第十七話:『焦熱の号砲と進軍の進路』第一節:朝霧の朝餉と、ガラの餞別
夜明け前の濃い藍色が、東の水平線から差し込む乳白色の朝光に溶けていく。
エスチュアリーの干潟を覆っていた重たい海霧は、引き潮の気流に押されて薄くたなびき、無数に突き立つ黒マングローブの気根を濡らしていた。
潮の満ち引きに合わせて軋む木造桟橋の奥、黒潮互助会の炊事場を兼ねた板張りの土間から、食欲を鋭く刺激する香ばしい匂いが立ち上っている。
粗末な丸太卓を囲んでいたのは、旅立ちの身支度をあらかた終えた四人だった。
「んんーっ! 胃の腑に染み渡るわね……! やっぱり干潟の汁物は最高だわ!」
アリアは湯気を上げる素焼きの椀を両手で包み込み、熱い汁を一気にすすって喉を鳴らした。椀の中で口を開けているのは、干潟の砂泥で育った大ぶりの黒蜆。
殻から煮出された濃厚な白濁スープは、昆布にも似た海藻の出汁と素朴な天然塩だけで調味されており、疲労の残る身体の隅々へ滋養となって染み込んでいく。
アリアの横には、炭火で香ばしく炙られた汽水魚の干物が、骨まで食べられるほどじっくりと火を通されて皿に盛られていた。日頃の過酷な鍛錬と『蒼血』の凄まじい生体代謝を誇るアリアは、山盛りの麦飯をリスのように両頬いっぱいに頬張り、満足げに菫色の瞳をとろけさせている。
その左腰には、旅立ちに備えて手入れの行き届いた『蒼水直剣アルビオン』が、革の帯具でしっかりと佩かれていた。丸太椅子に腰掛けても邪魔にならぬよう鞘の角度を自然に逃がしており、いつでも親指で鯉口を切れる位置に保たれている。対となる右太もものホルダーには、大聖堂のバルコニーでドレスを切り裂くのに用いた儀礼用の白銀短剣が、即座に抜ける予備兵装としてしっかりと固定されていた。
「ほらモヤシ、箸を止めてんじゃねえよ! 朝飯を食わねえ奴から先に野垂れ死ぬんだからな!」
隣では、袖を捲り上げたリンが、豪快に八重歯を覗かせながらルシアンの椀へ焼き魚の身と麦飯を山盛りに放り込んでいた。自身も丼を抱え込み、魚の干物を頭からバリバリと噛み砕いて豪快に飲み込んでいく。
「ちょっ……待ちなさい、リン! 椀から飯が雪崩を起こしています! だから僕は一度にそれだけの炭水化物を消化できる胃袋を持ち合わせていないと――」
「四の五の言わずに胃袋へ詰め込みな! 昨日の夜、あたしの鍋を食って少しは血色が戻ったんだからよ、旅の途中でぶっ倒れられたら迷惑なんだよ!」
「昨夜の鍋とこの朝食の過剰摂取は力学的に別問題です! ああもう、せっかくの出汁の塩分濃度が台無しだ……!」
青筋を立てて抗議しながらも、ルシアンは手巾で眼鏡の位置を直すと、突き出された椀を乱暴に受け取って匙を口へ運んだ。文句を並べ立てながらも、匙を動かす手は止まらない。
昨夜、リンに横面を張られ、不器用な鍋を胃に流し込まれたことで、青年の表情からは学術エリート特有の冷淡な壁が剥落し、どこか人間味のある不服そうな顔つきへと変わっていた。
その様子を、卓の向かいで白米を上品に咀嚼していたフィリアが、愛おしそうに見つめていた。
桜金色のサイドテールを小さく揺らし、エメラルドの瞳を三日月形に細める。
「ふふっ……皆さん、本当にお元気ですねぇ。昨夜の重苦しさが嘘のようです」
「フィリア、あんたももっと食いな! ほら、この魚の一番脂が乗ったハラスのところ、美味いぜ!」
「まあ、ありがとうございます、リン様。……本当に、美味しくて温かいですね」
道具としてではなく、生きている一人の少女として仲間と同じ飯を分け合う温もり。フィリアは両手で小さな魚の身を受け取ると、柔らかく微笑んで口元をほころばせた。笑い声と香ばしい湯気が、夜明け前の冷え切った小屋の空気を、確かな連帯感で満たしていく。
やがて全員の皿が綺麗に空になり、ルシアンが食後の一杯の白湯を飲み干した、その時だった。
ギイ、と軋んだ音を立てて板戸が押し開かれた。踏み込んできたのは、潮風と魚油の匂いを纏った女性――黒潮互助会の頭、ガラ。
幾多の荒波を越えてきた者特有の、鋼のような芯を感じさせる立ち姿。潮風に焼かれた顔立ちには深い年月が刻まれ、その鋭い双眸は、ただ静かに部屋を見回すだけで場を引き締める威圧感を湛えていた。
その手には、荒縄で縛られたずっしりと重い木箱と、端が煤けて変色した一本の古い羊皮紙が抱えられていた。
「……腹は満ちたかい、雛鳥ども」
低くかすれ、煙草と塩の香りを孕んだよく通る声で、ガラは卓の上へ木箱と羊皮紙をドンと無造作に下ろした。
「ガラさん、これは……?」
アリアが身を乗り出すと、女頭は不敵に口角を持ち上げ、木箱の蓋を指先で叩いた。
「干潟の泥抜き魚の燻製と、天日干しにした魔獣の干し肉だよ。……神水の甘やかしで腹を下す帝都のひ弱な軍糧とはわけが違う。荷物の底に突っ込んでおきな」
木箱の隙間から、燻煙とハーブの引き締まった香気が漏れ出す。過酷な泥濘と自然の荒波を生き抜いてきた、互助会秘伝の保存食。
さらにガラは、卓の上に広げた古い羊皮紙を、節くれだった無骨な指先で強く押さえた。
「それから、こいつを持っていきな。……お前さんたちが目指す南西のカルデラ、ヘパイストスへ抜けるための旧水路図だ」
ルシアンが瞬時に反応し、銀縁眼鏡の照準器をカシャリと展開させて紙面を覗き込んだ。レンズの内側に、描かれた水路の勾配と標高差が青白い幾何学コードとなって投射される。
「……これは、帝国の公式地図には記載されていない暗渠ですね。大河の南西支流から、活火山の外輪山をくり抜いて通されていた古代の放水路バイパスか」
「そうだ。かつてアタイらが、帝国の密輸取締まりの目を盗んで塩や鉱石を運んでいた抜け道さ」
ガラは懐から細身の煙管を取り出して燻らせ、紫煙を細く吐き出しながら、アリアの左腰に佩かれた『蒼水直剣アルビオン』をじっと見据えた。
「……表の大動脈を船で進めば、ポルト・ヴェルデをぶち破られて狂乱した帝国軍の厳戒態勢に引っかかる。だがこの旧導水路を辿れば、南西の火山帯の裾野まで船で一気に抜けられるはずだ」
「ガラさん……どうして、ここまでしてくれるの?」
アリアの問いに、ガラは煙管の吸い口を噛み、フンと喉を鳴らした。
「勘違いするんじゃないよ。お前さんたち皇族のおままごとに手を貸してるわけじゃない。……ただ、あの防壁で起きたことの不自然さに、アンタたちが一番引っかかっている顔をしていたからさ」
ガラは煙管の灰を足元へ叩き落とすと、アリアを真っ直ぐに射すくめた。
「軍の拠点だけが叩き潰され、この泥水のスラムには傷一つつけられなかった。あの化け物が何を考え、何をしようとしているのか……お偉い神官どもが捏造した教科書の嘘っぱちなんざ信じるんじゃないよ。ここで起きたこと、そして世界の本当の姿を、お前さんたちのその足と、その目で確かめてきな」
ぶっきらぼうだが、骨の髄まで熱い下町の女頭の餞別。
アリアはギュッと自らの両拳を握りしめ、背筋をすっと伸ばして深く頭を下げた。
「……ええ。行ってくるわ、ガラさん。あたしたちの目で、全部見てくる!」
「おうよ! 最高の置き土産、ありがたく使わせてもらうぜ!」
リンが木箱を軽々と担ぎ上げ、ルシアンが丁寧に羊皮紙を丸めてグリモワールの中へと収める。フィリアが聖杖を胸元で抱き直すと、四人は迷いのない足取りで小屋を後にした。
桟橋の突端、係留されていた小型ボートへ乗り込む。朝霧が晴れ上がり、水平線の彼方から差し込んだ黄金の陽光が、泥濘の海面を白銀に照らし出していた。
「出すわよ! 目指すは南西――火の門閥ヘパイストス!」
アリアの号令とともに、ボートの舳先が力強く澪筋を切り裂いた。欺瞞に塗れた帝国の暗部を抉り出すための、新たなる進軍が、いま始まった。
(第二節へ続く)




