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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第十五話:『黒潮互助会の痕跡と奇妙な平穏』 第三節:夕暮れの桟橋と、数理の亀裂

 解体場の生臭い喧騒を背に駆け抜けたアリアの足元で、木造の浮き桟橋が軋んだ音を立てて小さく揺れていた。

 エスチュアリーの最外縁、外海へと伸びる澪筋の先端。 波打ち際に突き出た角材の手すりに両手を預け、アリアは立ち止まって息を吐いた。

 視界の西、帝都が聳える内陸の空は、人工の天蓋結界が放つ冷淡な魔導光と黄昏が混ざり合い、澱んだ血のような茜色に沈みかけている。

 それはルシアンが信奉してきた宮廷の秩序と学術が、音を立てて落日を迎えているかのような重苦しい光景だった。

 対照的に、東の水平線には、砕かれた水門から猛毒の排液が引き潮とともに抜け去り、剥き出しになった黒泥の干潟の上に、太古の星海を思わせる深い藍色の夜空が立ち上り始めている。 西の落日と、東の夜。 ふたつの世界の狭間で吹き抜ける潮風は、神樹の薬品臭を洗い流すように冷涼で、アリアの白銀の前髪を乱雑に撫で上げていった。

 アリアは手すりから片手を離し、自らの右の手のひらを見つめた。

 白亜壁の上で、あの漆黒の破城杭を静止させた透明な感覚。

 皮膚の内側にはまだ、あの微かな痺れのような余熱が残っている。

 その背後から、板張りを踏みしめる硬質な足音が規則正しく近づいてきた。

「……こんな吹きさらしの場所で、何を黄昏れているのですか。第七皇女殿下」

 振り返らなくても、その声の主は分かっていた。

 青革のグリモワールを脇に抱え、手巾で額の汗を拭いながら歩み寄ってきたルシアンだった。 整った顔立ちには激闘の疲労が濃く滲み、鼻筋の銀縁眼鏡はかすかに歪み、指先には魔導インクと煤の汚れがこびりついている。 胸ポケットから覗く胃薬の包みを神経質に押し込みながら、ルシアンはアリアの隣、手すりから一歩引いた位置で足を止めた。

「リンとフィリアは?」

「互助会の長屋で、温かい雑炊を振る舞われていますよ。……あの二人は実に図太い。怪我を治した途端、底なしの食欲を発揮して鍋を空にしそうな勢いです」

 ルシアンは深く息を吐き捨てると、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。 そのレンズの奥、ネイビーブルーの双眸は、いつもの小言の裏に隠しきれない、刃物のように鋭い知性と切迫感を湛えてアリアを射すくめていた。

「……雑談をしに来たのではありません。単刀直入に伺います」

 ルシアンは抱え込んでいたグリモワールを開き、白紙の頁に走らせた青白い魔導コードの筆跡をアリアへと突きつけた。

「白亜壁の頂で、貴女が展開したあの透明な光膜――あれは何です?」

「何ですって言われても……あたしの盾だけど」

「誤魔化さないでいただきたい!」

 ルシアンの声が、夕暮れの潮風を切り裂いて一段と高く張り詰めた。

「僕のグリモワールに記録された数値を見なさい。火でも、水でも、風でも、土でもない。属性の励起反応すら観測できない。魔素の爆発でも、衝撃の分散でもなく、ただ空間そのものを絶対の平穏で満たし、運動エネルギーそのものをゼロへ回帰させた不可知の現象」

 ルシアンは手元の頁を指先で強く叩いた。 その声には、未知の現象に対する純粋な学術的好奇心と同時に、自らの全存在を否定されかねない底知れぬ戦慄が滲み出ている。

「……ようやく手口が分かりましたよ。あの夜、僕が水水晶の離宮の窓枠に完璧に張り巡らせたはずの『音波振動感知式・多重幾何学結界』を、警報回路すら鳴らさずに消し去って脱走したのも、あの力ですね?」

 アリアは責め立てるようなルシアンの視線を受け止めながら、少しだけ小首を傾げた。 悪びれる様子も、秘密を暴かれて動揺する気配すらもない。 ただ、子供が草木の花を指差すかのような、あまりにも無防備で屈託のない表情だった。

「え? ああ、あの窓の光? ……だってあれ、物心ついた時からずっとそうだったもの。お城の息苦しい結界とか、触ったら勝手に解けちゃうのよ。力を抜いて、すっと通るだけじゃない」

「勝手に解ける……!? すっと通るだけ、だと……!?」

 ルシアンの喉から、掠れた悲鳴に近い息が漏れた。 ルシアンは天を仰ぎ、こめかみを強く押さえて激しい目眩に耐えるように蹌踉(よろ)めいた。

「力を抜いて通るだけですって……!? 帝国魔術学府の大図書館にすら一行の記録もない絶対の特異点ですよ! 先刻の防壁の上で、数十万トンの質量を誇る音速の破城杭を真正面から相殺しておいて、その程度の認識なのですか、貴女は!?」

「だって本当なんだもの。難しく考えたことなんてないわよ」

 アリアはあっけらかんと言い放ち、手すりに背中を預けて腕を組んだ。

 その徹底した自覚のなさに、ルシアンは拳を震わせ、苦い胃液が喉元までせり上がるのを必死に飲み込んだ。 十年間、研究室の暗がりで数式と格闘し、歴代最年少首席を勝ち取った自らの知性が、目の前の少女の「感覚」ひとつで無惨に打ち砕かれていく。

 だが、ルシアンの追及はそれだけでは終わらなかった。 ルシアンは荒い息を整えると、眼鏡の奥の瞳をいっそう冷たく研ぎ澄ませた。

「……それだけではありません。僕の計算を狂わせている変数は、まだ他にあります」

 ルシアンは一歩、桟橋の板を軋ませてアリアへと歩み寄った。

「地下の暗渠で合流した際、貴女の服から漂っていたあの魚の脂の匂い。名物の汽水魚を一人で釣って焼いたなどという、あり得ない嘘。そして何より――白亜壁の頂で貴女があの透明な聖域を展開した瞬間、あの魔王が見せた挙動です」

 ルシアンの声が低く沈み、夜風の冷たさを帯びていく。

「寸分の狂いもなく執行されていた冷徹な攻撃が、貴女の顔とあの光を見た刹那、完全に静止した。感情を削ぎ落としたはずのあの死人のような面貌に、明らかな動揺が走っていたのを僕の眼鏡は見逃していません。軍事目標だけを選別破壊し、スラムの民には傷ひとつつけなかったあの破壊者が、貴女と相対した途端、迷いを生じさせて撤退を選んだのです。……先ほどガラが語った、100年前のアングラーの昔話も含め、あらゆる外因が指し示していますよ」

 ルシアンはグリモワールを胸元で強く抱きしめ、絞り出すように問うた。

「あの魔王は貴女を知っている。そして貴女も、奴を知っている。……殿下、貴女はあの化け物と、一体どういう関係なのですか」

 突きつけられた論理の刃に対し、アリアはすぐには答えなかった。

 アリアは静かに身を翻し、ふたたび東の海を見つめた。 夕陽はすでに西の地平の底へと没し、空の茜色は急速に色褪せ、深い藍色の闇が泥濘の干潟を呑み込もうとしている。 冷たい潮風が、ふたりの足元を吹き抜けていく。

「……あたしだって、頭じゃ何一つ分かってないわよ」

 ぽつりと落ちたアリアの声は、先刻までの快活さを潜め、透き通るような静けさを帯びていた。

「あの人が何者かなんて、説明できるわけないじゃない。名前だって知らないし、どうしてあんな恐ろしい姿をしているのかも分からないわ」

「なら、なぜ――」

「でもね、ルシアン」

 アリアは振り返り、真っ直ぐにルシアンの瞳を見据えた。

 夜の気配を宿した菫色の双眸の奥に、揺らぐことのない純粋な光芒が灯っている。

「あの暗渠の底で、火を熾して魚を焼いてくれたあの手は……ちっとも冷たくなかったのよ」

「……っ」

「骨を丁寧に外して、一番柔らかいところをあたしに差し出してくれたあの不器用な手は、すごく温かかった。それに……防壁の上で目が合った時、あの人の瞳は、国が言うような世界を滅ぼす悪魔の目なんかじゃなかったわ」

 アリアは胸元に手を当て、自らの心臓の鼓動を確かめるように指先を握りしめた。

「ずっと一人きりで凍え切って……誰かに助けてほしいって、今にも泣き出しそうな目だった。あたしには、それだけで十分よ」

「……非論理的だ」

 ルシアンの唇から、掠れた拒絶が零れ落ちた。

「温もりだの、泣きそうな目だの……そんな主観的な感情論で、世界を均そうとする災厄を推し量れるはずがないでしょう! 現象にはすべて原因と数理が存在する! 敵の正体も意図も数値化できないまま、感情で納得するなど……僕には理解できませんよ……!」

 ルシアンは手元の頁に指を食い込ませ、悔しげに奥歯を噛み締めた。 理屈で論破したいのに、言葉が続かない。 自らの信じてきた学術と計算が、泥濘を踏みしめて立つ少女の真っ直ぐな体温の前に、手も足も出ずに立ち尽くしている。

「理解なんてしなくていいわよ」

 アリアはふっと柔らかく微笑み、手すりから背中を離した。

「あたしたちの武器は、あんたのその優秀な頭脳と、あたしのこの頑丈な足腰でしょ? だったら、頭で分からないことは、あたしがこの足で確かめに行くだけよ」

 そう言い残し、アリアは身軽な足取りで桟橋を歩き出した。 長屋の窓から漏れ聞こえるリンの豪快な笑い声と、フィリアの柔らかな呼び声が待つ場所へと戻っていく。

 取り残された桟橋の突端、ルシアンはひとり、夜の闇に沈んだ干潟を見つめて立ち尽くしていた。 手元のグリモワールに刻まれた美しい幾何学の数式たちが、冷たい夜風に吹かれて、ひどく頼りなく揺らめいていた。

(第十五話 完 / 第十六話へ続く)


15話完結です。

昨日アップし忘れていたエピソードがありましたので、14話と15話の幕間としてこの後アップロードします。幕間もよかったら読んでください。

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