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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第十六話:『敗北の夜と凸凹の絆』 第二節:鉄拳の叱咤と、不器用な鍋

いつも読んでいただきありがとうございます。

最期に本エピソードの4コマ漫画つけました!合わせてお楽しみください。

 吹き込んできた夜風とともに、部屋の空気が一気に跳ね上がった。

 板戸を蹴破るようにして踏み込んできたのは、道着の袖を無造作に捲り上げたリンだった。 その両手には、荒縄で吊るされた年季の入った黒い鉄鍋が握られている。 煮えたぎる出汁の熱い湯気と、干潟の泥抜き魚、そして粗塩の香ばしい匂いが、淀んでいた小屋の空気を力づくで塗り替えていく。

 部屋の隅で膝を抱えていたルシアンが、顔を上げて眉根を寄せた。

  「……リン。扉くらい静かに開けられないのですか。大体、その下品な湯気は――」

 言葉は、最後まで紡がれなかった。

  踏み込みの足音が床板を激しく踏み抜いた刹那、リンの右の手のひらが、ルシアンの左頬へと容赦なく振り下ろされた。 乾いた打擲の音が、狭いあばら家に鋭く響き渡る。

 手加減された平手打ちとはいえ、下町の地下リングを素手で勝ち抜いてきた少女の剛腕だ。 ルシアンの顔面が真横へと弾かれ、銀縁眼鏡が鼻筋から大きく傾いて床板へと滑り落ちた。

「――っ、な……にを……!?」

 赤く腫れ上がった頬を手で押さえ、ルシアンは目を丸くして息を呑んだ。

 視界がぼやける中、目の前に仁王立ちとなったリンの琥珀色の瞳が、夜の野獣のように爛々と怒りの光を宿して見下ろしている。

「ウジウジ、ウジウジと……! さっきから隙間風に乗って聞こえてくるのが、負け犬の小言ばっかりじゃねえか!」

 リンは床に鉄鍋を乱暴に下ろすと、ルシアンの仕立ての良い上着の襟首を、両手で力任せに鷲掴みにして引き上げた。 長身の身体が無理やり前へと引きずり出され、二人の鼻先が触れ合うほどの至近距離で視線が激突する。

「僕の何が分かるというのです……!」

  ルシアンもまた、侮辱されたエリートの誇りを剥き出しにして、奥歯を噛み締めながら睨み返した。

「あの防壁の上で、僕の三十重障壁は紙屑のように消し飛ばされた! 殿下の放つ透明な力すら、僕の数理では拾い上げることすらできない! 参謀を気取っておきながら、あの怪物を前にして何の勝機も導き出せなかった僕の無力さが、貴女のような野蛮人に理解できるはずがないでしょう……!」

「あァ!? 誰がそんな小難しい計算の話をしてんだよッ!」

 リンの怒号が、至近距離からルシアンの鼓膜を震わせた。

 少女は襟首をさらに強く引き絞り、八重歯を剥き出しにして吠えた。

「勝手にひとりで背伸びして、勝手にひとりで負けた気になってんじゃねえ! あの防壁の上で、誰が足場を作ってあたしらの突進を合わせたと思ってんだ! 誰が水門のバイパスを見抜いて、逃げ道を計算したと思ってんだよ!」

「それは……最低限の計算であって――」

「アンタがいなきゃ、あたしもアリアも、あの濁流の底で挽肉になって魚の餌になってたんだよッ!!」

 叩きつけられた言葉に、ルシアンの喉が詰まった。 反論の論理を組み立てようとする頭脳が、目の前の少女の剥き出しの熱量に圧されて白く弾け飛ぶ。

「敵が規格外の化け物で、アンタの頭が追いつかねえってんなら……あたしのこの拳を足し算しな! アンタの頭で足りねえ分は、あたしが真っ向から殴り倒して穴を開けてやる! その代わり、あたしの頭で考えられねえ先は、アンタが後ろから道を作れ!」

 リンは襟首を乱暴に離すと、親指で自らの引き締まった胸元をドンと叩いてみせた。

「あたしらは、アンタの教科書を褒めるために一緒にいるんじゃねえ。生きて泥水を啜って、次の飯を食うために背中を預け合ってんだ。……それが仲間ってもんだろうがよ!」

 胸を突くような言葉の重みに、ルシアンの唇が微かに震えた。 アカデミーの教授たちも、門閥の貴族たちも、自分を「使える頭脳」か「使えない無能」かの二者択一でしか測ろうとしなかった。

 計算が狂えば失脚し、役に立たなければ切り捨てられる。

 そんな冷たい評価の檻の中で必死に背伸びしてきた自分に対し、この少女は、「足りないなら私の拳を足せ」と、あまりにも不器用で真っ直ぐな力技で存在を肯定してきたのだ。

 呆然と立ち尽くすルシアンの足元へ、リンは木製の不格好なスプーンを握りしめ、鉄鍋からすくい上げた熱々のスープを無理やり突き出した。

「ほら、口開けな! 冷めちまったら不味くなるだろ!」

「ちょっ……熱っ、待ちなさい、自分で――んぐっ!?」

 抗議する間もなく、具だくさんの熱い出汁が口の中へと強引に流し込まれた。

 熱さと驚きでルシアンは盛大にむせ返り、涙目になって胸元を押さえた。

 だが、舌の上を駆け抜けたのは、ガラが手渡してくれたという、干潟の泥抜き魚の濃厚な脂と、素朴な天然塩の深い旨味だった。 胃壁を直撃する熱い刺激が、疲労と緊張で凍りついていた青年の内臓を、芯からじんわりと解きほぐしていく。

「……げほっ、ごほっ……! な、何をするのです、乱暴な……!」

 涙を拭いながら、ルシアンは床に落ちていた眼鏡を拾い上げ、歪んだフレームを鼻筋へと掛け直した。 赤く腫れた頬と、熱いスープのせいで、青年の耳たぶまでが真っ赤に染まっている。 青年は木製スプーンを自らの手で握り直すと、立ち上る白い湯気を見つめ、居心地悪そうに視線を泳がせた。 何かを言いかけては躊躇うように唇を引き結び、わずかな沈黙が落ちる。 それから、照れ隠しのように小さく息を吐き捨てて、呟いた。

「……大味すぎますよ。……リン」

 普段の憎まれ口の裏に隠された、掠れるような声音。 いつも呼んでいた「野蛮人」ではなく、不器用に、だが確かに心の奥底からの感謝を込めて零れ落ちたその響きに、リンの琥珀色の瞳が丸く見開かれた。

 直後、少女の表情から険しさがふっと抜け落ちた。

 道場で手のかかる弟たちの面倒を見てきた時のように、少し呆れたような、情けなさに苦笑するような柔らかな眼差し。

 だが、その奥には――自分たちを生かすために身を削って知恵を絞り、泥をかぶって立ち上がろうとする一人の男の気骨を、確かに認めて受け止めた熱が静かに宿っていた。

 野性味の奥に覗いたその複雑で温かな眼差しに、リン自身もどこか気恥ずかしさを覚えたのか、ふいと横を向いて腕を組んだ。

「……へっ。文句垂れる元気が戻ったなら上等だ。残さず全部平らげな」

「言われなくても平らげます。……ですが、魚の小骨くらいは丁寧に外してから煮込みなさい。喉に刺さったらどうする気ですか」

「あン? 骨ごとかみ砕きゃあカルシウムになんだろ。細かいこと気にしてっから胃を壊すんだよ、モヤシ」

「カルシウムなどという雑な栄養論で胃粘膜を破壊されてたまるものですか。……まあ、塩加減だけは、悪くありませんがね」

「……ふん。最初からそう言やいいんだよ」

 悪態を突き合いながらも、狭いあばら家を満たす空気には、先刻までの凍てつくような絶望はもう欠片も残っていなかった。 湯気の向こうで交わされる不器用なやり取りを背にして――

(第三節へ続く)

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 リン・ルシアンSD4コマ

挿絵(By みてみん)


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