第十八話:『黒煙の炉壁都市ヘパイストス』第三節:鉄歯車の廃工房と、老技師バラック
迷路のように入り組んだ下層街の裏通りは、白煙と煤煙のカーテンによって外界から完全に断絶されていた。
私兵部隊の荒々しい怒号と軍靴の足音を背後に聞き流しながら、四人は狭い廃配管の隙間を滑り抜けた。ルシアンの先導で辿り着いたのは、袋小路の突き当たりにひっそりと佇む、今にも押し潰されそうな半地下の石造り建築だ。
軒先には、長年の硫黄と煤に晒されて緑青を吹いた、古い真鍮の歯車を象った看板が傾いて吊り下がっている。木製の引き戸は固く閉ざされ、外観は完全に打ち捨てられた廃屋そのものだった。
「ここです……! 急いで中へ!」
ルシアンが周囲の気配を警戒しながら引き戸に手をかけ、滑り込ませるように押し開けた。
アリアが痛みに顔をしかめるリンの肩を抱きかかえ、フィリアが背後を遮蔽する薄い防音結界を張りながら、転がり込むように土間へと滑り込む。
引き戸がピシャリと閉ざされた瞬間、外を覆っていた耳を劈く警報の鐘と怒号が、まるで遠い異世界の出来事のように遮断された。
死線から逃げ延びた安堵が、張り詰めていた四人の身体を一気に脱力させる。
アリアは思わず深く息を吐き出して壁に手をつき、冷や汗で肌に張り付いた白銀の前髪を払い除けた。
フィリアは胸元に手を当てて小さく胸を撫で下ろし、ルシアンも乱れた呼吸を整えながら、手巾で汗ばんだ首筋を素早く拭う。
土間の奥から漂ってきたのは、下層街特有の腐った重油の臭気ではなく、研ぎ澄まされた鉱物油と乾いた鉄粉、そして古い真鍮が放つ独特の引き締まった匂いだった。
薄暗い工房の内部には、壁面を埋め尽くすように無数の工具類が整然と並べられていた。
旋盤、万力、規格の異なる無数のスパナや歯車。
作業台の上には、精密な歯車列を組み込んだ義肢のフレームや、鉱石を細かく砕くための小型破砕機の試作部品、そして何重にも書き直された羊皮紙の図面が散乱している。
天井の隅には、外の路地を見通すための鏡を仕込んだ、潜望鏡のような真鍮の通気ダクトが伸びていた。ここは武器の大量生産工場ではない。
人の暮らしと現場の作業を支えるための、純粋なからくり魔導工学の工房だった。
「……何者だ」
暗がりの中から、重低音のしゃがれた声が響いた。
作業台の影から姿を現したのは、筋骨逞しい大柄な老人だった。
六十を優に超えているであろう白髪混じりの頭髪を無造作に刈り込み、煤で黒ずんだ分厚い耐火革の前掛けを身につけている。
顔面から首筋にかけては幾重もの火傷のケロイドが走り、その太い腕には、巨大な鋼鉄製のモンキースパナが凶器のように握りしめられていた。老人の琥珀色の瞳は、侵入者である四人を射殺さんばかりの鋭利な敵意で睨みつけている。
「表の騒ぎに乗じてコソ泥の真似事か。……悪いが、この工房にブラント家の豚どもに売り渡す大砲の弾なんぞ一発もねえぞ。命が惜しけりゃ、とっとと失せな」
突き出された巨大スパナの先端。だが、アリアは怯むことなく一歩前へ出ると、左手を掲げて敵意のないことを示した。
「待ってください! あたしたちはブラント家の回し者じゃありません! ……黒潮互助会のガラさんから、この場所を教えてもらってきたんです!」
「……ガラだと?」
老人の眉根が微かに動いた。だが、その警戒の色が完全に消えることはない。
その張り詰めた沈黙を破ったのは、作業台の端へ視線を吸い寄せられていたルシアンの、息を呑む声だった。
「……あ、あり得ない……! これは、遊星歯車の二重減衰機構……!? いえ、それだけではない、シリンダーの内壁に刻まれたこの螺旋流路は……!」
ルシアンのネイビーブルーの瞳が、これまでにないほど激しく見開かれた。
追っ手の恐怖も、老人の威嚇すらも青年の頭から完全に消し飛んでいた。
額から滴り落ちる汗も拭わず、カシャリと眼鏡の照準器を展開させると、憑りつかれたように作業台の上の金属パーツへ顔を近づける。指先が歓喜と戦慄で微かに震えていた。
学術エリートとしての冷徹な仮面は完全に剥落し、未知の真理に触れた少年のように、その双眸は熱狂的な輝きを放っている。
「剛体で衝撃を受け止めるのではなく、圧縮された流体と内部ギアの回転運動に変換して反動をゼロへ逃がす力学設計……! 間違いない、現在のアカデミーの教科書からは抹消された、幻の理論だ! ……この数理の癖、百年前のアカデミーで歴代最高と称されながら突如として記録を抹消された異端の首席――エレノア・ハイネマンの未公開草稿にある『生体緩衝ダンパー理論』の構造と完全に一致する……!」
「――小僧ッ!!」
老人の眼光が跳ね上がり、足元の板張りを踏み抜かんばかりの勢いでルシアンへと踏み込んだ。手にしたスパナの切っ先が、ルシアンの喉元へピタリと突きつけられる。
「なぜ、その設計思想を知っている……! なぜ貴様のような帝都の小綺麗なエリートの坊主が、エレノア・ハイネマンの名を口にするッ!」
老人の声には、怒りを超えた激しい動揺と、長年秘匿し続けてきた禁忌を暴かれた者の戦慄が混ざり合っていた。
「答えろ、貴様ら何者だ! その図面は……百年前に帝都で自爆した工房跡から、ブラント家が強奪してきた設計図の断片だ! 『兵器に転用せよ』と命じられた俺の祖父と親父が、こんな神業を人殺しの道具にされてたまるかと、解読不能と嘘をつき通して命懸けで隠し継いできた門外不出の遺産だぞッ!」
老人の怒号が工房に木霊する。
その言葉に、ルシアンは息を呑み、胸の内でパズルの最後のピースが噛み合う衝撃に震えた。
「やはりそうだったのか……! ブラント家の技術史における百年前の爆発的な飛躍と、その後の不自然な断絶……。すべてはエレノアの理論を強奪し、現場の職人がそれを命懸けで隠し通した結果だったのですね」
「……あン?」
老人は眉をひそめ、訝しげにルシアンを睨みつけた。
敵意と困惑が交錯する工房の空気の中、奥で小さく息を漏らす声が響いた。
「……っ、ふぅ……あーあ、どいつもこいつも、堅苦しい講釈垂れてんじゃねえよ……」
壁に背を預けていたリンが、痛む右腕を左手で抱えながら、苦笑交じりに八重歯を覗かせた。その背後では、フィリアが必死の面持ちで聖杖を掲げている。エメラルドの瞳に痛ましさを滲ませながら、リンの腫れ上がった手首へ向け、淡く澄んだ治癒の光を注ぎ込んでいた。光が浸透するたび、手首の激しい熱感とズキズキとした激痛が和らいでいく。
「リン様、動かさないでください……! 骨の軋みと関節の炎症を、いま祈りで冷却しておりますから……!」
「わりいな、フィリア。……助かるぜ」
リンの額には玉のような脂汗がびっしりと浮き、右腕の筋肉は過負荷の反動でピクピクと痙攣を繰り返している。だが、その琥珀色の瞳だけは、獲物を前にした野獣のようにギラギラとした闘志の光を失っていなかった。
老人の視線が、ルシアンからリンへと移った。熟練の職人の目が、少女の異様な立ち姿と、だらりと脱力した右腕を捉える。
さらに老人は、天井の通気ダクトの鏡――さっきまで外の空襲と路地裏の爆散劇を映し出していた潜望鏡のレンズへ視線を走らせ、再びリンの拳へと目を落とした。
少女の右手のバンデージには、路地を吹き飛ばしかけた燃焼爆砕鉱石特有の、黒い硫黄煤と焼け焦げた鉱物粉末がびっしりとこびりついている。
老人はゆっくりとスパナを下ろすと、無骨な足取りでリンの前へと歩み寄った。
その節くれだった太い指先が、リンの右腕に巻かれた煤だらけのバンデージの表面を、触れるか触れないかの距離でなぞる。
「……おい、小娘」
老人の声から、先ほどの怒気が抜け落ちていた。
代わり宿っていたのは、数千、数万の鉄と道具を見つめ抜いてきた職人特有の、底知れぬ凄み。
「お前、さっきの爆発で……あの馬鹿みたいに硬え燃焼鉱石を、生身の掌底で真正面からぶち砕きやがったな?」
「……へっ。よく、わかるじゃねえか、頑固オヤジ」
リンが痛みに顔を歪めながらも、不敵に笑ってみせる。
「砕けたぜ。けどよ……反動が全部腕の骨に跳ね返ってきやがった。……あたしの拳じゃ、あの硬さを殴ったら自分の腕が先にイカれちまう。悔しいが……今のあたしじゃ、アリアの背中を守りきれねえんだよ」
悔しさを押し殺すように奥歯を鳴らすリンの言葉に、老人はじっとその腕を見つめ続けた。そして、深く息を吐き出すと、奥の作業机へ向けて顎をしゃくった。
「……バラックだ。このヘパイストスで、唯一大砲を作らねえからくり技師の名だ」
老技師バラックは、背後の棚にかかっていた埃だらけの分厚い耐火布を、無造作に払いのけた。
「親父の遺言でな。『いつか、この馬鹿げた反動をものともせず、人を守るために前へ踏み込める本物の馬鹿が現れたら渡せ』と言われてた代物だ」
棚の奥底に眠っていたのは、赤黒い鋼と真鍮のパーツ、そして幾重もの生体腱ダンパーが組み込まれた、未完成の手甲と脚甲のフレームだった。炉壁都市の黒煙の底で、運命の歯車が噛み合う。リンの拳を神話の領域へと押し上げるための、百年の封印が解かれようとしていた。
(第十八話 完 / 第十九話へ続く)




