第二十話:『灼熱の更地化作業』第二節:葛藤と決断
大気が悲鳴を上げていた。
山体から幾何学的にスライスされた要塞攻城魔導砲『グラン・ブラント』の砲台基部、そして直上に築かれていた数万トンにおよぶ高炉外壁が、支えを失って斜面を滑り落ちていく。
赤黒く熱せられた超重量の鉄骨が摩擦熱で火花を散らし、破断した送液パイプからは、煮えたぎる溶岩スラグの濁流が赤熱の瀑布となって崖下へと雪崩れ込んでいた。
その直下に広がるのは、下層街の密集区画。粗末なトタン長屋の合間を、逃げ惑う工員たちや、幼子を抱えた母親、足をもつれさせた老人工員たちが、狂乱の叫び声を上げながら雪崩の進路から逃れようと必死に走っている。
「アリア、あれは……!」
リンの叫び声に、アリアは上空を見上げた。天蓋に滞空する冥淵飛竜ベルゼファルの頭頂部、黒革の長衣を風に棚引かせ、冷徹な死人の能面を崩さない青年。その姿を目にした瞬間、アリアの胸は張り裂けんばかりに激しく波打った。
話したい。
聞きたいことが、山ほどあった。なぜ、暗渠の底であんなにも優しく魚の骨を外してくれたのか。なぜ、あんなにも哀しい瞳で七色の光を見つめていたのか。貴方が壊したいのは世界そのものなのか、それとも、この世界を覆う欺瞞の檻なのか。今すぐにでも跳躍し、風を蹴って天蓋の彼の元へと駆け上がり、その手首を掴んで真意を問い質したかった。
だが――。
「ぎゃあああああっ!」
「誰か……誰か助けてくれ! 娘が、瓦礫の下に……!」
地を裂くような崩落の地鳴りに混ざり、耳朶を打ったのは、無力な人々の切迫した叫び声。倒壊した長屋の梁に足を挟まれ、火の粉に包まれながら泣き叫ぶ幼い少女。転倒した車椅子の老人を庇い、迫り来る赤熱の鉄骨を見上げて立ち竦む父親。アリアの足が、無意識に前へ踏み出していた。葛藤など、最初から存在しなかった。天蓋の青年に言葉を届けたいという渇望よりも早く、皇女としての義務や勇者としての使命よりも深く、少女の魂に刻まれた生来の慈愛が、彼女の全身を突き動かしていた。
「――ルシアン、リン、フィリア!」
アリアは天蓋から視線を切り、迷いなく地上へと背を向けた。白銀のポニーテールを激しく揺らし、左腰の『蒼水直剣アルビオン』の柄を握りしめ、凛とした声を張り上げる。
「逃げ遅れた人たちを、全員外輪山の旧水路暗渠へ逃がすわよ! 一人だって、この崩落に巻き込ませはしない!」
「了解です!」
ルシアンが即座に応じ、眼鏡の照準器を展開して崩落のベクトルと下層街の構造図を空中に光速で重ね合わせた。
「崩落の中心軸は第三工員街のメインストリート! 避難誘導のボトルネックは、中央大通りを塞ぎつつある高炉外壁の残骸です! あれを排除しなければ、二百人以上の工員が袋小路で押し潰されます!」「排除すりゃいいんだろ! 任せなッ!」
弾丸のように飛び出した影があった。リンだった。身に纏うのは、老技師バラックから託されたばかりの、引き締まったマットブラックと燃焼橙の特注軽装道着。太もものスリットから覗くしなやかな脚が、瓦礫の山を爆発的な推進力で蹴り飛ばす。少女の視界の先、まさに逃げ遅れた母子の頭上へ向けて、山体から滑落してきた長さ10メートル、重量数十トンに達する緋金剛の高炉装甲板が、重力加速度を乗せて猛烈な勢いで落下していた。直撃すれば、母子はおろか、周囲の路地ごと肉片と化す。
「伏せて耳を塞いでなッ!」
リンは母子の前へと滑り込むように割り込むと、低く腰を沈めた。大地に両足をめり込ませ、前腕を水平に構える。全身の毛細血管から、青白い闘気が猛烈な渦を巻いて噴き上がった。
そのマナの奔流を捉えたのは、両腕と両脚に装着された、百年の封印を解かれた新武装――『緋金剛の連環打撃具』。
内部の多重遊星歯車が、チチチチチ……と甲高い回転予兆の音を奏でる。落ちてくるのは、生身の人間が受け止めれば全身の骨が粉砕される超質量の鉄塊。だが、少女の琥珀色の瞳には、恐怖も迷いも微塵もなかった。あるのは、仲間を信じ、自らに託された技術の誇りを背負った、絶対の確信。
「いっけええええええッ!」
呼気とともに、リンの右掌底が真正面から突き出された。踏み込みの衝撃が大地を波打たせる。
ゼロ距離からの無反動打撃――『浸透勁・砕霊掌』。
激突の瞬間、手甲の内部に組み込まれた生体腱ダンパーが極限まで収縮し、遊星歯車が超高速で自転を開始した。接触面から流し込まれた青白い浸透波動が、数十トンの緋金剛装甲板の結晶構造の内側へと、光速で突き抜ける。手甲の背面に刻まれた排気スリットから、圧縮された高熱のマナが、白い高圧蒸気の噴流となって後方へ一気に吹き抜けた。
直後――。数十トンの巨大装甲板が、空中で一瞬にして静止した。
前面には傷一つない。
だがその刹那、鉄塊の内部結合がミクロ単位で完全に崩壊し、背面側半分が粉微塵となって後方の虚空へと放射状に弾け飛んだ。
残された前面の装甲も、力を失った砂の城のように、母子の足元わずか数メートルの場所でボロボロと細かな粉末となって崩落していった。
母子の命は、完全に守られた。
そして――。
リンは手首を軽く回し、八重歯を剥き出しにして獰猛に笑った。
痛みがない。
痺れもない。
かつて自分の腕を破壊しかけたあの凄まじい反動エネルギーのすべてが、手甲の内部で完璧に分散・排熱されていた。
「へっ……! オヤジにもらったこの腕なら、何百回だって殴り砕いてやるぜ!」
「見事です、リン! 退路が開きました!」
ルシアンの叫びと同時に、フィリアが前線へと駆け込んだ。
両手で抱きかかえた聖杖を天へと掲げ、エメラルドの瞳を神聖な祈りの光で満たす。
「主よ、逃げ惑う子らに平穏なる道を――『聖域結界・光陰の回廊』!」
聖杖の宝珠から解き放たれた無数の光の粒子が、下層街の瓦礫の左右へと広がり、全長数百メートルに及ぶ光の防護トンネルを瞬時に形成した。上空から降り注ぐ燃え盛る火の粉や、小さめの瓦礫の破片が、エメラルドの光膜に弾かれて弾け飛ぶ。
「皆さん、こちらです! 光の道を通って、旧水路の地下道へお逃げください!」
フィリアの澄んだ声が、恐慌に喘ぐ人々の耳へ染み渡る。工員たちが我を取り戻し、子どもや老人を抱えながら、光のトンネルの中へと雪崩を打って駆け込んでいく。
だが、山肌の崩壊は止まらない。
破断した巨大パイプから溢れ出た、数百トンにおよぶ灼熱の溶岩スラグの濁流が、光の回廊の側面を押し潰さんと赤熱の津波となって迫っていた。
「フィリアの結界を呑み込ませはしないわ!」
アリアが地を蹴った。
身に纏う群青と白の仕立て直し軽装具を翻し、赤熱の濁流の真正面へと滑り込む。左腰の『蒼水直剣アルビオン』が、神速の抜刀とともに抜き放たれた。刃が虚空を薙いだ瞬間、刀身に刻まれた無数の術式スリットから、青白い流体マナが溢れ出す。少女が解き放ったのは、単なる水の物理刃ではない。
かつて生誕の瞬間、神樹結界の負荷をゼロ化させたアリアの体内に眠る、絶対の相殺力――『無垢なる聖域』の波動だった。
「止まりなさい……すべて、平穏へと還れ……!」
アリアの蒼血とゼロ化の波紋が直剣の刃筋を伝い、押し寄せる灼熱の濁流へと真っ向から叩きつけられた。衝突の瞬間、轟音は生まれなかった。
濁流が持っていた数千度の熱量、そして数十万トンの重力運動エネルギーのすべてが、青白い光の波紋に触れた瞬間に急速に相殺され、ゼロへと呑み込まれていく。
熱を失い、推進力を奪われた溶岩スラグは、大気中の原初水マナによって一瞬にして結晶化し、固い黒灰色の巨岩へと姿を変えた。わずか数秒のうちに、街を呑み込もうとしていた灼熱の津波は、下層街を強固に護る巨大な防護岩壁となってその場に沈黙した。
「……っ、はぁ……っ、ふぅ……っ」
直剣の切っ先を地面に突き立て、アリアは膝に手を当てて小さく肩を激しく上下させた。額から顎へ幾筋もの大粒の汗が滴り落ち、首元の聖痕が皮膚を焼くように激しく熱を帯びている。
誰かが意図して編み上げた魔術式を解きほぐすのとは、根本的にわけが違った。
人の意志が介在しない、純粋な自然の質量と熱量の奔流。
その途方もない熱力学的エネルギーを丸ごと呑み干してゼロへと相殺した代償は、少女の体内から莫大な生体カロリーを瞬時に消滅させていた。
全身の細胞が激しい飢餓感に悲鳴を上げ、視界の端がチカチカと白く明滅するほどの極限代謝。
それでもアリアは唇をぎゅっと結び、直剣を支えに必死で倒れまいと踏み止まった。
その菫色の瞳には、誰一人として犠牲を出さずに護り抜いた、誇り高い光が宿っている。
「よし……! 避難完了まで、あと少しです!」
ルシアンがグリモワールを閉じ、最後の工員の一団を地下道の入口へと押し込む。
額から汗を拭いながら、四人は互いに視線を交わし、肩で息を整えた。
その頭上、ヘパイストスの天蓋を覆っていた黒煙の向こうで、山体要塞の更地化を告げる、最後の冷徹な地鳴りが静かに収束しようとしていた。
(第三節へ続く)




