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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第十六話:『敗北の夜と凸凹の絆』 第一節:沈黙のあばら家と、数理の挫折

 潮が満ち始めた澪筋の水音が、板張りの隙間から這い上がっていた。

 黒潮互助会が提供してくれた水上宿舎は、波に洗われて朽ちかけた廃船の竜骨を土台にして組まれた、粗末な掘っ立て小屋だった。吹き込む夜風は塩気を孕んで冷たく、天井から吊り下げられた魚油ランプの芯を弱々しく揺らし、壁に歪んだ影を落としている。

 部屋の片隅、魚の塩漬け樽を積み上げた影で、ルシアンは膝を抱えるようにして座り込んでいた。

 膝の上には、開かれた青革のグリモワール。

 その見開きの頁には、極細の魔導インクで何十段にも及ぶ多重幾何学方程式と、防壁戦におけるマナ波形の観測記録がびっしりと書き殴られている。

 だが、書き連ねられた数式の終端には、解を示す等号の代わりに、乱暴な横線と疑問符が無数に重ねて引かれていた。 インクで汚れた鉄ペンを握る指先が、白くなるほど強く食い込んでいる。

「……通用しない」

 掠れた呟きが、誰に届くこともなく床板の隙間へ落ちた。

「僕の数理が間違っているわけではない。……変数の規模が、人間の理論限界を遥かに超えて狂っているんだ」

 ルシアンは歪んだ眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、激しい熱を帯びた自らのこめかみを強く押さえた。頭蓋の奥で、膨大な演算処理の残熱が焼きつくように疼いている。帝立アカデミーを歴代最年少で首席卒業した自負。 四元素の励起力学を完全に理解し、あらゆる現象をミリ秒単位の数理のもとに統御できると信じて生きてきた。 門閥貴族の無能どもが血統にあぐらをかいて笑う中で、己の知性と計算だけを唯一の武器にして、泥を啜るようにして築き上げてきた誇り。 あの防壁の上で、ルシアンはそのすべてを総動員して張り合おうとしたのだ。

 だが――突きつけられた現実は、あまりにも無慈悲だった。

 ルシアンが全神経を削り、アカデミーの最高理論を注ぎ込んで編み上げた三十重の幾何学多重障壁。

 それを、あの魔王は呪文の詠唱すら介さず、ただ指先を軽く振るっただけで、薄紙を裂くように消滅させてみせた。数理が否定されたのではない。相手の質量、速度、そして空間への干渉規模が、こちらの計算領域を丸ごと消し飛ばすほどに規格外だったのだ。人間が一生をかけて積み上げた理論の物差しでは、あの怪物の爪先すら測ることができない。

 そして――何よりもルシアンのプライドを激しく軋ませていたのは、アリアの存在だった。

「……力を抜いて、すっと通るだけ、ですか」

 桟橋で少女がケロッと言い放ったその言葉を反芻し、ルシアンは悔しげに奥歯を噛み締めた。数十万トンの運動エネルギーを誇る音速の破城杭を、物理演算の介入する余地すらなく、ただ透明な波紋ひとつでゼロへ回帰させてしまったあの現象。四元素の励起反応なし。魔素の干渉なし。アカデミーの大図書館の禁書区画にすら一行の記録もない理外の奇跡を、目の前の少女は「子供の頃から当たり前にやっていたこと」として片付けてしまった。

 対等に肩を並べ、参謀として道を切り拓くはずだった。どれほど理不尽な敵であれ、自分が知性で穴を見つけ、仲間を導く盾になるつもりだった。

 それなのに――魔王の圧倒的な質量にも、アリアの無自覚な規格外にも、自分の演算速度は爪先ほども追いつかない。背伸びをして、必死に手を伸ばして張り合おうとすればするほど、相手の底知れぬ深淵に呑み込まれ、息が詰まりそうになる。

「……追いつけない。僕の頭脳では……あの領域に届かないのか……!」

 ルシアンは手元の頁にペン先を突き立て、黒いインクの染みをじわりと広げた。胸ポケットの胃薬の包みが、浅い呼吸に合わせて小さく擦れる。あの防壁の上で、アリアが飛び出し、リンが拳を振るい、フィリアが命を繋ぎ止めていた時、自分は何ができたのか。ただ眼鏡の奥で数理の限界に戦慄し、立ち尽くすことしかできなかったではないか。

 このままでは、仲間を守るどころか、ただ後方で理屈をこね回すだけの傍観者に成り下がってしまうという強烈な焦燥感が、冷たい泥水のように胃の腑を満たしていく。

「……どう計算すればいい。何を足せば……あの領域に対抗できるんだ……」

 答えの出ない数式に縋り付き、青年が激しい熱に浮かされたように項垂れた、その時だった。

 あばら家の粗末な板戸が、激しい勢いで蹴破るように跳ね開けられた。

(第二節へ続く)


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