第十七話:『焦熱の号砲と進軍の進路』第二節:焦熱のカルデラと、黒煙の門閥
アルス大河の穏やかな支流から、暗渠を抜けて南西カルデラ荒野へと足を踏み入れた瞬間、世界の色と大気の質感が劇的に変貌した。
湿潤な汽水域の冷気は跡形もなく消え去り、皮膚の表面から急速に水分を奪い去る焦熱の熱波が、四人の肌を容赦なく叩く。鼻腔の粘膜をチリチリと刺すのは、吸い込むだけで肺胞が引き攣りそうになる硫黄と二酸化硫黄の強烈な刺激臭。頭上を覆う天蓋の空は澄み切った青を失い、滞留する微細な火山灰と黒煙によって、昼間でありながら薄暗い赤褐色に濁り切っていた。
「……っ、暑い……! なにこれ、息をするだけで喉が焼けそうなんだけど……!」
小型ボートを引き揚げて岩場に足をついたアリアが、思わず眉をひそめて手首で額の汗を拭った。
足元には、真っ黒なガラス質の光沢を放つ鋭利な黒曜石と、赤錆色に焼けた多孔質の火山礫がどこまでも敷き詰められている。踏み締めるたびに、革の靴底からチリと微かな焦げた匂いが立ち上った。地表に走る無数の亀裂の奥底からは、濃度の高い熱気が陽炎となって立ち昇り、遠くの景色を歪んだ水底のように揺らめかせている。植物の青さは一切存在せず、剥き出しの溶岩が冷え固まっただけの、殺伐とした大地の暴力。
「フィリア、無理しないでね。気分が悪くなったらすぐ言いなさいよ」
「はい、アリア様……。ですが、神樹の排液のような腐った毒気とは違い、大地の純粋な熱の息吹を感じます。簡易の濾過結界を張っておりますので、呼吸は十分に保てます」
フィリアは聖杖の先端に淡いエメラルドの光を灯し、微細な灰を弾く薄い球状の膜を四人の周囲に巡らせていた。その隣では、リンが首筋の汗を無造作に手の甲で払い落とし、足元の黒曜石をブーツの先で軽く蹴飛ばしている。
「へっ、とんでもねえ悪路だな! 踏み込みの力を全部吸われちまいそうなジャリ山だぜ」
「足元に注意しなさい、リン。この黒曜石質の砕石は刃物と同じです。不用意に転倒すれば皮膚を容易く裂かれますよ」
ルシアンは額から滲み出る汗で滑り落ちそうになる眼鏡を几帳面に押し上げ、手元の青革のグリモワールを開いた。銀縁眼鏡の照準器をカシャリと展開させる。レンズの内側に、外輪山の等高線と地熱の励起反応が、整然とした青白い数値となって次々と更新されていく。
「ルシアン、ここはもうブラント家の領地なの?」
アリアが左腰に佩いた『蒼水直剣アルビオン』の柄頭に手を添えながら尋ねると、青年は息を整え、淡々と解説を始めた。
「ええ。この赤色カルデラ山脈の全域が、【火の門閥】ブラント家が私有する軍事緩衝地帯です。……帝国の国政を牛耳る四大門閥の中でも、彼らの発言力と武力は群を抜いています。理由は極めて単純、帝国正規軍が配備している重火器および火薬の実に七割を、このブラント家一族が独占供給しているからです」
ルシアンはグリモワールの上空に、南西カルデラの立体構造図を魔導光で投影した。
「ヘパイストスは、活火山の巨大な火口原に築かれた炉壁都市です。彼らは神樹の根が吸い上げる強烈な地熱エネルギーと、このカルデラ特有の高純度硫黄、そして超耐熱鉱石を融合させ、帝国の火薬魔導の技術基盤を完全に牛耳っています。徹甲弾頭、大型魔導重砲、要塞装甲――帝国が誇る物理戦力の中核は、すべてあの街の溶鉱炉から吐き出されているのですよ」
「要するに、人殺しの道具を大量生産して大儲けしてる戦争成金ってわけかい」
リンが吐き捨てるように言うと、ルシアンは冷淡に頷いた。
「ええ。ブラント家は代々、極めて好戦的な家風で知られています。軍拡を煽り、下層の平民を安価な工員として昼夜を問わず高炉で酷使し、莫大な富を築き上げてきた。……ですが、僕たちがここへ向かった最大の理由は、彼らの倫理観を断罪するためではありません」
ルシアンは眼鏡の奥のネイビーブルーの瞳を細め、視線を険しいカルデラの稜線へと向けた。
「白亜防護壁の頂で、あの魔王が振るった自律浮遊する黒鉄の柱……あの規格外の兵装を覚えていますね」
その言葉に、アリアとリンの表情が一気に引き締まった。
「忘れるわけないでしょ。あたしの結界でなんとか相殺できたけれど……あんな防壁の巨石ごと空間を吹き飛ばすような音速の杭、まともに直撃していたら街ごと消し飛んでいたわ」
「そうです。あの兵装は、魔導による現象励起ではなく、超高密度の物理装甲と驚異的な質量運動によって成立していました。……僕の数理演算によれば、あのような異常な硬度と反動制御を可能にする金属精錬技術は、現在のアカデミーの教科書には存在しません。帝国全土を探しても、あれほどの質量兵器を形にできる高炉と設備を持つ場所があるとすれば――このブラント家の炉壁都市ヘパイストスをおいて他にないのです」
ルシアンは手帳のページを指先でめくり、眉根をわずかに寄せた。
「それに……アカデミーの公的記録を洗った際、不可解な点がありました。ブラント家の開発史には、約百年前の特定の時期にだけ、火薬工学と金属理論が爆発的な飛躍を遂げ、その直後に不自然な記録の断絶が存在するのです。……あの街には、あの黒鉄の柱を成立させている技術の原点、あるいは奴の兵装を解き明かすための工学的な手がかりが必ず眠っています」
理路整然としたルシアンの推論に、アリアは頼もしそうに頷いた。
だが、その横で、リンは自らの両拳をじっと見つめていた。手首から拳にかけて硬く巻き上げられた、使い慣れた白のバンデージ。少女はふっと息を呑み、八重歯が覗く唇をギリと痛いほど噛み締めた。爪先が手のひらに深く食い込むほど、その拳がきつく握りしめられる。いつもは快活で恐れを知らない琥珀色の瞳が濃い影に覆われ、前衛としてアリアを守りきれなかった無力感と悔しさに、鼻梁をキュッと引き攣らせていた。
「……解明できたとして、だ。問題は、あの硬さをどうやってぶち破るかだ」
低く絞り出すようなリンの呟きに、ルシアンが視線を向ける。
「リン?」
「あたしの拳の話だよ。あの防壁の上で、あたしは拳を打ち込むことすらできなかった」
リンは悔し涙を押し殺すように奥歯を強く噛み鳴らし、自らの手首を骨が軋むほど強く掴んだ。
「……わかるんだよ。あの黒鉄の柱は、ただ硬いだけじゃねえ。あの硬度の塊を今のあたしが真正面から殴ったら、相手を砕く前に、反動で自分の腕の骨が粉々に弾け飛んじまう。あたしの拳が通用しなきゃ、アリアの背中を守れねえ。……何としても、あの装甲をぶち破るための手立てを、あの街で見つけ出さなきゃならねえんだ」
弱音ではない。己の無力さを痛いほど噛み締め、それでも前へ進むために強さを渇望する、拳闘士の剥き出しの執念。
アリアはリンの悔しさに満ちた横顔を見つめ、その肩へポンと優しく、だが力強く手を置いた。
「大丈夫よ、リン。あたしたち四人で見つけるのよ。……あの魔王の厚い装甲をぶち抜いて、世界の欺瞞を暴くための道をね」
「……へっ。当たり前だ。ルシアンの横面張った手前、あたしが立ち止まるわけにはいかねえからな」
八重歯を覗かせ、無理やりにでもいつもの不敵な笑みを作ってみせるリン。その強がりに、ルシアンは呆れたように小さく肩をすくめてみせた。
「まったく……僕の頬の痛みを無駄にしないでくださいよ」
熱波を孕んだ突風が吹き荒れ、四人のマントを激しく揺らす。微細な火の粉がカルデラの稜線を越えて舞い落ちる中、一行は岩壁の切り通しを抜け、山頂の尾根へと躍り出た。
その瞬間――四人の視界を、圧倒的なまでの黒と赤の異様が埋め尽くした。
(第三節へ続く)




