第十八話:『黒煙の炉壁都市ヘパイストス』第一節:溶岩濠の暗渠と、黒煙の迷宮
頭上数十メートルの岩盤を隔てた真上を、灼熱の溶岩流が蠢いている。
その事実は、全身の毛穴から噴き出す汗の量と、石造りの天井から伝わってくる強烈な熱気だけで痛いほど理解できた。
ガラの羊皮紙に記されていた旧導水路のバイパス――かつて外輪山をくり抜いて通されていた古代の冷却水路暗渠の中を、四人は腰を屈めながら進んでいた。
通路の底を流れるのは、かつて冷却水として使われていた生温かい泥水。
ルシアンが眼鏡の照準器を微調整しながら、暗渠の内壁に刻まれた古い排熱弁の数理構造を解析し、安全なルートを導き出している。
その周囲を、フィリアが展開した薄氷のような淡いエメラルドの濾過結界が覆い、充満する致死性の高熱蒸気と一酸化炭素を辛うじて遮断していた。
「……ここです。この直上が、下層居住区の最外縁――第4排水集積路です」
ルシアンが指し示した先、天井に厚い鉄格子が嵌め込まれていた。
赤錆と煤で固着したその格子へ、リンが無言で手をかける。足腰の重心を低く落とし、掌底を格子の中央へ密着させると、青白い闘気が指先から静かに浸透した。
甲高い破断音すら立てず、腐食したボルトと留め具が内側から粉々に砕け散る。リンは外れた円形の鉄蓋を軽々と受け止め、泥水の中へと静かに沈める。
「よし、行けるぜ。アリア、頭上に注意しな」
「了解よ。……行くわよ」
アリアが跳躍し、左腰の『蒼水直剣アルビオン』の鞘が壁に触れぬよう手で押さえながら、暗渠の開口部から地上へと身軽に這い上がった。
続いてリン、ルシアン、フィリアが次々と路地裏の影へと滑り込む。
地上へ出た瞬間、四人の嗅覚と肺腑を襲ったのは、鼻腔が焼け焦げるような鉱石油の臭気と、重油が不完全燃焼を起こした濃密な煤煙だった。
「……っ、これは……酷い空気ね……」
アリアは思わず口元を手甲で覆い、菫色の瞳を細めて周囲を見回した。
そこは、昼間であるはずの陽光が一切届かない、漆黒と赤錆に閉ざされた異形の迷宮だった。
見上げる天蓋は、都市内部に林立する無数の巨大煙突から吐き出される黒煙によって完全に覆い尽くされ、昼夜の感覚を喪失させるような薄暗い黄昏色が広がっている。
降り注ぐのは雨ではなく、空気中を絶え間なく漂う微細な火の粉と、粉雪のように降り積もる黒い火山灰の粉末。
路地の両脇に連なっているのは、赤錆びたトタン板と廃棄された装甲板を継ぎ接ぎして建てられた、今にも崩れそうな粗末な長屋群だった。
軒下には洗濯物どころか、煤で真っ黒に変色した耐火麻布の切れ端が垂れ下がり、排水溝には冷え固まった高炉スラグのドロドロとした泥が堆積している。
そして何よりも四人の胸を締め付けたのは、その狭い路地を行き交う人々の姿だった。
すれ違う工員たちは、誰一人としてまともな衣類を身につけていない。
飛び散る火の粉によって無数の穴が空いた、ボロボロの作業着。露出した首筋や腕の皮膚には、何度洗っても落ちることのない黒い煤と油汚れがタトゥーのように深く染み付き、幾重もの火傷のケロイドが赤黒く引き攣れている。
防塵マスクの支給など受けていないのか、口元には泥水で湿らせただけの薄汚れたボロ布をきつく巻き付けていた。
通路の片隅から、深く湿った咳の音が絶え間なく響いてくる。
壁に背を預けて座り込んでいる老人は、鉱石の粉塵を吸い込み続けたことで肺を侵される「黒肺病」を患っているのか、呼吸をするたびに喉の奥をヒューヒューと鳴らし、胸を押さえて激しく身悶えていた。
その隣を、自身の体重の倍はあろうかという鉄鉱石を満載した荷車の引き綱を、骨が浮き出るほど痩せ細った男たちが、泥水を跳ね上げながら引いていく。
重い荷を背負い続けた年月の長さを物語るように、彼らの背骨は異様な角度で弓なりに曲がり、視線は濁った足元の泥だけを見つめていた。
「おい、ぐずぐずするな! 本日の第三高炉の搬入ノルマに届かなければ、夜の希釈配給水は全額カットだぞ!」
辻の向こうから、耐熱革の軍服を着たブラント家の現場監督官の罵声が飛ぶ。
皮肉にもその背後、狭い路地の隙間から、顔中を煤だらけにした10歳にも満たない少年少女たちが、高炉の狭い通気ダクトの清掃作業を終えて煤塗れのブラシを抱え、怯えたように這い出てくるのが見えた。
人間として扱われていない。火薬と大砲を大量生産するための、使い捨ての部品――。
「……酷い」
フィリアが聖杖を胸の前で抱きしめ、エメラルドの瞳を潤ませて唇を震わせた。
「神樹の恵みを受け、栄華を誇ると謳われた帝国の都市が……こんな、地獄のような場所だったなんて……」
「エスチュアリーのスラムも底辺だったが、ここはもっと質が悪りいぜ」
リンが八重歯をギリと強く噛み鳴らし、両拳を固く握りしめた。その視線は、痩せ細った体で重い鉱石箱を背負い、足をもつれさせながら歩く同年代の少女に向けられている。
「あいつらは、人を人とも思っちゃいねえ。あの大砲をぶっ放して威張るためだけに、この街の人間を丸ごとすり潰して燃料にしてやがるんだ」
「ええ。これが【火の門閥】ブラント家が築き上げた、軍需独占の真の姿です」
ルシアンが眼鏡のブリッジを押し上げ、冷え切った声で告げた。青年が視線を向けた遥か高台――黒煙の層を突き抜けた都市の最上層には、純金と耐火白大理石をふんだんに用いた、絢爛豪華を極めるブラント侯爵家の巨大な宮殿要塞が、下界の泥濘を見下ろすように冷ややかに聳え立っていた。
光と影、搾取する者とすり潰される者。
その残酷な断絶を目の当たりにし、アリアは左腰の『蒼水直剣アルビオン』の柄を、革の手甲が軋むほど強く握りしめた。
「……絶対に、許せないわ」
アリアの菫色の瞳に、静かで、だが決して消えることのない激しい憤りの火が灯る。
「こんな理不尽の上に成り立つ国が正しいはずがない。……あたしたちは、あの魔王を止めるだけじゃない。こんな世界を作り変えなきゃいけないんだわ」
アリアが決意を口にした、その時だった。
要塞の頂に設置された巨大な警報重鐘が、耳をつんざくような甲高い鉄鳴りを上げて一斉に鳴り響いた。黒煙に覆われた街の空気が、一瞬にして凍りつく。
「敵襲だーっ! 灰翅族の急降下部隊が防空線を突破したぞ!」
「総員、対空防護態勢! 重砲兵団は対空迎撃弾頭を装填せよ!」
私兵たちの怒号が響き渡り、逃げ惑う工員たちの悲鳴が路地裏を埋め尽くす。
四人が一斉に見上げた天蓋の黒煙――その裂け目から、金属質の翼を広げた巨大な影が、目も眩むような速度で下層街へ向けて急降下を開始していた。
(第二節へ続く)




