第二十話:『灼熱の更地化作業』第三節:平坦なる更地と、背を向ける背影
天蓋を覆っていた耳を劈く警報の鐘乱打と、山肌を削り落とすような地鳴りが、潮が引くように収まりを見せていた。
風向きが変わった。
カルデラの外縁から吹き込む冷たい外気が、下層街を覆っていた濃密な白煙と火山灰の帳をゆっくりと払いのけていく。視界が開けた瞬間、避難を終えて旧水路の地下道から恐る恐る顔を出した工員たち、そして肩で息を整えていたアリアたちの眼前に広がったのは、言葉を失うような光景だった。
そこにあったのは、壊滅や廃墟ではなかった。
かつて空を塞ぐようにそびえ立っていた、要塞攻城魔導砲『グラン・ブラント』の砲座。
四六時中、黒煙と毒素の排煙を吐き散らし、工員たちを奴隷のように酷使していた中央溶鉱炉群。
そして、山肌をびっしりと埋め尽くしていたブラント家の弾薬製造プラントと、私邸宮殿の巨大な武器庫。そのすべてが、まるで熟練の工匠が巨大な鉋を一度だけ滑らせたかのように、完全に均一で、平坦な白灰の地平へと変貌を遂げていた。
鉄骨の残骸も、破砕された岩塊すらも、上空から降り注いだ『群泳する銀鱗』と糸の摩擦熱、そして急速吸熱によって分子レベルで分解され、ただの白い灰の原野となって大地を覆っている。一方で、アリアたちが雪崩を防ぎ止めた下層のトタン長屋街、そして工員たちの生活インフラは、奇跡のように境界線を引かれ、煤を被っただけで無傷のまま残されていた。
「……すげえな、おい」
瓦礫の山を登ってきた老技師バラックが、手にした大型スパナを肩に担ぎ、呆然と口を開けてその地平を見つめていた。顔面を覆う火傷のケロイドを歪め、呆れ果てたように、だがどこか憑き物が落ちたような晴れ晴れとした笑みを零す。
「無差別に人を殺す化け物だと聞いていたが……あいつ、人を殺す大砲と工場だけを、本当に綺麗さっぱり平らに均していきやがったぞ。……あのブラントの豚どもが百年かけて搾取し続けたヘパイストスの心臓部が、たったの数刻で更地だ」
工員たちが一人、また一人と地下道から這い出てきて、灰の原野を見上げた。
そこには恐怖だけでなく、長年自分たちを縛り付けていた鎖が、物理的に跡形もなく消滅したことに対する、信じられないという安堵の溜息が満ちていた。
だが、アリアは更地を見ていなかった。
少女は煤と泥で汚れた群青と白の軽装具の裾を風に棚引かせ、直剣を杖にして踏み止まりながら、ただ一点――赤褐色に澄み始めた上空を見上げていた。
天蓋の頂点、乱気流の中に静止する冥淵飛竜ベルゼファル。
その頭頂甲殻の上に、黒革の長衣を翻して立つ青年――レンの姿があった。
自律浮遊する『黒骸の断罪柱』が鈍い真紅の燐光を収め、灰翅族の航空部隊が整然と帰還の陣形を整えている。
風の切れ間。地上で立ち尽くすアリアの菫色の瞳と、遥か上空から冷徹に現場を見下ろすレンの双眸が、遮るものなく真っ直ぐに交錯した。
「レン……っ!」
アリアは思わず直剣から手を離し、天蓋へ向けて右手を伸ばしていた。届かないと分かっていても、声が掠れていても、叫ばずにはいられなかった。胸の奥で、首元の聖痕が激しく脈動している。
その時のアリアの表情は、魔王と対峙する勇者のそれ狂気でも憎悪でもなかった。まるで、凍える吹雪の中で一人きりで立ち竦む迷子を見つめるような、切迫した痛ましさと、祈り。大きな菫色の瞳を潤ませ、眉をぎゅっと寄せて、必死に青年の姿を捉えようとしていた。話したい。聞かせてほしい。暗渠の底で見せてくれたあの不器用な手の温もりは、嘘だったのか。貴方は本当に、世界を壊したいだけの冷酷な化け物なのか。
もしも違うのなら――貴方がその冷たい胸の奥に閉じ込めている百年の悲しみを、教えてほしい。
まだアリア自身、それが『魔王の救済』という途方もない衝動であることには気付いていない。
だが、傷つき、凍りつきながら、それでも世界を均し続ける孤独な青年を、このまま暗闇の中へ一人きりで置いていくことなど、少女の魂がどうしても許さなかった。
上空のベルゼファルの頭頂で、レンの感情のない死人のような能面に、わずかな影が差した。
胸元に埋め込まれた『真紅の魔核』が、地上の少女の叫びに応じるように、トクン、と一度だけ清らかな紅の光を脈動させる。
伸ばされた小さな右腕。
泥と煤にまみれながら、必死に自分を呼び続ける少女の姿。
その純粋すぎる眼差しが、百年の氷を溶かす陽だまりのように、青年の凍てついた胸の奥底を激しく抉った。脳裏をよぎるのは、かつて七色のペンダントを握りしめ、自分に微笑みかけてくれた少女の面影。 (……違う)
死人の唇の奥で、冷たい声が自らを戒めた。
(あれは、クレアではない。……似ているだけの、別の人間だ)
自分に言い聞かせるように、レンはその面影を乱暴に振り払った。感情を取り戻してはならない。心臓を動かしてはならない。ここで情に流され、足を止めてしまえば、あいつに見せるはずの美しい海に、人間の醜悪な欺瞞が永遠に残ってしまう。世界を平らに均すための、冷徹な土木作業の手を止めるわけにはいかないのだ。
レンは伸ばされた少女の手から、あえて冷酷に視線を逸らした。一度として振り返ることなく、左手の手甲をわずかに引いてベルゼファルの手綱ならぬ神経系へ反転の信号を送る。
漆黒の飛竜が巨大な被膜翼を大きく打ち振るい、猛烈な突風を巻き起こしながら旋回した。灰翅族の軍勢を従え、黒煙を切り裂いて、魔王軍は西の内陸部の上空へと静かに飛び去っていく。
「…………っ」
伸ばしていた右手を、指先から力なく下ろしながら、アリアは小さく息を呑んだ。その顔には、拒絶されたことへの痛み以上に、深い悲痛の影が落ちていた。切なげに歪められた眉、小さく震える桃色の唇。
天蓋の彼方へと小さくなっていく黒い影を見つめる菫色の瞳から、ぽろりと一筋の涙が零れ落ち、煤けた頬を白く伝っていく。去り際の青年の背中に滲んでいたのは、勝利者の傲慢でも、破壊者の狂気でもなかった。世界中のすべてを敵に回し、たった一人で暗闇を歩み続ける者の、あまりにも深く、痛ましいほどの孤独だった。その背中があまりにも痛々しくて、アリアの胸は締め付けられるように疼いていた。 「……っ、く……」
その張り詰めていた感情の糸がふっと緩んだ瞬間、アリアの膝がガクンと折れた。激しい眩暈とともに崩れ落ちそうになった身体を、横から飛び込んできたリンが慌てて両腕で抱きとめる。
「おっと……! おいアリア、大丈夫かよ!?」
「あ、ありがとう、リン……。うん、怪我は……してないんだけど……」
リンの肩に体重を預けながら、アリアは耳の先まで一気に真っ赤に染め上げた。
気恥ずかしそうに視線を彷徨わせ、両手でぺたんと力なく自分のお腹を押さえる。
直後、静まり返った下層街の空気に、驚くほど盛大で、切実すぎる音が響き渡った。
ぐうぅぅぅぅぅ……
と、空っぽの胃袋が悲鳴を上げるような長鳴き。
「……っ、ふぇ……お腹、空いちゃった……。力が、全然入らないの……」
数千トンの溶岩スラグの運動エネルギーと熱量をゼロ化相殺した代償。体内の全カロリーを瞬時に使い果たしたアリアは、潤んだ瞳で上目遣いにリンを見上げ、恥ずかしさのあまり消え入りそうな声で訴えた。そのあまりの落差に、抱き起こしていたリンがぽかんと目を丸くし、次の瞬間、腹を抱えて吹き出した。 「あっははは! なんだよそれ! あんな神業みたいな防壁作っといて、原因はただの腹ペコかよ!」「も、もう! リン、笑わないでよ……! 本当に一歩も動けないんだから……!」
恥ずかしさで真っ赤になって頬をぷくっと膨らませるアリアの傍らで、フィリアも胸を撫で下ろし、くすくすと柔らかく微笑んだ。
「ふふっ、よかったです。アリア様のお身体に異変が起きたのかと肝を冷やしました。……すぐに何か、栄養のある温かいものをご用意しましょう」
「……おいおい、大層な勇者様が聞いて呆れるぜ」
呆れ声とともに歩み寄ってきたバラックが、前掛けのポケットから放り投げてよこしたのは、油紙に包まれた分厚い塊だった。
受け止めたリンが包みを開くと、香ばしい麦の香りと、干し肉の濃厚な匂いが立ち上る。
「うちの若い奴らに持たせてる、ヘパイストス特製の堅焼き黒パンと燻製肉だ。顎が痛くなるほど硬えが、腹持ちとカロリーだけは保証するぜ。……食いな、嬢ちゃん」
「あ……っ、ありがとうございます……!」
アリアは目を輝かせ、受け取った黒パンにかぶりついた。見た目の清楚さからは想像もつかない勢いで頬袋をいっぱいに膨らませ、リスのように一生懸命に咀嚼する。
そのあまりに見事な食べっぷりに、バラックも思わず目を見張り、やがて豪快に笑い声を上げた。
「……やれやれ。常人の数十倍の代謝速度ですか」
ルシアンが深く溜息を吐きながら胸ポケットから胃薬を取り出して飲み干し、呆れ顔で眼鏡のブリッジを押し上げた。だが、そのネイビーブルーの瞳には、全員が生きてこの災厄を乗り越えられたことへの深い安堵が宿っていた。
青年は手元の羊皮紙の地図を広げ、指先で西の航路を指し示した。
「アリア殿下、リン、フィリア。食べ終えたら、すぐに出立の準備をしましょう。……魔王軍が次に目指す進路の解析が完了しました」
ルシアンの引き締まった声に、パンを飲み込んだアリアたちが真剣な面持ちで顔を上げる。
「火の門閥ブラント家の軍事生産拠点は、これで完全に壊滅しました。神樹の排液を垂れ流し、兵器を増産していた心臓部は失われた。……そして、魔王軍が向かった西の低地帯。そこに位置するのは、大陸最大の水運網と金融を支配する【水の門閥】ローゼンベルク家の本拠地です」
ルシアンは地図上に記された、青く複雑に入り組んだ大運河の図面を鋭く叩いた。
「白大理石の宮殿が立ち並び、貴族たちが富を貪る水上迷宮――大運河都市『ヴェネツィア・アルシア』。……魔王が次に均そうとしているのは、あの街です」
水の門閥。そして、かつて聖女クラリスから搾取された『特級神水』の闇が眠る都。
アリアは口元を手巾で拭い、リンに支えられながらしっかりと自らの足で立ち上がった。カロリーを補給した身体に、再び温かな蒼血の脈動が戻ってくる。左腰の『蒼水直剣アルビオン』の鯉口をカチリと鳴らし、天蓋の向こう、魔王が飛び去った西の空を見据えた。その菫色の瞳には、もう迷いも涙もなかった。 「行きましょう、みんな。……次の街へ」
帝国の欺瞞を暴き、冷徹な更地化を止めるための旅路。
そして、あの哀しい背中を追いかけ、今度こそその仮面の奥にある心に触れるために。
新世代勇者パーティーは、立ち上る白灰の荒野を背に、次なる運命の地――麗しき水の都を目指して歩みを進めた。
(第二十話 完 / 【火の門閥・ヘパイストス編】完結・第二十一話へ続く)




