり、少女は途方に暮れて唇を尖らせた。
「うぅ……なんでお魚の骨って、こんなにいっぱい入ってるの……」
「……はぁ。貸しなさい、アリア殿下」
見かねたルシアンが深く溜息を吐き、アリアの皿を取り上げた。携帯用のナイフとフォークを器用に使って、ものの数秒で太い中骨と小骨を一本残らず滑らかに引き抜いてみせる。
「ほら、どうぞ」
「わぁ……! ありがとう、ルシアン!」
アリアはぱっと表情を明るくし、骨の消えたふっくらとした白身をスプーンで夢中で口に運んだ。だがその瞬間、少女の胸の奥を、ふと切ない温もりがかすめた。
(……あの時も、そうだったな)
汽水域エスチュアリーの地下暗渠。焚き火の前で同じように魚の骨が取れずに涙目になっていた自分から、言葉もなく魚を取り上げ、信じられないほど鮮やかな手つきで骨を外してくれた、あの黒衣の青年。あの無骨で、静かな手の温もりは、いまも鮮明に記憶に焼き付いていた。
「おいひい……っ! 生き返る……!」
雑念を振り払うように頬をいっぱいに膨らませ、幸せそうに菫色の瞳をとろけさせるアリア。その驚異的な吸引力は留まることを知らず、山盛りに炊き上げられた飯盒の麦飯が、瞬く間に少女の胃袋の中へと吸い込まれていった。一杯、二杯、三杯、四杯――。
「……僕の試算では、アリア殿下の今日の消費カロリーに対する必要補給量はすでに充足しているはずなのですが」
手元の手帳に数理を走らせていたルシアンが、青ざめた顔で飯盒の底を見つめ、思わず本音を漏らした。
「……アリア殿下。その細身で華奢な身体のどこに、これだけの質量と体積が格納されているのか、数理的にも物理的にも解明したい衝動に駆られます。胃袋が別次元へ接続されているとしか思えません」
「し、失礼ね! 全部ちゃんと消費してるんだから! ……ルシアン、もう一杯だけ、おかわりある……?」
空になった五杯目の椀を両手で差し出し、上目遣いに見つめてくるアリアに、ルシアンは「……胃薬の消費ペースを再計算する必要がありますね」と天を仰いだ。リンとフィリアがたまらず大笑いし、河原に温かな笑い声が響き渡った。
腹八分目の食事を終え、焚き火の薪が爆ぜる音だけが静かに響く夕暮れ時。西の空は、燃えるような朱色から、深い紫紺の帳へと移り変わろうとしていた。
リンは河原の平らな大石に腰を下ろし、小瓶の油を差した布で『緋金剛の連環打撃具』のギアの隙間を丁寧に拭き清めている。無骨な格闘家としての表情には、かつて己の無力さに泣いた少女の影はなく、道具と己の拳の芯に対する静かな誇りが宿っていた。
アリアは体育座りをして焚き火を見つめ、そっと自らの両手を膝の上で重ね合わせた。オレンジ色の火の粉が、夜空へと舞い上がっていく。
「……ねえ、みんな」
ぽつりと、アリアが呟いた。菫色の瞳には、揺れる炎の明かりとともに、深い葛藤の影が差していた。
「あの時……ヘパイストスの空から飛び去っていくあの人の背中、すごく……一人きりだった」
リンが手を止め、ルシアンとフィリアが静かにアリアを見つめた。
「エスチュアリーの街で、互助会のガラさんが話してくれた……百年前、ひとりの少女を助けて帝都へ送り届けたっていう『平民の小僧』の話。教科書に載っている華やかな英雄譚と、この国に遺されているあまりにも不自然な記録の空白。……あたし、ずっと胸の奥で引っかかってるの。かつてこの国を救おうとしたあの平民の勇者が、どんな結末を迎えたのか。そして……あの二代目魔王へと、どこかで繋がっているんじゃないかって」
アリアは胸元の襟元をそっと握りしめた。首元の聖痕は、いまは静かに微熱を保っている。眉をぎゅっと寄せ、焚き火の燃えさしをじっと見つめる少女の表情には、迷いと、それでも譲れない強い意志が滲んでいた。
「魔王を倒して世界を救うのが、勇者の役目だってことは分かってる。あたしの考えは甘いのかもしれないし、間違ってるのかもしれない。……敵同士だし、戦わなきゃいけない運命なのかもしれない。でも……あたしの気持ちとしては、あの人をただ倒して終わりにすることなんて、絶対にできない」
アリアは顔を上げ、仲間たちを真っ直ぐに見つめた。
「怒ってる風でもなくて、世界を滅ぼして笑ってるわけでもなくて……ただ、誰の声も届かない、冷たい氷の底に一人きりで立ち竦んでいるみたいに見えたの。……あたし、あの人の本当の気持ちが知りたい。なぜあんなにも哀しい顔をして、世界を更地に変えているのかを」
しばしの沈黙のあと、リンが手甲を拭き終え、カチリと拳を打ち鳴らして不敵に笑った。
「……へっ、言ってろ。アリアらしいじゃねえか」
リンは立ち上がり、八重歯を覗かせてアリアの肩をぽんと叩いた。
「過去に何があったのかは知らねえ。けどよ、あいつが泣きそうな顔して一人で背中向けてんなら、あたしたちが追っかけて、ぶん殴ってでも前を向かせてやればいいんだよ。……そのための、この新しい拳だ」
「ええ、リン様の仰る通りです」
フィリアが優しく微笑み、アリアの冷えた指先を両手でそっと包み込んだ。
「アリア様がその手を伸ばし続けたいと願うなら、私はどこまでもそのお背中をお支えします。傷ついたなら私が癒やし, 立ち止まりそうなら手を取り合えばいいのですから」
「……まったく、論理的でも打算的でもない、極めて非効率な感情論ですね」
ルシアンが眼鏡を押し上げながらも、その瞳には柔らかな光が灯っていた。
「ですが、数理の檻に閉じこもっていた僕をあの象牙の塔から連れ出したのは、アリア殿下のその非論理的な真っ直ぐさでした。……僕の演算のすべてを賭けて、魔王の進路の先、欺瞞の都を暴き立ててみせましょう」
「みんな……!」
アリアの顔に、ぱあっと花が咲くような、胸いっぱいの嬉しい笑顔が広がった。自分の拙い願いを、誰一人として笑わずに受け止めてくれた。暗渠の底で魔王が見せた、現場の泥臭い仕草。そして、いま隣で同じ火を囲み、同じ飯を食べ、未来を見据えてくれる無二の仲間たち。
「行こう、みんなで。……あの都の欺瞞を暴きに」
四人の視線が、焚き火の炎の向こうで固く結ばれた。
翌朝、湿地帯の霧を抜けた幌馬車は、巨大な石造りの高架水路橋をくぐり抜けた。朝露に濡れる堤防を越えた瞬間、カルテットの眼前に広がったのは、陽光を反射して白銀と碧色に輝く、水上の巨大な大回廊だった。
水上迷宮――大運河都市『ヴェネツィア・アルシア』。豪奢なる水の門閥が支配する都の輪郭が、霧の向こうから、静かにその姿を現し始めていた。
(第二節へ続く)
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川辺の食事




