第十八話:『黒煙の炉壁都市ヘパイストス』第二節:急降下の重爆砕と、路地裏の防衛戦
天蓋を覆う重油の煤煙を鋭利に引き裂き、灰褐色の巨大な被膜が風を孕んで広がった。
急降下してきたのは、鳥のそれではない。
灰翅族の重爆撃兵――全身の皮膚が耐火性の硬質鱗で覆われ、背中から生えた長大な翼には蝙蝠に似た頑強な飛膜が張られている。その屈強な両脚の鉤爪には、ヘパイストスの高炉から削り出されたような、赤黒熱を放つ直径2メートルを超える巨大な燃焼爆砕鉱石が掴まれていた。
「迎撃弾頭、撃てーっ!」
要塞外壁の対空砲座から、白熱の閃光とともに数条の魔導砲弾が撃ち放たれた。
だが、カルデラ特有の乱気流と立ち込める黒煙に視界を阻まれ、砲弾は遥か上空の空を虚しく穿つだけに終わる。逸れた対空砲弾の衝撃波に煽られ、灰翅兵の鉤爪から切り離された燃焼爆砕鉱石は、目標としていた軍用倉庫ではなく、下層街の密集したトタン長屋の真上へと軌道を外して落下を始めた。
その直下、逃げ場を失って瓦礫の山に足を取られ、転倒した一組の工員親子がいた。
痩せ細った母親が、泣き叫ぶ幼い我が子を必死に自らの背の下へ抱き込み、迫り来る灼熱の巨岩を見上げて硬直している。
「しまっ……! 民間人の居住区へ落ちます!」
ルシアンの叫びと同時に、フィリアが聖杖を前へ突き出した。
「主よ、災いを退ける盾を――『聖域結界』!」
だが、物理的な距離が足りない。展開されかけたエメラルドの光膜が親子の頭上に届くよりも早く、超重量の燃焼鉱石は重力加速度を乗せて猛烈な勢いで迫っていた。このまま直撃すれば、親子もろとも半径数十メートルの長屋群が一瞬で肉塊と灰燼に帰す。
「伏せてなッ!」
怒声とともに、大地を蹴った影があった。リンだった。
迷いなど微塵もなかった。
足場の砕石を粉砕するほどの踏み込みとともに、少女の身体が弾丸のような低空軌道を描いて親子の直前へと割り込む。
退くという選択肢は最初から存在しない。
一歩でも後退すれば、背後の親子が死ぬ。
少女は歯を食いしばり、下半身の全質量を泥濘へ深く沈み込ませて踏み止まった。
腰を沈め、全身の腱を弓のように極限まで絞り込む。
手首から拳にかけて巻き上げられた白いバンデージの隙間から、青白い闘気が凝縮されて噴き上がった。落ちてくるのは、灼熱に焼かれた数トンの超高硬度鉱石。
生身の腕で受けるなど、自殺行為以外の何物でもない。
それでもリンは一切の迷いを捨て、前へ踏み込み、腰の回転とともに右手の掌底を真正面から打ち下ろした。
――『浸透勁・砕霊掌』。
衝突の瞬間、凄まじい衝撃波が円形に広がり、周囲のトタン屋根を波打たせて吹き飛ばした。
声もなく放たれた一撃は、巨岩の表面を撫でるように捉え、その刹那、内部へと超高密度の衝撃波動を直接流し込んだ。赤黒く熱せられていた巨岩は、親子の頭上わずか数十センチの空間で、硬質の結晶構造を内側から破断させ、無数の細かな粉末となって放射状に四散した。
親子の命は守られた。だが――その代償は、残酷なまでに跳ね返った。
「――っ、つ……あ、ぐっ……!?」
作用反作用の物理法則。逃げ場を失った超質量の落下エネルギーと硬質鉱石の反動が、リンの掌底を通じて、手首と前腕の骨へダイレクトに突き抜けた。
ゴキリ、と鈍く恐ろしい破断の圧力が前腕の骨を軋ませる。
手首の関節内部で組織が激しく引き千切れるような鋭い激痛が走り、リンの右腕はだらりと力を失って垂れ下がり、全身の血の気が一瞬で引いた。
「リンッ!」
アリアが叫び、ガラから託された群青と白の仕立て直し軽装具を翻して地を滑るように駆け込んだ。
上空では、爆砕鉱石を砕かれた灰翅兵が、獲物を横取りされた怒りに猛禽のような啼き声を上げ、急旋回して頭上から鉤爪を振り下ろしてきていた。金属質の硬質な翼を刃のように研ぎ澄まし、手首を痛めたリンと倒れ込んだ親子の首を刈り取ろうと急降下してくる。
「そこを、退きなさいッ!」
アリアの左手が腰の鞘を捉え、親指で鯉口を弾いた。
神速抜刀。左腰から解き放たれた『蒼水直剣アルビオン』が、青白い流体マナを纏いながら完璧な水平の弧を描いて虚空を切り裂く。
直線の剣であるにもかかわらず、アリアの研ぎ澄まされた刃筋は水の波紋のように滑らかに空間を滑り、突進してきた灰翅兵の頑強な翼の被膜を根元から両断した。
「ギイイッ!?」
揚力を失った灰翅兵がバランスを崩し、路地裏の土間へと激しく叩きつけられる。直後、フィリアが駆け寄り、倒れていた親子を優しく抱き起こして安全な軒下へと引き込んだ。
「大丈夫ですか!? 早く、奥の地下道へお逃げください!」
「あ、ありがとう……ございます……!」
工員の母親が涙を流して子どもを抱きかかえ、路地裏の闇へと逃げていく。
だが、安堵する時間は一秒たりとも残されていなかった。
路地の向こうから、重たい金属鎧が擦れ合う足音が急速に近づいてくる。
ブラント家の私兵巡回部隊が、魔導ランタンの光を揺らしながら現場へと駆けつけてきていた。
「あっちだ! 砲弾の落下地点へ急げ!」
「無許可で魔導を行使した者がいるぞ! 捕縛しろ!」
「まずいですね、包囲されます!」
ルシアンが即座に駆け寄り、グリモワールを開いて指先を走らせた。青白い幾何学陣が地面に展開され、足元に溜まっていた冷却泥水が魔導熱によって瞬時に沸騰・気化する。
「『白煙の迷宮』――視界を遮断します!」
路地裏一帯が真っ白な濃密蒸気で満たされ、私兵たちの視界を完全に奪い去る。
私兵たちの怒号と空振りの足音が煙の向こうで響く中、アリアは膝をつきかけたリンの体を咄嗟に抱きとめた。脱力して揺れる親友の右腕を見て、アリアの菫色の瞳が大きく見開かれる。
顔色を蒼白にし、胸が張り裂けそうなほどの痛ましさと焦燥をその端正な顔立ちに滲ませながら、リンの左肩を強く抱き寄せた。
「リン、動ける!? 腕、どうしたの……!?」
「……っ、へっ、問題ねえ……! ちょいと右手が痺れて、力が入らねえだけだ……!」
強がりを吐きながらも、リンの額には脂汗がびっしりと滲み、八重歯が覗く唇は痛みに青ざめて激しく震えていた。
右腕は手首から先が完全に感覚を失っているのか、脱力したままわずかに痙攣している。自分の拳の限界を、痛覚という最も生々しい形で叩きつけられた悔しさに、リンは俯きながら奥歯をギリと噛み締め、涙を堪えるように視線を逸らした。
駆け寄ったルシアンは、そのだらりと垂れ下がった右腕を一瞥するなり、息を呑んで血相を変えた。
普段の理知的な冷静さをかなぐり捨て、膝を折ってリンの腕に触れようとするが、痛ませるのを恐れるようにその指先は小さく震えている。
眼鏡の奥のネイビーブルーの瞳を激しく揺らし、唇を噛み締めながら、押し殺した切迫した声で告げた。
「馬鹿な無茶を……! 右の橈骨に過負荷の微小クラック、関節組織の挫滅です! いますぐ動かすのをやめなさい! ……早急に固定と安静を施さなければ、二度と拳が握れなくなりますよ!」
厳しい口調の裏に滲む、取り返しのつかない事態を恐れる痛切な動揺。
その間にも、迫り来る巡回兵の怒号と金属鎧の足音が白煙の向こうから迫ってくる。
白煙の中で袋小路の左右を見回し、アリアは困り眉のように眉尻をきゅっと下げ、白銀のポニーテールを揺らしながら必死の形相で振り返った。
その表情には、気丈な皇女としての仮面を剥ぎ取られた年相応の少女らしい、切羽詰まった愛らしい焦燥が滲み出ていた。
「ルシアン、どこへ逃げればいいの!? もうすぐ煙が晴れちゃうわ!」
ルシアンは震える手で眼鏡の位置を直すと、必死に焦りを抑え込むように羊皮紙の図面を素早く照合し、鋭く指を差した。
「アリア殿下、僕についてきてください! この先、第三水路の廃配管を抜けた先の袋小路です! ガラさんの記した『鉄歯車の工房』がそこにあります! 急ぎましょう!」
蒸気と煤煙が渦巻く暗がりの中、四人は私兵部隊の追撃を振り切るように、路地裏の最奥へと足早に駆け込んでいった。
(第三節へ続く)




